映画・音楽・小説の感想 access_time2018.02.07 19:36 update

加藤千恵『ラジオラジオラジオ!』──自分勝手であるという自覚を持つこと

 加藤千恵さんの小説『ラジオラジオラジオ!』を購入しました。

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 刊行されたのは2016年。『朝井リョウ・加藤千恵のオールナイトニッポン0』に触れたこともあって、その存在は以前から知っていたものの、Kindle版の価格の高さなどもあって手が出せずにいました。

 今回、「女子高生のラジオ」というテーマにちょっと興味を持ったこともあって、読んでみたのですが、当然と言えば当然ながら、もっと普遍的な、表現活動全般に関することが書かれていて、とても面白かったです。

 あらすじを説明したり良いところを紹介したりするのは得意ではないし、そんなのは公式HPやAmazonレビューを読めばいいと思うので、

 この本を読んで個人的に考えたことを、メモのようにだらだらと書いていきます。

 映画『勝手にふるえてろ』感想──自意識過剰な自己否定を肯定する物語
 先月書いたこの記事とリンクする部分があるかもしれません。観た方は併せてお願いします。

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ラジオとインターネットという自分本位なメディア

 今の双方向化したインターネット、FaceBookやTwitterなどはもはや全くの別物になってしまったが、

 前時代の静的なウェブサイト、つまり「ホームページ」や「ブログ」は、ラジオと近いところがあると思う。

 書いている最中、喋っている最中に、その相手の姿は見えない。

 明確に「発信者」と「受信者」という差があって、距離があり、発信者の権限が強く、かつ、発信者が個人であることが多い。情報番組ではないトークラジオの場合、パーソナリティー以外の人間の意志が入ることもほとんどない。

 だからカナがラジオをやると同時に自分のホームページを更新しているのもよくわかる。自分のことを一方的に語りたい、自分のことを知ってほしいという欲求が強いのだろう。

 高校生の時にラジオをやったことのある人間は少ないと思うが、中学生や高校生の間に「発信者」という立場を経験した人は、インターネットによって爆発的に増えたし、今後も増える。

 私自身はこのブログや2chやニコニコ生放送などでそういう恥ずかしい失敗をした経験が何度もあるし、おそらくもう少し下の世代であればTwitterやLINE、ツイキャスやインスタライブなどで似たような経験をしているはずだ。

 そういう経験をしてきた人がこの小説を読むと、まるで自分のことが書かれているかのように痛々しく、そして強い共感を覚えると思う。


自分以外の人間は、自分が考えるように考えない

 主人公のカナは、東京の大学に進学することを夢見ていて、つまらない地方都市を早く離れたくて、ホームページを面白くしたいと思っていて、ホームページやラジオを通して自己表現することに抵抗がない、

 そして、自分以外の人間もそう思うのが普通だと信じていて、だから地元の大学に進学するトモや、地元に帰ってきたなつねえさんの気持ちがわからない。

 他者の気持ちになることはできないのだから、他者の気持ちがわからないのは当然で、

 あとはどれだけ「自分と違う考え方をする人間がいる」ことの想像力を身に着けられるか、という違いになってくるのだと思う。

 それは言葉にするとごく簡単で当たり前の常識のようでいて、実感覚として手に入れるのは難しい。

 例えば、イヤホンをして大音量で音楽を聴いている時の鼻歌は誰にも聞こえていないんじゃないかという錯覚に陥ることは決して珍しくないと思うし、

 大人になってからもVRゴーグルをかけていてついつい声が漏れてしまって怒られる人がいるように。(2018/2/3放送『オードリーのオールナイトニッポン』、春日のフリートーク)。


 わたしはわたしの水槽の中にいる。
 なつねえさんの東京での生活について教えてもらおうとするのは、自分が東京に住みたいからだし、本やCDも、自分が好きなものを見つけたいから。なつねえさんに質問するふりをして、自分のことを話していた。
 何か大きなニュースに触れるたびイメージしていた水槽の中には、最初からわたししかいなかったのだ。中にあるように感じられていたものも、全部錯覚。いたのは、わたしたった一人。なつねえさんも、智香でさえもいない。

 自分と他人は違う。他人とは「自分と同じ感覚を持っているが、見ている世界が違う人」ではなく、「自分と違う感覚を持っていて、同じものを見ても違う世界に見える人」なのだ。

 そのようなことを、他者から教えられたり、授業で学んだりするだけでは意味がなくて、自分が実際に気づかなければならない。『ラジオラジオラジオ!』は、カナがそれに気づく瞬間を切り取った小説だと言える。

 それに気づくのは容易ではなく、痛みとセットでなければならない。だから、作中後半でカナに起こる出来事は一つ一つが痛く、鋭い。読んでいるこちらまで胸を抉られるような痛みがあって、でもそれこそが高校生が大人になっていくために必要なステップなのだとも思う。


自分の人生の主語は常に自分である

 カナはその自分本位さゆえに、他人を傷つけてしまう。それはおそらくいずれ起こるはずだった避けようのない未来で、それをどう乗り越えるかという物語だったと言える。

 そういう失敗をしてもなおラジオを続けるしホームページも続けるところにカナの自意識の強さが見えるが、それは決して悪いことではないと思う。重要なのは自分の身勝手さに気づくことなのだ。


 そして同時に思う、本当に、他者を思いやっている、他者に興味がある、という人間が、この世にどれだけいるのだろうか。

 例えば、友達と会って話を聞くのは、その話が面白いからで、自分が面白がりたいからだろうし、

 他人の辛い話を聞くのも、それを慰めることで自分が優位に立ちたいからであったりするし、

 「他人の力になりたい」というのは、「他人の力になることで、幸せになっている他人を見て自分が幸せになりたい」からではないだろうか。

 本能的に、人は傷ついてる他者を見たくないし、他人が喜んでいるのを見るのはそもそも嬉しいことなので、

 他人を喜ばせることも自分のための活動でしかないと換言できる。

 善と偽善の違いはそれが見え透いているかいないか程度にしかないのだろうし、それが悪いとは全く思わない。


 『高橋みなみ・朝井リョウ ヨブンのこと』の2018年2月4日の放送回で、結婚観に関してこのような話があった。

 結婚することで、「あなたのために料理を作った」「あなたのために稼いできた」という思いを持ってしまうと、「あなたのために○○してきたのに」と、「のに」という言葉がくっついてしまうという話から、

 朝井リョウは「自分の人生の主語を自分にすることが大切だ」という。

人に何かをする時に、主語を自分にすることが凄い大切だなと思って。
料理を作るんだったら、「自分があなたのことを大切に思っている気持ちを表すために」料理を作った、ってなると、
その後なにか裏切られるようなことがあったとしても、例えば、浮気されちゃったとか、裏切られるようなことがあったとしても、
自分の気持ちを表現するために料理を作ったんだから、そこで気持ちがねじれることがないのかなと思っていて

 身勝手でない人間はこの世にいない。身勝手でない、他人本位であるかのように振る舞う人間ほど、後々、他人から裏切られたときに一気にその不満が噴出してしまう。

 自分が身勝手であると気づいている人間と気づいていない人間に分かれるだけではないだろうか。


無関心も面白くないことも悪くない

 この話が自分に誰も聞いていないしお便りも送られてこないラジオを続けているカナの姿が、今のこの誰も見ていないブログを続けている自分とシンクロした。

 無関心よりは嫌いの方が良い、という考え方を、例えばキングコング西野のような芸能人がよく主張しているが、ビジネスとしてはともかく、趣味活動に関して言うなら私は絶対にそんなことはないと思っていて、

 嫌いなことをわざわざ伝えてくるくらいなら無関心でいてほしいし、無関心であることを伝えてくる必要もないし、知らないで良いことは知らないままでいいし、

 何の反応もないのとネガティブな反応が来るのであれば、絶対に前者の方が続けていられると思う。

 カナの友人も、なつねえさんも、実はそこまで熱心にカナのラジオを聞いていなかったという事実は、強く刺さる一方で、それを知るまでは常に心地よい想像で補えていたわけで、その興味がなかったという事実をカナ本人が知ることに、どれほどの意味があったのだろうか。

 よく、「面白くない」という言葉がまるで絶対的な正義であるようにして価値判断をする人たちが、匿名のインターネットやそれ以外の世界でもたくさん存在するけれど、

 では人間には面白くない話をする権利はないのだろうか。そして、他人からそれを取り上げる権利だけが人間にあるのか。どちらもノーだと思う。

 「好き嫌い」という軸で語るのは誰にも止められないが、「面白くない」というのを客観事実として語る力は誰にもないと思う。それを面白いと思う人が一人でもいるなら、そして、仮に一人もいなかったとしても、それを話している本人が面白いと思っているなら、それだけで存在を肯定されていい。

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 思ったよりも短くて物足りない部分もあったし、カナがこのあとどうなっていくのかを読んでみたい気持ちもありますが、それ以上に、個人的に共感できる部分が多すぎて、物語というよりもエッセイに近いような感覚で読めて、一部の人には強く訴えかけるもののある作品だと思います。

 一部の時間は回線が遅い、などといった2000年代のインターネットの雰囲気も、当時を知る人にとってはあるあるなのかもしれません。

 私自身はもう少し後に触れた世代で、キリ番や右クリック禁止をギリギリ目にしたことはあるけどそういうコミュニティに参加したことはない……という状態なので、あまりピンとは来ないのですが、当時の雰囲気を想像するだけでも面白いです。


 あ、内容と関係ないところで不満を言うと、目次がなくて章立てが一切されていないのでKindleで読みづらすぎたのだけどうにかしてほしかったです。

 後半に挿入されている短編もちょっと出来すぎているというか、ストレートに本を持ち上げすぎている感覚がありましたが……。ただ本編が面白かったので十分に満足です。

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