『何者』感想(というよりも単なる自分自身の話)
映画『何者』観てきました。何気に公開初日。
米津さん主題歌に釣られたのと、夏あたりから何度も予告編観て気になってたのと、就活というタイムリーなネタだったのと、あと『ご本、出しときますね?』で朝井リョウさんのことを知っていたのと、いろいろ。
予告編くらいしか観ていないので、6人の男女が就活対策本部を設置してどうのこうの、みたいなことしか知りませんでしたが、めちゃ面白かったです。中高生とか30代以降とかが観て面白いかはわかりませんが、少なくとも大学3年の今の時期に観るとものすごく刺さります。
それにしても、公開時期が本当に絶妙。現4年はたぶんだいたい就活終わってて、現3年はまだ本格的には始まっていない、というこの時期じゃないとメイン客層の半分を取り逃がすのだろうなという感じ。
とりあえず大学生はマストで観に行くべき映画だと思います。就活対策としても3%くらいは役に立つ。合同会社説明会ちゃんと行かなきゃなって思いました。
あと、「就活をめぐる恋愛・友情・裏切り」と言われても、裏切る相手も恋をする相手も全くいない現実があって辛い。
そもそも就活ネタという時点で心を抉られるであろうことは想像していたので、その覚悟はできていたのですが、
それに加えてツイッターネタでさらに深く心を抉られる準備はしていなかったので、結果ボロボロになりました。
映画を観た人、もしくは原作を読んでいた人ならわかってもらえると思うのですが、ツイッターで偉そうに他人の批判をしている私みたいな人間が観ると精神を壊される映画です。もちろんそれ以外の人も。
とりあえず小説は買おうと思います。Kindle版。
ここからネタバレありの話をしますが、正直なところこの記事は何者の話というよりそれを見て考えた自分の話、みたいなところあるので、あんまり映画のレビューとかは期待しないでください。逆にそういう話目当てにこのブログを読んでくれてる方がいるなら今すぐ何者を観に行ってそれから読んでください。
(※この先ネタバレあり)
『何者』についての感想を書こうと思っても、あまりにも主人公と自分の感覚が一致しすぎていて、自然と自己分析めいたことになってしまうことを避けられません。
というのも、このブログを前から読んでくださっている方ならご存知の通り、
私は先月、他人のことを偉そうに分析していたら本人から凸られていろんな人からdisられて精神的にボコボコにされるという自業自得な一件がありまして、それをきっかけにTwitterで他者の目に晒されることに耐えられなくなってTwitterを止めてブログに引きこもっているのですが、
まあ、そういうわけで、ラストのリカの発言がもう私自身のことを刺しているとしか思えなくて悶絶しました。
特に「自分大好きだからツイート非公開にしてないんでしょ」とか「どうせ時々自分のツイート読み返してるんでしょ」みたいな台詞の攻撃力が高すぎて。その通り私も自分大好きなので自分のツイートやブログ記事よく読み返してます。
安全なところで他者を分析したい、自分を棚上げして他者を値踏みしたい、という欲求はおそらく多くの人が持っているのではないかと思うし、その主な舞台としてかつては2ちゃんねるやブログであったものがTwitterだったりしているのでしょうけど、
その先に「誰か言っているかではなく何を言っているかだけを見てほしい」「リアルな人格とは切り離したネット上の人格として扱ってほしい」というのもあって、つまり「自分の一部分だけを切り取って別の自分にしたい」というか。
「他者や事象を的確に分析する人」として扱ってほしいのであって、「分析するような立場にないダサい現実の自分」は切り離したい。
なのだけど、自分に都合の良い要素だけを集めてもう1人の自分を構成することができるなら、同様に自分に都合の悪い要素だけ集めて構成されたものもやっぱり自分で、それを突きつけられるのが最後のシーンなのかなと。
私だってこのブログのことを、高校までの友人には知られているけど、大学の友人にはあんまり見せたくないなあと思いますし、当然企業の人事担当者なんかにはなおさら知られたくないし。
まあただ、先月Twitterやめて結構経ったから一周してぎりぎり致命傷にならずに済んだというか、リアルタイムにTwitterやってる頃とか、あの炎上でdisられた直後に観てたら死んでたと思います。
あれを観て改めてTwitterなんかやらない方がいいよなとも思いました。
とはいえ、Twitterでああいうことをしてしまう人格の悪さそれ自体が変わったわけでは全くないという意味で、主人公の行動原理が痛いほどわかって、やっぱり凄くきつかったのですが……。
——————–
そもそも他人に対して何かを言うときってどうしても自分のことは棚上げせざるを得ないというか、その行為を「○○してるあなたに言われたくない」みたいな言い方で否定してしまうことはあらゆる話し合いを拒絶することだと思うのだけど、
不思議なことに、その言葉によって否定される人と否定されない人がいるように感じます。
例えば、そうですね……ワイドショーで芸能人が政治の話題にコメントすることに対して「ただのタレントが口を出すな」という批判があったら、「素人が意見して何が悪いのか?」と反論するだろうし、その反論は筋が通っていると思うのだけど、
私が政治の話題についてコメントして、それに対して「無知な大学生は黙ってろ」という批判があったら、それはとても的を射ている発言のように思えます。そして、前述の騒動で石左氏が私に対してしたことはまさしくそれなのですが。
両者のどこに違いがあるのかを考えた時に、実はそれは客観的な何かではなくて、「自分自身に対して開き直れているかどうか」という主観的な問題なのかなと。
つまり、私自身が現実の自分とネット上の自分の乖離について批判された時に、どこかで「確かにそうだな」と納得してしまう部分がある。自分がそういうことを言う立場にないという自覚がある。
そういうことに目を瞑って開き直り続けられている人もいます。
ただ、そもそも、他者の分析力が高い人間は、同時に自分自身の自己分析力も高いと思う。
だからこそ、客観的に自分を見た時に、自分が、卑しくて、ダサくて、何かを言う権利のない人間であることについて自覚があり、そこを突かれたくないと思っている。
——————–
私は「意識高い系を見下す意識低い系」が嫌いなのですが、
そうやって周りのいろんなものを見下している私は一体何なのだろうと考えることがよくあって、
そういう意味ではまさに「全員のことを笑っている」主人公と完全に一致していて。
映画だけで主人公のキャラクターを完全に把握することはできないので、これは私自身の話ですけど、
何かに無謀に打ち込んでいる人のことを馬鹿にしていると同時に羨ましくも思っていて、すごく上から目線な言い方をあえてすれば、
「自分のダサさに自覚的にならずにいられる」ことが羨ましいなと。
それは、そういう人たちを馬鹿にしている人についても同様で、
他者のことが気になって仕方ないからこそ他者のことを分析したり批評したりするし、
他者の目をいつも気にしているからこそ、そういう目を気にせずに生きている人のこと全員が嫌いで、見ているだけで苛々して、それから逃れるために「あいつらは馬鹿だから周りの目が気にならないんだ」というポジションを取ろうとする、
でもそうやって逃げている自分自身のことももちろんちゃんと見えている。
もちろん、この分析にしたって私自身が他者のことを想像しているだけであって、実際には他の人もみんな自分自身のダサさに自覚を持った上でそれに抗って何かをしているという、その他者の目に勝てない私(のような人間)の弱さだけかもしれませんが……。
——————–
これ以上クソみたいな自己分析続けてるともはや『何者』の感想でなくなるのでちょっと話題を変えて、
Twitterの使い方はほんと上手かったですね。主人公がTwitter見てるだけなのかと思いきや……というミスリードも含めて。
日本でどうしてこんなにTwitterが流行っているのか、流行るというよりもはやインフラとして根付いてる感じすらありますが、
現実世界があまりにも過去と紐づけされすぎているからこそ、そこから抜けられるように思える場所を求めているんでしょうか。
Twitterのタイムラインがどうして居心地の良い空間になるのか考えてみると、
140字という制限の中でTwitterにそれぞれの人が投稿するのは自分自身の感覚の不完全な形で、
その不完全な部分、欠けている部分、そのツイートの文脈を自分に都合よく解釈してしまえるからなのかな、と。
自分の嫌いな人や下に見ている人のツイートは、不完全な部分を悪い想像で埋めたり、もしくは埋めなかったりすることで、「こいつはこんなことも知らずに書いている」とか「このツイートにはこんな矛盾がある」みたいな受け取り方をしやすい。
その人の考えていること全てをたった140字で表現しているわけでは当然ないにもかかわらず。
少し前に話題になった貧困JKなんかまさにその1つで、「映画を観ている」「友達とランチに行っている」といった部分から想像できるそれ以外の生活や人格を、できる限りの悪意とともに補完されてしまったケースなのだろうと。
そういう「自分のフィルターを通して他者を見ている」ことについてサワ先輩が注意するわけですが、拓人がまだその言葉の真意を掴みかねているところに、リカという存在が、拓人に対して同じこと、ツイッターの発言から相手の全てを把握したような言い方をすることをやって見せる……。
拓人の裏アカの名前が『何者』というのも、
現実世界の自分と接続されない誰かでさえあれば誰でもいいから他の誰かになりたい、ということなのだろうなと。
ただ、自分ではない誰かを装ったネット上の人格は自分ではないのか? と考えると、やっぱりそれも違うというか、
「何者」アカウントのツイートがRTされて嬉しい、誰かが読んでくれて嬉しい、という感覚、自己承認欲求がそれによって満たされるのは、その人格も別の自分であるからに変わりないし、
ということはその別に作った人格だって誰かから叩かれたら(それが現実の自分と接続されていなかったとしても)辛くて苦しいに決まっているわけで、その意味でリアルだろうとネットだろうとどこのコミュニティだろうと、自分ではない誰かになんてなれないのだろうなと思います。
私なんてたまに2chに書き込んだ匿名レスを煽られただけでも傷ついてます。
——————–
ところでこの記事、まだ就活の話をしていないわけですが、
正直就活は私自身がまだインターンシップいくつか応募して落ちただけの段階なので特に言えることもない……。
けど、インターンシップでさえも落とされた時のダメージはなかなか凄くて。
「就活に強い」は単なる1つの能力に過ぎない、というのは、終盤で光太郎が語っていることでもありますが、
一方で、「今までの人生の全てを上手く伝えてください」というオールマイティ感が、自分の全てを測る物差しに感じられてしまうのもまた事実だし、
「運動ができない・勉強ができない」は別にそれだけですべてが決まる物差しではなかったけれど、「就職ができない・仕事ができない」は確実にその人の欠陥として認識される(できない人があまりにも少ない)のが辛いなと思います。
そして、インターネット・SNSによって普通の人が普通の自分を発信できるようになったこと、「サイレントマジョリティーの可視化」がもたらしたものは、自由な世界ではなくむしろ逆で、普通であるべきだという同調圧力を強めているようにも思えます。不謹慎狩りとかもそう。
……このあたりの「ネット/SNSに書かれていることももはや本音ではない」という話は、少し前に東浩紀さんとジェーン・スーさんが対談で語っていたこととだいたい同じなので、興味のある方は下の記事もどうぞ。
第2回 ネットは“第2の建前”を増やしただけだった<ジェーン・スー『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』×東浩紀『弱いつながり』刊行記念対談>ジェーン・スー/東浩紀-幻冬舎plus
——————–
あと、何者って聞くとどうしても輪るピングドラムの「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」を連想しちゃいますね。
このあたりは細かく考察というか解釈していくとキリがないのだけど、個の確立・識別は他との比較なしにはあり得ないわけで、
「就活せずに演劇で生きていく」という姿勢がアイデンティティになるのは「他の多くの人が就活を選択する」世界であるからこそで。
ただ、同時に結局「隣の芝生は青く見える」のと同じで、人間が自分を基準に世界を見ることしかできない以上、自分自身はどうあがいても「何者にもなれない」んだろうなとも。
自分を基準にした時の自分自身はあらゆるステータスがプラスマイナスゼロなので、自分の個性とか特徴とかアイデンティティとか、自分ではわからないですよね。だからこそそれを求められる就活で悩むのでしょうけど。そういうところで自分自身に嘘をつけない人は特に。
私自身、今までの大学生活なにやってたんだろう、これでよかったのだろうか、とか、思っちゃいますけど、でも客観的に見たら留学したりバイトしたりそれなりに充実した生活を送っていたはずで、これで現状に満足しないということはたぶん何をしてても同じだっただろうな、と。
まともにサークル入ったりしてたら楽しかったのかと言えば、そうではなかったからサークルを半年経たずに辞めたりしてるわけだし、クラスのコンパ的なアレも、参加していなかったからこそ参加していたifに夢を見るけどたぶん参加してても全然楽しくなかったんだろうなとも思うし。
「自分はまだ何者でもない」という感覚はたぶんずっと消えないままで、折り合いをつけて就活だったり就職だったりをしていくのだろうな、とぼんやり思っています。
とりとめのない感じになってきたのでこのあたりで切り上げます。
とりあえず小説買ってまたいろいろ考えようと思ってます。