最近のヒトリエはなんか違う、の話の補足とかお礼とか
いろいろと反応を頂いた、前回の記事について。
冒頭に書いた通り、「アクセス数とか気にせずに書きたいことを書く」というスタンスで臨んだわけですが、
何を間違ったのかヒトリエクラスタの間で小さくバズったらしく、結果的に私の過去記事で最高クラスのアクセス数を記録しました。
普段デイリー100アクセス前後のブログが、1日で700アクセスとか達するのはほんと心臓に悪い。いや、ありがたいことなのですが……。
改めてあの記事読み直すといろいろ粗いところがあって恥ずかしいのですが。
こんなに読まれるなら1日おいて精査しとけばよかったとも思いつつ、そもそもあれを1日で書き上げた理由は2月中の8回更新達成がかかっていたからなのですが。
まぁ、ああいう内容は文章を整えて隙を完全になくすとむしろ皮肉っぽくなりますからね。なんとかTIMESみたいに。なので、あのくらいの勢いでよかったのかもしれません。
最近のネットの人たちって(私自身も含めて)何かの感想を、作った相手にではなく身内に向けて発信する傾向があるみたいで、コメントも拍手もリプも送られてはきませんでしたが、
RT・いいねしてくれた人のプロフを片っ端から探し、その人たちのいいね一覧からヒトリエ話題に言及しているアカウントも探し、さらには「ヒトリエ」で検索をかけてそれっぽい話題を出しているアカウントのプロフを次々に確認するなどの妄執的なエゴサーチの結果、
たぶん本人に読まれているとは全く思っていないであろう方たちの反応まで、結構がっつり読ませてもらいました。半分くらいはいいねしました。
いろんな見方があって、当然その中には肯定も否定もあったけど、
あの記事の内容がどうこうというより、今のヒトリエのことを、単なる全肯定/全否定ではなくて、いろんな人が考えて、言葉を選びながらなんとか文章にしている感じが、なんか、いいなあって思いました。
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前回の記事で完全に触れ忘れたこと、そしてあの記事の反応でちょこちょこ触れられていたことがあって、
それはwowakaさんがインタビューで語っていた、「以前は架空の少女像というフィルターを通して歌詞を書いていた/歌っていたのが、今は自分の言葉をそのまま出している」という話。
『イマジナリー・モノフィクション』と『WONDER and WONDER』の最大の違いもおそらくはそこにあると思うんですよね。
その変化の中で生まれた歌詞を、記事内では「ダサい」「面白ワード」「芋っぽい」というシンプルな悪口で形容していて、今考えるとちょっと酷い話だと思うのですが、
このことを「人間臭くなった」という非常に的確な言葉を用いている方がいて、なるほどなと思いました。
最近のヒトリエの楽曲、wowakaさんの書く歌詞に、人間味が増してきたこと。そして、そちらにこそ魅力を感じる人がたくさんいることは、もちろん否定しないけど、
でも、その上で、私が好きだったのは、そのwowakaさんの、架空の少女像を軸に据えた、人間臭さがほとんどない、掴みどころがない、箱庭のような歌詞だったんだなと。
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2014年末の『WONDER and WONDER』以降のヒトリエのインタビューやディスクレビュー、ライブレポートなどの記事を見ると、必ずといっていいほど
「wowaka/ヒトリエは肉体性を獲得し、地に足の着いたバンドに進化した」
というような書き方をされていました。
その内容そのものは正確だと思うのですが、
本当にそれだけがバンドの、アーティストの、正しい進化の方向性なのか。変わっていくヒトリエの方向性は、誰が見ても素晴らしいものなのか。
私は、とてもそうは思えず、しかし、明確にそれを言葉にできずにもやもやしていて、
同時に、その視点からヒトリエを見た時の違和感を指摘する意見が、WaW以降、インターネットのどこにも落ちていないし、いつになっても出てこないことに、もどかしさを超えた、息苦しさと、ある種の恐怖がありました。
大手メディアだけでなく、2chでもTwitterでもYouTubeでもニコニコでもAmazonレビューでも、絶賛の嵐。今のヒトリエを観て聴いた全員が、それを強く肯定しているように見える。
にもかかわらず、私はそれを肯定できていない。
自分と同じ感性だと思っていたアーティストとそのファン、その全てに対して、私一人だけが共感できなくなってしまった。
つい2年前までは私は単なる熱狂的ヒトリエファンとして、ヒトリエの一挙手一投足に歓喜して、興奮していたのに、いつの間にかその熱狂の渦から弾き出されて、取り残されていた。
まるで私一人だけがパラレルワールドに迷い込んでいるのではないかと思うほど、”普通のヒトリエファン”との温度差を強く感じるようになりましたし、おかしいのは私の方なのだと考えました。
言い換えれば、「私が変わったのかヒトリエが変わったのかわからなかった」のが、前回の記事のような話を今までできなかった理由でした。
もしも、変わったのが私自身の方であれば、ヒトリエを責める……という言い方はおかしいですけれど、「ヒトリエは変わった」みたいな話をするのは、お門違いで、自分勝手なので。
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2015年7月の『モノクロノ・エントランス』は、そんな私の抱えていた違和感を一時的にでも吹き飛ばしてくれるようなアルバムでした。
最初に聴いた時はあまりピンと来なかったのですが、聴き込むごとにその魅力に惹かれていき、最終的にはアルバムを通しで250回は聴きました。比較として挙げるとWaWは40回くらいです。もちろんアルバム自体の長さの差もありますが。
何もかも私好み……というと傲慢な言い方ですが、こういう曲、こういう歌詞を待っていた。まさにそこの空白を埋めるような、カッコよくてハイセンスで叙情的な楽曲たちでした。
しかし、あのアルバムがあのタイミングで出たこと、そして、そのアルバムに自分が、『ルームシック・ガールズエスケープ』を初めて聴いた時、または『ワールズエンド・ダンスホール』が投稿された時、と同じように心酔できたことは、
「私が変わったのではなく、ヒトリエが変わったのだ」という1つの根拠にもなりました。以前のヒトリエやwowakaさんのような楽曲さえ聴ければ、私の方は以前のようにまた熱狂できたわけですから。
そして、そこから『シャッタードール』『ワンミーツハー』『DEEPER』と、再びヒトリエの感性と自分の感性に距離が生まれていったところで、
やはりこの変化は、私の内面の変化にとどまる話ではない、という思いが強くなっていき、
それを何としてでも、他人に理解してもらえる形で発信したいと考えるようになりました。
もし、それが、本来は言葉にできるはずのものでありながら、誰も言葉にできていないのであれば、それを言葉にする作業には挑戦し甲斐があるはずだし、
その視点を持つことができるとすれば、バンド視点に寄り添った大手メディアでも、知ったかぶりの批判サイトでもなくて、ファンとしてwowakaさんやヒトリエを追いかけてきた私のような人間だけであるはずだし、
そして私がブログという場を持っている以上、そこにあえて挑戦する価値はあるんじゃないかなと。
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実を言うと、最近のヒトリエの商法に対する不満(シャッタードールの価格とかワンミーツハーのカップリングなしとか、あとフユノMVのアーススターレコードばりの中途半端な切り方とか)も最初は書いていたのですが、
最終的に、あの記事は、歌詞と曲という、現在のヒトリエのかなり狭いところ、本当に核の核だけにフォーカスすることにしました。
同様に、マネキンインザパークの頃に少し書いたような、ライブに対する違和感とか、そういうものも省きましたし、wowakaさんが写真趣味に目覚めた件も含め、MVやジャケットなどの映像面に関することも触れるのをやめました。
今のヒトリエを批判しよう、とか、問題点をあげつらおう、みたいなことがしたいわけではないし、そんなことは私じゃなくても書けることなので、
あとは、自分の違和感。「なんか違う」という感覚の言語化だけを目指そう、と。
だから、あの記事は書き終えた時点である種目標を達成しているところはあったのですが、運のよいことにいろんな方に見てもらえて、
ああいう感覚の全部でなくてもその一部について、共感してくれる人がいたり、理解してくれる人がいたり、面白いと思ってくれた人がいたりして、その意味でもやっぱり書いてよかったな、と思いました。読んでくださった方々ありがとうございました。
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いろいろ書きつつも、ヒトリエの新曲が出たらまた期待と不安を抱えながらも聴かずにはいられないと思うし、
私にとってヒトリエやwowakaさんが大切な、好きなアーティストであることに変わりはないので、今後も追いかけていくつもりだけど、
だからこそ、プラスだけでないマイナスの感情も整理しておいたほうがいいかな。という感じです。
そんな話を簡単にしようと思っていたらめっちゃ長くなってしまいました。ごめんなさい。
あ、あと、いろいろ言いつつもワンマンライブ行きます。
トーキーダンスの時は留学行ってて行けなかったので、1年ぶりのワンマン。楽しみです。「ライブのヒトリエ」のことは最近追えてなかったので、それもまた好きになれるといいな。