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『さらざんまい』『青ブタ』に共通する「自己犠牲の重さ」とwowakaさんのこと

 ※この記事にはアニメ『さらざんまい』および映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』の一部ネタバレが含まれます。ご了承ください。

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 テレビアニメ『さらざんまい』が先月最終回を迎えました。

 『ウテナ』『ピンドラ』『ユリ熊嵐』の幾原邦彦監督の最新作、奇抜な演出と予測不能な展開、それでいて直球なメッセージ性と、様々な方面で話題になったアニメですが、

 中でも過去の幾原作品へのアンチテーゼと思えるほどの「自己犠牲の否定」が描かれている点も注目を浴びていました。

 特に「自己犠牲なんてダサい」というセリフが飛び出したことは、『輪るピングドラム』のラストを考えると、衝撃的ですらありました。

 リアルとファンタジーを常に行き来しながらも、最終回では主人公3人が現実世界で生きていく姿が提示され、死んだ人は帰ってこないし犯した罪も消えない現実に、残された者だけが残る、そういう地に足を着けたエンディングは、一見すると、愛する者のために世界を書き換えてしまう『ピングドラム』とは対照的のように感じられます。


 ただ、さらざんまいで一稀が行おうとした自己犠牲が、ピンドラのそれとは全く違って、単なる現実逃避でしかない。それがなぜかと言えば、そもそも一稀は何かを諦めて他人の為に尽くそうとしているわけではないからではないでしょうか。


 自己犠牲というのは、フィクションにおいて無条件に肯定、賛美されがちな行動です。

 現実世界でそういう決断を下す機会はあまりない(自分が犠牲になることで他者がその分幸せになる、というシチュエーションがそもそも少ない)こともありますが、自分の不幸を顧みずに他者の幸福のために尽くす行為を他者から非難することが凄く難しい。


 ただ、他人の為に自分が犠牲になるというのは、同時に、自分が被害者であり続ける絶対的な権利を得ることでもあります。

 自己を犠牲にして死ぬ側はそれ以上何か考える機会もないけれど、犠牲になって生き残った側はその後悔を一生抱えて生きることになります。

 『さらざんまい』における一稀と春河の関係も、ある種それに近いところがあって、下半身不随になりながらそれについて兄を責めない春河よりも、そうさせた罪をずっと背負って生きる一稀の方が苦しんでいる。

 だからこそ一稀の自己犠牲願望がピンドラのそれと違って単なる逃避でしかない、ということでもあるのですが。

 誰だって加害者より被害者でありたいし、自分の境遇が不幸であると思いたい。しかし、それは逃げでしかない。

 「手放すな、欲望は君の命だ。」というフレーズも、後ろ向きな破滅願望ではなく、何がしたいかという前向きな希望を持たなくてはならないという意味にも取ることができるのではないでしょうか。

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 『さらざんまい』の最終回と同じ頃に、映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』が公開されました。

 『ゆめみる少女』のテーマも自己犠牲でした。

 特に、「自分が犠牲になれば相手が助かる」というシチュエーションで何をどう選択するか、ということが、『さらざんまい』よりもさらに明確な形でストーリーの核になっています。

 しかも特筆すべきは、咲太、麻衣、翔子という主要な人物の全員が自己犠牲を望み、同時に犠牲になろうとする大切な人を止めるという構図になっているのです。


 「相手の犠牲を受け入れて自分が生きていくことを選ぶ」というのは、ある意味では自分が犠牲になるよりよっぽど辛く過酷な決断であり、

 同時に、自分が犠牲になるのは、そういう決断を周りの人に強制的にさせることでもあって、

 それは本当に尊いことなのかと言われると疑問符が付きます。むしろ安易に楽な道に逃げ込んでいるだけではないかと。

 『ゆめみる少女』が最終的にどういう結末に着地するかは映画で実際に観て頂きたいですが、とにかくそういう、本当に相手のためになる行為とは何なのかというのを考えさせられるストーリーでした。

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 『さらざんまい』『青ブタ』からも自己犠牲の話からも一旦離れてしまうのですが、

 最近、周りの人が急に死ぬ可能性を想像すること、それに対する無力さに絶望することが凄く増えていて。

 自分が今何をどう選択しようと、大切な周りの人が事故だったり病気だったりで急に死んでしまうことがあって、それについては因果関係とか伏線とかも何もなかったりする、

 不健康な生活を送ってても別に死なない人もたくさんいるし、健康的に生活してて急死する人ももちろんいるし、悪いことばかりしていてこいつ死んだ方が社会にとってプラスの影響大きいのにみたいな人に限ってしぶとく生きていたりする、

 みたいな中で、自分がこの先の人生で起きる楽しいこととかよりも、そういう人が急に死んで二度と会えなくなることの辛さの方がよっぽど大きいと思うし、自分が生きてる理由って他人との別れを経験するためじゃないんだけどな、と思うと、凄く虚しくなるというか。


 そういうことを考えるきっかけになったのは間違いなく4月にwowakaさんが亡くなったことで、

 まあこのニュースも「そんなこともあったなあ」というレベルに落ち着いている人の方が多いだろうとは思いますけれど、個人的にはずっと引きずっていて、

 というのは、訃報があった直後にも書いたことではありますが、自分にとって、一番大切なアーティストが亡くなったんですよ。そういう言い方が適切なのかわかりませんが。二番でも三番でもなく。

 それまで、例えばニュースでの痛ましい事件だったり、遠い親戚の話だったりで、誰かが亡くなるという経験はありましたし、

 有名人の中でも自分がファンであった相手……任天堂の岩田前社長くらいしかすぐには思いつきませんが、そういうことで悲しむ経験も多少はありましたが、

 それが本当の意味で自分の身近な人も含めて誰にでも起こり得る可能性があることを今まではちゃんと理解できていなかったのだなと。


 メンバーが若くして急逝したバンドとして、今回のニュースでベガスやフジファブリックの名前がよく引き合いに出されていましたが、

 逆に言えば、本当に数えるほどしかいないわけで、

 そういう、「起こるかもしれないけど基本起こらないと思っていても間違いがないと思われること」が起きてしまうと、やっぱり今後もそういう風にしか考えられないというか、

 あえて乱暴な言葉を使いますけど、米津さんも数年のうちにいきなり死ぬんだろうなとか、そういうことを考えるわけです。

 何でwowakaさんが死んで他の人が全員生きてるんだろうかと、数あるアーティストの中でヒトリエが一番好きですっていうファンの人以外は等価の喪失感を受けなくていられるのだなあと、

 そういうの全部含めてもういろんなことに対するやる気がなくなってきていて。別に自分は不幸だっていうアピールがしたいわけではなく、そういうことが起きるのが特別なことではなく人生においてごく当たり前のことだとしたら別にこれ以上生きてる必要自体がないんじゃないかなと。


 現状自分の中で、この人が死んだら困る……困るというか、受け入れがたいほど立ち直れないなと思うのは、wowakaさんを除くと、弟と母親と親友1人と飼い猫くらいしかいないんですよ。

 それ以外の人の死は受け入れがたいほどではないというか、もちろん悲しいけどそれによってすぐに自分の生活に影響が出るわけではないなという。会社の同僚とか従兄弟とか同級生とか。でもそれは、本当の意味で、いないと困る人を失ったわけではないので。

 あと、そうですね、自分が好きだったドラマに出てた俳優の訃報とか見ても悲しいは悲しいけど別に乗り越えられるでしょうし、

 凄惨な事件とか事故で人が亡くなってニュースになる、例えば自分が高齢者の運転する車に轢かれて死んだら悲しむ人は増えるでしょうけど、それは一時的な感情の動きとしての悲しみなので。

 正直言えば、昨年秋に祖母が亡くなった時も、ギリギリそっちだったなと思うんですよ。今めちゃくちゃ酷いことを言っていますけど、でももしその時に感じたものが本物の悲しみだったとしたらwowakaさんの訃報は初めてではないはずなので、あれは偽物だったんだなと思います。

 まあだからといってそれを引きずってるとかそういうことはなく……、むしろ、こんなにも自分は精神的ダメージを受けないものなんだなと、怖くなりました。親や兄弟や従兄弟が泣いてる中、自分だけ一滴も涙が出てこないのとか、ホラー。自分はあの告別式の場に居てはいけない人間なんじゃないかと思ってしまいました。

 亡くなったことを聞いた時も、驚きはありましたが、取り戻せないこととして事実はすっと受け入れて、その後はずっと計算で動いていたような気がします。会社休めるなら休みたいなとか、夜行バスの中で小説書けるなとか、そういう打算的な部分をゼロにできない自分が本当に嫌だし、それを考えていること自体がサイコ。無理に平静を装っているとかじゃなくて、本当に平静だったような。

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 だから今回のwowakaさんの訃報と同じくらい落ち込むとしたらその数人の誰かが死んだ時で、それ以外は大丈夫なんですけど、

 でもそういう人たちが死ぬ時には順番があって、それであれば自分が最初だったらいいのになと。

 逆に自分が死んで本当の意味で悲しむ人も多分その数人しかいないだろうし、その人のために何か長生きしようとかもあんまり思えなくて。


 だから例えば自分が死ねば自分の家族が助かるみたいなシチュエーションだったら全然自分が死んだ方がいい、それは別に他人のためではなくて自分の利益だけを追求してそういう選択になると思うんですよ。

 自分が死ぬのってそんなに嫌なことかなあとも思うし。死後の世界とかを信じているわけでもないので、自分が今死んだとしたら、米津さんの新譜が聴けないとか、Splatoon 3がプレイできないとか、オードリーのオールナイトニッポンが聴けないとか、それを悔しく思う機会もなくなるので。

 むしろ自分がwowakaさんより先に死んでいたらこういう風にならずに済んだのに、生きているせいで悔しく思う機会を与えられてしまっているわけで、生きているのが失敗だったとしか言えないですよね。

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 で、まあこういうことを考えるのが普通の人間かと言えば別にそんなことはないんだろうなと思うのは、さらざんまい全編を通して燕太が取る行動……自分の欲望のために他人を傷つけたりというのを平気でできることからも見て取れて、

 そういう自分本位な人間が自分の命を投げ打って他者を助けることは確かに尊いと言って差し支えないのかなあと思うと、

 自己犠牲のようなものに尊さが与えられる条件は、その人に欲望があるかどうか、もっと言えば、自分が生き続けることに価値を感じているかどうかになるのかなと。

 正直そういう燕太の行動には1ミリも共感できなかったし何でああいう思考に至るのか全くわからなくて、サッカーゴールを自作自演で破壊するところとか意味不明だったのですが、ただ、そういう人間もいるんだろうなとも考えます。良い悪いとかそういう話ではなくて。

 これもこのブログではずっと言っていることで申し訳ないんですが、安倍首相とか松本人志みたいな人の思考回路とか行動原理とか本当に理解できなくて、何であんなことを言ったりしたりできるのかわからないんですけど、たぶんそれは一生わからないし、違う人間だからという以外に理屈のつけようがない、

 というよりも、この世界には自分と違う考え方をする人間がいるという事実を受け止めないと、正しくその人たちと同じになってしまうというか、社会の多様性を認めるっていうのはそういうことなので。

 だから燕太についても、そういう人間もいる、ということはわからなければならないと思うし、幾原監督も「『ピンドラ』や『ユリ熊嵐』の結末は、あくまであの主人公たちにとっての正解パターンでしかない」ということを伝えたかったのかもしれないなと。


 つまりwowakaさんが亡くなったことについても、

 こういう風に引きずってる人ばかりではないのも当たり前だと思うし、悲しいことは悲しいこととして切り分けながら、楽しいことを楽しめる方が良いと思うのですが、

 それこそ震災の時の不謹慎厨みたいなことを言うつもりはなく、ただ自分に対しては、そういう楽しい思いをするべきではない……というよりもそういう全部を含めて無駄な気がしてならないんですが、

 そうは言いつつも私だって、wowakaさんが亡くなってから3ヶ月経った今も別に自殺とかもしてないし普通に社会生活を送っているし、テレビ観たりラジオ観たりして楽しいこともたくさんしているんですよね。

 結局自分がこの3ヶ月していることが何かと言えば、人生に対して期待しない、世界の残酷さとか自分の無力さ、それらに対する憤りをずっと抱えていることも事実としてありながら、

 ただ自分がそれについて何かできるわけでもないので、wowakaさんが亡くなったという事実に対して向き合うことを止める時間を増やして、考えても仕方ないことを考える代わりにラジオを聴いたりテレビを観たりしている、それは、

 快楽に興じることを意図的に避ける行為によって自分を罰したところで、それで何か世界が変わるわけではない、別にwowakaさんの死の意味が変わったりもしない、という理屈によってしています。

 それは別に悪いことじゃない、というのはもちろん当たり前です。私もわかっています。

 が、それってまさにwowakaさんの死を克服して過去のものとして前に進む行為そのものであるように思うし、

 だから私は他の方と同じようにwowakaさんの死を乗り越えた側の人間なんですよね。実際には。

 ということは、結局これだけいろいろ書いておきながら、きっと自分は母親や兄弟や親友が死んだ時もそうやって数日後にはオードリーANNやテラスハウスで爆笑している人間だと思うんですよ。

 だからここまで書いてきたことは全部嘘です。すみませんでした。

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