『ボルケニオンと機巧のマギアナ』におけるテーマ性の検証 – 嘘と偏見に向き合った”日本的ズートピア”
2016年のポケモン映画『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、
「ポケモン映画は薄っぺらい、中身がない、子ども向け」という従来の定説に反旗を覆すべく制作された映画だ。
それは、ストーリーが十分に面白く、そして感動的である、というだけにとどまらない。
信じられないかもしれないが、今年のポケモン映画は明らかにテーマ性とメッセージを帯びている。
では、果たしてこの映画は何を描き、何を伝えようとしたのか? ということを考えていきたい。
注)以下の内容は、『ボルケニオンと機巧のマギアナ』を既に視聴済みであることを前提にネタバレ込みで考察しています。
ストーリー部分の重要な結末は白文字に反転させており、それを読まなくても一応内容はわかるようになっていますが、それでもネタバレになってしまう部分が少なからずあるので、できれば一度映画を観てから読んでいただければと思います。
ネタバレのないレビューは先日書きましたこちらをどうぞ。
・【感想】『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、ここ数年のポケモン映画への不満を解消した傑作
・『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は例年の #ポケモン映画 とどう違うのか。そして、ポケモンはディズニーを目指すのか
また同時に、比較対象としてディズニー映画『ズートピア』についても触れています。こちらも重要なネタバレは避けていますが、なるべく情報を入れたくないという方はご注意ください。もうすぐBlu-rayが出るので未見の方はぜひ買いましょう。
——————–
ボルケニオンの人間不信
この映画は、ボルケニオンとサトシが不思議な鎖で繋がれてしまい、離れられなくなるところから始まる。
ボルケニオンはマギアナを守ろうとするが、そのために手を貸そうとするサトシやセレナたちを一切信用しない。
その理由としてボルケニオンはこう答える。
「人間は信用ならねえ。人間は嘘をつくからだ」
これにはちゃんと根拠がある。ボルケニオンは、かつてトレーナーに捨てられるなどの辛い過去を持ったポケモンたちが集まって暮らすネーベル高原に数百年いて、しかもそのポケモンたちを捕まえて売り捌こうとするポケモンハンターから守り続けてきた。
人間のポケモンに対する酷い仕打ちを数えきれないほど目にしてきたボルケニオンが、人間の全てに対して憎悪と疑心を持つのは、当然のことだろう。
サトシたちのマギアナやその他のポケモンたちに対する好意的な態度を見ても、ボルケニオンはなかなかサトシたちを信用しない。
一方で、サトシたちも、ボルケニオンの「これ以上関わるな」という命令には、決して首を縦に振らない。
ピカチュウやサトシのポケモンたち、そしてもちろんサトシも、これに反論しようとする。
「人間はそんなやつらばっかりじゃない」「サトシは嘘をついたりしない」。
このサトシとボルケニオンの意見の相違……厳密に言えば、ボルケニオンのサトシたちに対する敵意が、氷解していくその過程は、この映画の1つの軸である。
「人間は嘘をつくから信用できない、仲良くしてはならない」というボルケニオンの主張は、実は複数の前提の上に成り立っている。
「嘘をつく人たちを信用してはいけない」「嘘をつくのは悪いことである」
「人間は全員嘘をつく」
という3つの点だ。
このうち最初の2点はほとんど被っていて、「嘘をつく」「信じる」ことの是非・善悪についてだ。まずはその点を見ていく。
Contents
信じることは悪いこと?
嘘をつく相手を信用するのは悪いことなのか。
徹底的に他人を信用するサトシと、徹底的に他者(人間)を信用しないボルケニオンの対比はもちろん1つの軸だが、
実は、サトシ一行とは別の軸でこの問題を引き受けている人物がいる。
アゾット王国の王子・王女である、キミア・ラケル姉弟だ。
ラケルが「ジャービスを疑わない悪役」、キミアが「ジャービスを疑う味方役」と、2人は対照的な役回りになっている。
ジャービスという人物が徹底的に救いようのない悪役として最初から描かれているため、キミアが絶対的に正しいように見えるが、本当にそうなのか?
そこでキーとなるのが、途中、ジャービスの企みに気づいた後の、「改心したラケルの扱い」だった。
ラケルもいくら騙されていたとはいえ、ネーベル高原を強襲してポケモンたちを痛めつけるのを平然と眺めていたりとなかなか酷いことをしていて、そう簡単に許されていい人物でもない気がするが、
そのことを謝るラケルに対して、サトシの答えは、「ポケモンと旅に出てみたらいいよ」という一言。
この潔い対応に、サトシの他者に対する絶対的な信頼が集約されている。
嘘をつくのは悪いこと?
そもそも、「嘘をつく」というのは100%悪い行為なのか。
中盤に、こんなシーンがある。
ネーベル高原で、サトシとボルケニオンを縛り付けていた鎖を破壊するのをゴクリンが手伝ってくれる。
ところが、サトシが感謝の意を伝えるためにゴクリンを抱きしめると、ゴクリンは怯えて逃げ出す。
ボルケニオンは、「ゴクリンはトレーナーから捨てられた過去があり、捨てられる直前にトレーナーがゴクリンを抱きしめたことから、抱きしめられることにトラウマがある」ということをサトシに伝える。
そこからボルケニオンは「人間は嘘つきで、身勝手だ」という考えを改めて主張する……。
ボルケニオン含むネーベル高原のポケモンたちのトラウマの根深さを示す重要なシーン……なのだが、このエピソード、人間の目線で見直すと、ちょっとした引っ掛かりを覚えないだろうか。
人間の事情でポケモンを捨てるのは確かに身勝手だ。しかし、トレーナーが「ゴクリンを抱きしめてから逃がした」のは、「ゴクリンに嘘をついた」エピソードなのだろうか? 何か、もっと別の感情があったように思えないだろうか?
この時点で、ボルケニオンの考え方の偏りが垣間見える。
もちろん、そのトレーナーがどのような意図からその行為をしたかは定かではないが、
ボルケニオンは、「良い嘘と悪い嘘がある」という人間ならではの感性を理解できておらず、
「人間は嘘をつくから悪い」「ポケモンは嘘をつかないから善い」という単純な構図を信じていた。
そんなボルケニオンの視点のズレは、物語のラストシーンにおいて、見事に覆される。
(※以下ネタバレにつき反転)
ネーベル高原に墜落しようとする空中要塞から脱出する最中、ボルケニオンは「自分1人がここ(要塞の中心部)に残って内部から爆破させる」という提案をし、サトシたちから「それだとボルケニオンの命が危ない。脱出して外から爆破すればいい」と否定される。
それに一度は同意を示したが、ボルケニオンはサトシたちを要塞から追い出してから、1人で要塞の中央部に戻る。
サトシは爆発する空中要塞を見ながら、「嘘つき」だと小さく呟く。
(※ネタバレここまで)
ボルケニオンはサトシたちとネーベル高原のポケモンたちを確実に守るために、1つの嘘をついた。
ストーリーのクライマックスと、メッセージのクライマックスが完全に一致した、見事としか言いようのないシーンである。
そしてここで、「ポケモンは嘘をつかない」というボルケニオンの考えが、その本人の行動によって否定される。それは、「嘘も方便」などという簡単な言葉にとどまらず、もう1つの重要な意味を持っている。
種族の壁、偏見の壁
そもそも、「人間とポケモン」という二元論は正しいのか。
ボルケニオンが人間をひとまとめに扱うことにサトシが反発する流れは、物語中に何度も繰り返される。
「(サトシとボルケニオンを縛り付けている)鎖を作ったのはお前らだろ」「だから俺じゃないって」という口論もその1つ。
ボルケニオンは人間の根底にある悪意を信じて疑わない。
そして、実はこのバイアスは、最後まで否定されないのである。
映画の最後、ボルケニオンは、サトシたちにこう告げる。
「お前らみんな……ネーベル高原名誉ポケモンにしてやる」
これはWikipediaのサトシの項目にも載っているからネタバレではない。はず。
このセリフは、ボルケニオンがサトシたちに対してようやく受容を示す、綺麗なエンディングに見える。
しかし一方で、この結末は残酷だ。
ボルケニオンはどうして、「人間の中にも良いやつはいる」という結論を出さなかったのだろうか?
『ズートピア』と「もう1つのズートピア」
ここで話を一度『ズートピア』に移そう。なぜズートピアかって、あの作品もまた「種族の壁」と「バイアス」をテーマに描き、そして真正面から描き切った映画だからだ。あと、私が大ファンだからです。
『ズートピア』では、肉食動物と草食動物という大きな種族/カテゴリーの共存と衝突が描かれていた。
中盤、肉食動物が凶悪犯罪を起こす事件が多発したことで、肉食動物の生物学的、遺伝子的な危険さが問題視され、隔離すべきだという意見が草食動物の側から上がる。草食動物の方が数は圧倒的に多いため、社会の流れもそちらに傾く……。
最終的に主人公ペアであるニックとジュディの活躍によって、肉食動物と草食動物の違いは生物学的なものではなかったことが判明し、ズートピアは再び動物たちが共存できる街に戻っていく。
ところで、『ズートピア』は現行の設定になるまでに紆余曲折を経ていた。
『ズートピア』の制作史、および『ズートピア』のテーマは「差別」であるのか? – 名馬であれば馬のうち
詳しい歴史はこちらの記事を参照してほしいのだが、現行の設定になる前に、「肉食動物に首輪をつけることが義務化され、草食動物に対して明らかな被支配階級にある」というディストピアものとして構想されていた時期があった。
(公式アートブック『ジ・アート・オブ・ズートピア』でもこの時期の設定について触れられている)
しかし、この設定ではニックをはじめとする肉食動物が草食動物やズートピアを憎悪するのも当然のことだし、観客もいまいち感情移入できない……ということで路線変更が図られた。
さて。
この「2種類の種族のうち、一方が他方に対して明確に支配階級にある」という構造は、『ズートピア』では没になった。
しかし、そういう世界観をもう20年も続けているアニメ作品が日本にはある。
言うまでもなく、『ポケットモンスター』だ。
もちろん、ポケモンと人間の関係は暴力的・支配的なものではないが、
それでも、『ポケモン』が偏見・多様性・共存といったテーマを取り扱おうとするには、1つの問題が生じる。
そもそも人間とポケモンは明確に立場が違う。性質も違う。この差を「ないもの」「想像上のもの」と結論づけるのは無理があるのではないか?
無自覚な差別と、自覚的な”区別”
『ズートピア』は、草食動物と肉食動物とを区分する差が、実は生物学的な根拠なんて全くない、単なる偏見・先入観に過ぎず、本人の心持ち次第でいくらでも否定できるし、乗り越えられるし、分かり合える、といったメッセージを持っていた。
「無意識・無自覚な差別」「正義感があるからこそ(悪意なしに)抱いてしまう偏見」に対して、
「差別を正当化する理屈なんてどこにもない」、というメッセージはとても力強い。そして、この視点によって解決できる現代の問題も多い。
だが、一方で、社会には「自覚的に差別を行い、それを正当化する理屈を唱える人々」も存在している。
政治的な主張をする記事ではないのであんまり具体的な例は出したくないけれど、タイムリーなところでいえば、アメリカのトランプ大統領候補の一連の発言であったり、日本で言えばヘイトスピーチをする団体であったり、あとは「女性はアニメを作るのに向いていない」発言であったり……。
これらはいわゆる「確信犯」(誤用)だ。
「彼らは過去に○○や××をしてきた事実があるから」「実際に△△という根拠があるから」「これは差別ではなく区別だ」──そんなことを言って、社会的に危うい発言であることも自覚した上で、なお真実(だと思っているもの)を主張する。
そして、ボルケニオンやネーベル高原のポケモンたちの、人間に対する警戒もまさしくこれだ。
実際に人間に何度も傷つけられてきた事実がある。人間だけが嘘をつくという根拠がある。だから人間は危険だ……。
こういう考え方を一朝一夕で変えさせることはできないし、そもそも正すべきだと言い切れるものでもない。
この論理は完全に間違っているわけではないからだ。過去の経験則によって相手への対応を変えたり警戒心を持ったりするのは当たり前のこと。誰だってする。
ただ、それでも、1つだけ、訂正しなければならないことがあるとすれば、
予備知識はあくまで予備知識。
自分の常識と目の前の現実にズレが生じた際、常識を守るために現実の解釈の方を捻じ曲げてはならない。
それをしてしまった瞬間に、予備知識は偏見に、区別は差別に変わる。
「人間は嘘をつくから信用できない」と主張し続けたボルケニオンが「嘘をつく」という前述のラストシーンは、
「人間」と「ポケモン」の区別に固執することの無意味さを示している。
この映画は、「人間とポケモンは分かり合えるのか?」、より広く言えば「違う集団が共存していくことはできるのか?」、といったことを描いているわけではない。
ある意味でそれよりもさらに難しい、「そもそも人間とポケモンって何が違うの?」「集団って何なの?」というところに焦点を合わせている。
そもそも集団というのは個人の集合体だ。
同じ人間が1人もおらず、同じポケモンがいない以上、集団を一括りに論じるのはどこかで無理が出てくる。
その時に、集団の性質や法則性に固執する必要はない。
別に「人間嫌い」と「人間大好き」の2択を迫る必要なんてない。「ほとんどの人間は嫌いだけどサトシたちは好き」と言ったって誰も怒らないのだから。
日本流の、現実的な第一歩
先程、この映画の終わり方がある種の残酷さを持っている、という風に書いた。
ボルケニオンの「人間は信用できない」という主張は、物語のエンディングを迎えても変わらない。
しかし、だからこそ、この映画は、
差別や偏見といった問題に対して、より現実的なアプローチを提示しているともいえる。
多様性の許容という観点でみると、やはり日本は欧米より遅れている点が多々ある。もちろん欧米だって、正しい社会には程遠い。
そこに対して、「差別は良くない、絶対にやめましょう」というのは簡単だし、正しい。
ただ、現実の社会からはあまりにも遠すぎる。日本社会からはなおのこと遠い。
理想として提示することは常に有意義だし、最終的に向かわなくてはならないゴールでもあるが、すぐに到達することはできない。
だから、中間地点が必要だ。
この映画はその中間地点を描いている。
たった1つの出来事で「人間は悪」から「人間は悪くない」に180度考えを改めるのは難しい。
でも、「たまには人間の中に悪くないやつもいる」、なら少しは受け入れやすい。
「人間の中にポケモンもいる」ならもっと受け入れやすい。
現実の社会でも同様の、事実に基づいた区別を判断基準にする場面は少なくないのではないだろうか。
「女性は管理職に向いていない」、「同性愛者は何となく怖い」、「□□テレビの最近のバラエティはつまらない」、「××人は性格が悪い」、「○○党には悪い人しかいない」、「△△社の商品は全部クソ」など、例を挙げればキリがない。もちろんこれを書いている私自身に当てはまるものもたくさんある。
ただ、そのような、長年培ったバイアスを、すぐに全て捨て去ることが難しいとしても、
「中には管理職に向いている女性もいる」、「××人の中にも良い人がいる」、という、例外を受け入れられるかどうかは、とても大きな差になる。
その例外が、いつかどんどん増えていって、もしかしたら、「あれ、管理職に向いている女性の割合、男性と同じくらいじゃない?」という日が来るかもしれない。
そうして、差別や偏見というものが、自然消滅するのであれば、それに越したことはない。
そして、このような、ルールを改革するのをできるだけ避けて、既存のルールの運用方法をうまく変えていくというアプローチは、日本社会に適しているようにも思う。
これこそまさしく、アメリカのディズニーがアメリカ的な理想を体現して作った『ズートピア』に対する、日本的なアンサーだ。
ポケモンにとっての、第一歩
これは余談だが、この映画が、「例外の存在を認める」「属する集団やカテゴリーを、絶対的な判断基準にしない」ということを描いているのだとしたら、そこにはもう1つの意味がある。
『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、ここ数年のポケモン映画の中で、明らかに頭1つ抜きんでた、完成度の高さと強いメッセージ性を持った作品だ。
正直なところ、アニメ映画のクオリティで、やはりポケモンはディズニーより遅れている点が多々ある。
そこに今すぐ追いつくことはできないだろう。
ただ、そのような、「ポケモン映画は子ども向けで面白くない」という人々のバイアスを、すぐに全て捨てさせることが難しいとしても、
「中には面白い作品もある」、という、例外があるかどうかは、とても大きな差になる。
その例外が、いつかどんどん増えていって、もしかしたら、「あれ、ポケモン映画、どれも面白いんじゃない?」という日が来るかもしれない。
その第一歩となるかもしれない記念碑的な映画を、劇場で観られるのはあと10日ほどです。
皆さんもぜひ観ましょう。私は2回観ました。