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『HITORI-ESCAPE TOUR 2019 @ 京都磔磔』(9/3)感想

 9/3、「HITORI-ESCAPE TOUR 2019 @ 京都磔磔」に行ってきました。


 このブログがこれまでどういうスタンスでヒトリエに触れてきたかを知っていて、また、特に前回の記事を読んだ方は、

 「どうせまた逆張りヒトリエ批判記事なんだろ早く死ねばいいのに」とか思いながらこの記事を読み始めたことと思いますが、

 私もどうせきっとそうなるだろうと思いながらライブの開始を待っていました。

 つい1時間前にあれだけヒトリエに対してネガティブなことを書き散らしていたのだから、どうしたってそういう穿った目線になってしまうし、そんなスタンスではどんなに良いライブであってもそうは感じられないでしょうし、きっとライブが終わった後には「やっぱり楽しめなかった」みたいな感想になるんだろうなと。


 そんな感じだったので、特に最前の方に行ったりもせず、持っている整理番号で本来入れる時間よりもだいぶ遅れて並びましたし、

 会場の照明が消え、登場SEがかかった段階でも冷静でした。


 ところが、会場後方からメンバーの3人が入ってくるのを見た瞬間、それだけのことなのに、急に目頭が熱くなって。

 そして、1曲目の『センスレス・ワンダー』のライブだけの前奏、そしてあの象徴的なリフが聴こえた瞬間には、もう本当に自分でもよくわからない感情が爆発して、まだ歌が始まってもいないのにほとんど泣きそうになっていました。

 ライブを観てあそこまで泣きかけたことは後にも先にもないと思います。

 あのライブ。あの空間。ヒトリエのライブ。もう二度と観られないと思ったそれが目の前にある。何度もライブで聞いたセンスレスワンダーが流れる。

 頭でどれだけ難しいことを考えていても、どれだけ理屈をこねくり回しても、身体がその興奮を覚えている。

 そこには、ライブそのものを楽しむと同時に、ライブを楽しんでいる自分がいることにも喜びを覚えるメタな視点も入っていました。

 やはりここにきて良かった、いろいろ考えながらも結局ライブに行けばこれだけの歓喜を得られるのだから、自分はやっぱりヒトリエのファンだし、ヒトリエを応援し続けることになる、それはもうほとんど宿命のようなものなんだなと、


 1曲目が終わった段階ではそう思っていました。しかし、そうではありませんでした。


 『シャッタードール』、『日常と地球の額縁』と曲が続いていくうちに、

 イントロから歌い出しまでの間、何曲目になっても、無意識のうちにwowakaさんの声が聞こえることを期待している自分に気が付きました。

 ボーカルが違う。もちろんギターも1本足りないのですが、それでも演奏だけを聴けば間違いなくヒトリエのライブで、だからこそ、そこに乗るボーカルがwowakaさんのあの独特の歌声でないことの違和感が徐々に大きくなっていきました。

 『SLEEPWALK』でwowakaさんのコーラス音源が乗ること、それ自体は感動的であるのに、さらに物足りなさが増していく。

 『インパーフェクション』、『劇場街』、『リトルクライベイビー』、自分の好きな曲、思い入れの強い曲であればあるほど、自分の思い出の中のその曲との違いに引っかかってしまう。

 3人体制でちゃんと完成したライブが披露されているのに、そこに足りないものにばかり目が行ってしまう。そんなわけがないのに、『アンノウン・マザーグース』の2度目のAメロ、「つまらない茫然に溺れる暮らし」からwowakaさんのボーカルを自然と待ってしまい、そこから別の人の声が聞こえることにショックを受けてしまいました。


 『アンノウン・マザーグース』の曲中、あのシンガロング、声を出そうとしたところで、強い吐き気と息苦しさを覚えて呼吸ができなくなり、咳き込んでしまって一緒に歌うことができませんでした。それはさすがに嘘だと言われるでしょうけど本当のことです。

 もうそこからは熱くなることもできません。『トーキーダンス』『踊るマネキン、唄う阿呆』でさえも心から踊ることなんてできない。『ポラリス』を聴きながら、脳内ではずっとwowakaさんのボーカルで補完し続けている。

 いっそライブの途中で帰ってしまおうかとさえ思いました。ライブが嫌なのではなく、ここにいることが自分以外の全員に対して申し訳なくて、いたたまれない。


 wowakaさんが亡くなった後であっても、wowakaさんが歌っている音源を毎日聴くことはできるし、ライブ映像を観ることもできる、そういうヒトリエの音楽がある日常には何も変わりない、変わらずにこの半年を過ごしてきましたが、

 ただ、wowakaさんのいるライブは二度と観られない。

 ヒトリエの3人でのライブを観て、wowakaさんがもういないという事実、失われたものの大きさを、もしかしたら初めて強く実感したのかもしれません。それほどまでに心が落ちています。

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 こういう記事を書くことについて、どういう表現をしたら正しく伝わるのかわかりません、

 どう取り繕ってもたぶん読んだ人の多くを不快にさせてしまうだろうし、水を差すな黙ってろって思う人もたくさんいるのでしょうし、それは誤解でも何でもないと思いますが、

 少なくとも勘違いしてほしくないのは、ヒトリエに活動を続けてほしくないとか、そういうことは一切思っていないということです。当たり前ですが。そんな権利はもちろんないです。

 ヒトリエが活動を続けることによって救われる人が大勢いる、おそらく自分以外の全てのファンがそうだろうと思いますし、それを非難するつもりも否定する気も一切ありません。


 ただ、あくまでも私にとっては、そうして行われたライブでステージに立っていたのは、もはや自分にとってのヒトリエではなかった。

 あの夜、磔磔にいた350人のうち349人が、シノダがギターボーカルをする3人体制のヒトリエをヒトリエであると認め、応援し、そのことに救われるのだとしても、私はそうではありませんでした。

 あまりにも心が狭く、醜いことを言っていると自分でも思いますが、だからといって、この違和感を、喪失感を、衝撃を、なかったことにして、「やっぱりヒトリエのライブは最高だった」などと言うことにはどうしても耐えられない。

 今の自分は、wowakaさんのいないヒトリエを応援することができません


 ヒトリエが3人でのライブをして、その中で『アンノウン・マザーグース』や『ローリンガール』を唄ったとしても、そこにwowakaさんはいない。

 その不在だけがむしろ浮き彫りになっていく。

 「そんなことはない、あのライブは4人でのライブだった」という人もいるかもしれませんが、

 私はそうは思えませんでした。シノダさんのボーカルを聴いても、wowakaさんが乗り移っているなどとは感じられず、ただwowakaさんがいなくなったことの切なさと虚しさだけがあり、苦しさすら覚えました。


 私にとってのヒトリエは、wowakaさんがギターを弾いて歌を唄う4人組のバンドであり、

 それは、2019年4月5日で終わってしまったバンドで、活動継続もしないし、二度と復活もしないのだと。

 6月の追悼会の後に、「ヒトリエというバンドのライブにまた行けることが嬉しい」と書いたのですが、全くそうではなかった。あの幸福と興奮に満ちた非日常空間には、やっぱり二度と足を運ぶことはできない。永遠に失われてしまった。


 ヒトリエという名前を名乗ってほしくないとかそういうことでも全くなくて、ただ、あくまでも私にとっては、同じ名前で同じ曲を演奏する別のバンドだったということです。

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 6月の追悼会のライブを生で観れなかった自分にとっては、3人体制のライブを観る初めての機会であったし、

 メンバーにとっても、正式なワンマンライブは初めてだったはずですが、

 まるで初めてでないかのように、つまり、リスタートとか第2章とかそんなものではなく、今までのヒトリエと地続きになっている、「ちょっと久々のワンマンツアー」というスタンスで臨んでいるように感じられました。

 MCでwowakaさんの名前をわざわざ強調したりはせず、思い出を語って感傷に浸ったりもなく、いつも通りに。当たり前のように前を向いている。

 それは圧倒的に正しく、あるべき姿だと思います。

 wowakaさんが歩むことのできなかったその先の人生を、wowakaさんが生きていたらやろうとしていたことを、残された3人がやっていくわけではない。3人がそれぞれの人生でやっていくこと、の中にwowakaさんの音楽があるだけで。


ーー同じくその頃ボカロPとして活躍していた方というと、つい先日訃報が報じられたヒトリエのwowakaさんの存在も大きかったんじゃないかと思います。DECO*27さんとwowakaさんは、まさに戦友と言えるような間柄だったと思いますが、訃報を受けて音楽に向き合う気持ちに変化があったように感じますか?

DECO*27:変に背負おうという気持ちはないですけど、曲を作っていると、どうしたって彼の顔は浮かんできます。なので、まったく影響がないと言えば嘘になりますね。僕らはお互いに切磋琢磨してきたし、彼はボーカロイドシーンだけでなく、日本の音楽シーンに影響を与えた人だと思いますし。でも、彼がやれなかったことは、僕にできることではないんです。だから、「僕は僕で自分がやれることをしっかりとやろう」と、改めて思いました。それが僕にできることだと思っています。

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 マジカルミライでwowakaさんのための特別演出が行われても、米津さんが『海の幽霊』のインタビューでwowakaさんのことに触れても、ナブナさんがwowakaさんに捧げるアルバムとして『エルマ』をリリースしても、

 それはあくまでその人たちが自身のためにそれぞれ取った行動であって、

 それらの一つとして、wowakaさんがいないことの悲しみや辛さを埋め合わせることはない。

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 ヒトリエが3人で活動を続けることこそが、wowakaさんの音楽が残り続け、より多くの人に知られていく、何よりの力になることは、当然疑いようがないですし、それは本当に素晴らしく、ありがたいことです、

 そういったきっかけに支えられ、助けられる人も大勢いるでしょうし、それはただただ羨ましいなと思います。

 wowakaさんのことを一番にヒトリエの「リーダー」として見るのであれば、wowakaさんの存在はヒトリエのライブの中に今も息づいていると言えるでしょうし、

 そのライブを楽しめた人たちにとってはヒトリエはこれからも形を変えながら続いていくバンドであり、

 自分にはそうではなかったのは、悲しく、悔しいとも思います。でもそれはどうしようもないことです。


 もちろん、私自身も今こう思っているだけで、その先のことはわかりません、

 数年後にはこんな複雑な気持ちもすっかり風化して、ヒトリエのライブを楽しめるようになっているかもしれません。

 もしくは、そんなことを考えることすらなく新しい情報を追わなくなっているかもしれません。

 今までは「ボカロ時代みたいな曲を作ってほしい」「ワールズエンドダンスホールを毎回ライブでやってほしい」と唱え続ける面倒臭い懐古厨として、それでも10年前にwowakaさんの音楽に撃ち抜かれ、ずっと魅了され続けた人間として、ヒトリエというバンドの未来に身勝手な期待を抱いていましたが、

 そのことに対して自分が何か考えを変える機会もなければ罪を償う方法もないままに、もはやその必要もなくなりました。

 wowakaさんはボカロ時代のような曲もそうでない曲ももう二度と作ることはないし、wowakaさん以外の3人のメンバーにそれを望むことを正当化する理由なんて一つもない。ヒトリエがこのツアー以降も活動を続けるのだとしたら、それは自分にとって唯一無二の特別なバンドではなくなっていくのだと思います。

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悲しい人も、踊りたい人も、4人じゃないヒトリエなんて見たくないという人も、最近曲を知ったという人も、ヒトリエの音楽に出会って必要としてくれる全員を僕は肯定します。

 イガラシさんのこの言葉が、ライブに行く前はあまりピンと来ていなかったのですが、今ならわかります。


 私にはヒトリエの音楽が必要です。wowakaさんの音楽が必要です。

 これまでのwowakaさんとヒトリエが生み出した数々の楽曲と、それを生み出したヒトリエの4人なしには今の自分の人生はなくて、

 自分はこれからも人生の様々な場面で、または何でもない日常の中であってもそれらの楽曲を聴き続けるでしょうし、

 wowakaさんは自分にとっての憧れであり続け、その人のことを何度も思い出して、ブログやそれ以外の場所でwowakaさんについて触れることも当たり前のようにする、せざるを得ないだろうし、

 それは、もしもヒトリエが残された3人で継続することを選ばずに解散していたとしてもそうしていたはずです。

 だからこそ、wowakaさんやヒトリエがこれまで生み出してきたものと自分との間にある関係性に対して、ヒトリエのこれからの活動は全く影響しない。

 wowakaさんがもういないという事実に対して、悲しみを癒やしてくれるものはこの世界に1つもないし、何らかの答えを与えてくれるものもない。その不在を誰かが埋めてくれたり代わりになってくれたりもしない。

 自分が一人で答えを出して、一人で乗り越えていくしかない。空いた穴は一生塞がらない。

 それを改めて知ることができたライブだったので、行って良かったと思っています。行かなかったらこういう結論には至らなかっただろうし、一つの区切りをつけることができました。そういう場を作ってくれたヒトリエのメンバーとスタッフにも心からお礼を言いたいです。本当にありがとうございました。

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