ひとりごと 6年前

セーフティネット

相変わらずの春休み。  春休みだったので1泊2日の旅行なんかに行ってました。日光に。  華厳の滝とか東照宮とか。小6の修学旅行以来に行きまして、まあほとんど覚えてないんですけど。  小学校の時に、華厳の滝を見せられて、「こんなもの小学生で見たって何も感じないな…」と思った記憶はうっすらとあって、  10年ぶりに見た華厳の滝は、多少は良いものだと思いました。    ただ、自然の良さは多少わかってきているんですけど、文化的なもの、特に日本文化の良さはあんまりわからないままで、  お寺とか神社とか見てもあんまり心に響かなかったです。これはもう年齢とかの問題じゃないんだろうな。たぶん日光東照宮より越谷レイクタウンの方がテンション上がると思う。行ったことないんですよね。  歴史的な知識、つまり、日光には家康様のお墓があって、眠り猫の絵があって……という、自分の生活に直接関係なくて、たぶん一生使うことがないような知識が、頭に入っていようがいまいが何も変わらなくて、  何も変わらないものはなくてもいいものだろうと思ってしまうんですよね。これが、家康の人心掌握術の話とかだと、また違うんですけど。  政治とか経済みたいに今の暮らしに直接繋がっているものならともかく、文化史ってあんまり興味が湧かない。  そもそも過去の文化を継承することにあんまり興味がないというか、木造建築技術にしろ江戸時代の浮世絵にしろ、あとは歌舞伎とかもそうですけど、  それは現代に不要/不適だから使われて/必要とされていないのであって、必要とされていないそれを無理矢理に守っていくことの意味って何なんだろう? って時々考えます。あ、まあ、観光業のために必要って言われたら反論できないんですけど。  似たような理由で絶滅危惧種の保護とかも、大切だという感覚が全然理解できないんですよね。  人間が生まれる前から様々な自然環境の変化でいろんな種が淘汰されていたはずなのに、どうして人間が生まれた後しばらく経ったこの時代に限って、自然環境の変化についていけなかった種をわざわざ保護しようとするんでしょうか。  失われるべくして失われるものなんだから潔くバイバイしたほうがいいんじゃないのかな?って思います。 ——————–  話が一気に変わりますが、  ここ最近でいろいろと思うことがあって、割としんどいことになっています。  しんどいというか、完全に私に非がある話なので、自責の念に駆られているだけですけど。  要するにここ最近何度か話題に挙げている一人暮らし絡みで、金銭的なところをあまりにも他人任せ、というか両親任せにしすぎてたなっていう、それについて叱られて、なんというか、前提条件から見誤っていたなという……。  「両親に頼らざるを得ないのは当たり前だから、それを認めてもらえるかどうか」みたいに考えていて、それを指摘されるまでその考え方に疑問を持てなかった自分があることが本当に情けなくて。  で、そんなことを思いつつも、その話をした時の親の態度というか言い方についてもイライラしていて、まあその詳細はここでは書きませんけど、  とにかくもう親とは可能な限り早く距離を置いてしまった方がいいなと。そういう気持ちがとても強くなっていて、  なので、奨学金を借りようと思っています。……なので?かどうかわかりませんが。  自分の行動に対して自分で責任を負うことを避け続けていたなと思うし、おそらくそれができない人間だと周りから思われて、そのことで蔑まれているに違いないので、いい加減それをしなければならない。 ——————–  私は、自己の利益のため、とか、人間関係を円滑に進めるため、とか、面倒なことを避けるため、とか、  そういうことを理由・目的にして、自分の感情を抑制したり、我慢したりするのが、苦手だし、できない、というより、したくないので、  なるべくそうならないために、どんな相手に対しても、どんな物事に対しても、依存状態を作らず、「もしそれがなくなっても大丈夫なセーフティネット」を用意しておきたいと思っています。  それが1つあれば、つまり、最悪の失敗をしてしまった時の逃げ道、切り札があれば、多少無茶なこともできるし、いろいろなことを我慢しなくて済む。    例えば、どんなに仲の良い友人であっても、気に入らない部分、自分の中にある不満は外に出したい、ため込まずに放出したい、と思ってしまうのですが、  そのためには、「最悪その友人と縁を切っても後悔しない」、「本当に譲れない部分の齟齬があったら関係を断ってもいい」というスタンスをキープしておく必要があって。それは、逆に言えば、そうされてもいいという覚悟を持って人と接するということでもあるのですが。    で、成人した、ということは、家族というか両親に対しても、そういうスタンスを取り得るのだということに気づいていなかったなと。いや、これは別に、両親に感謝してないとか、縁を切りたいとか、そういうわけではなくて。  昨年末の重大ニュースでもちらっと触れたのですが、昨年秋あたりから家庭内でいろいろあって、結局、両親だって完璧な人間ではないのだという、当たり前といえば当たり前ではあることに気が付かされて。  私自身は、両親のことはすごく尊敬していて、いろいろな面で憧れているところもあるのですが、だからといって100%全てを肯定する必要はなくて、いいところもあれば悪いところもあると考える方がむしろ自然だったのに、そうしていなかったなと。  でも、親に対してそういう考え方をする、というのは、自立していなければ取ることができないスタンスであるので、それをするためにはやっぱり距離を置く……という言い方が適切なのかはわかりませんが、部分的にでもそこを離れる必要があるんじゃないかなと思いました。それは、物理的にも、精神的にも、様々なところで。 ——————–  必要不可欠でない相手に関しては遠慮なく関係を絶ったりしますけど、  その逆で、必要不可欠である相手に対してどうなるかといえば今年1月の例の記事みたいになるわけで、  そこの温度差というか、ある一線を越えた場合の心理的ハードルの低さみたいなものは時々友人から驚かれたりします。「第一印象は大人しそうなのに、仲良くなったら意外とたくさん喋る」みたいな。まあ、人と話すのが好きだからこんな ログにこんな長文を載せているわけなのですが。  で、そういう対応の差を作ろうと思うと、  「必要不可欠な相手が、自分の許せない行動を取った時にどうするか」というパラドクスがあって、  例えば私が絶対に間違っていると思うものを正しいと言い張って、しかもそこに私の納得できる論拠がない、みたいな場合。それでもその相手のことが大事で、関係を絶てない、という事態に陥らないのか、ということ。  それに対する今のところの答えは、「私が必要不可欠だと思う相手はそもそも自分の許容できない行動を取ることがない」で、  それは、「自分の許容できない行動を絶対に取らないと信じられる人間だからこそ、私が無条件に好きでいられる」ことの対偶だったりもします。    でも、それを言い出すなら、自分にとってどうしても許せないことをしたら、その時点でその相手は、「必要不可欠ではなかった」というカテゴリーに振り分け直される印象の改竄が行われるわけで、  その論理はある種無敵というか、結局のところ一緒なんじゃないのか、と思ったりもします。  だから別に不変的な話がしたいのではなくて、あくまで一時的な、今の時点での認識のカテゴリーなのだと思うのですが。  そのレベルでフィーリングが合う相手が見つかるのは幸せなことで、そういう相手と大学ではまだ知り合えていないので、やっぱり人間関係を広げていく必要があるのかなあ、なんて思ったりもします。  用意された環境で、気が合いすぎるほどに合うような相手と、偶然に出会う可能性なんてめっちゃ低いわけで、  でも、偶然に出会う可能性を信じて、その確率を上げようと思ったら出会いの試行回数を増やすしかないんですよね。この2年間、というかそれ以前の人生でもずっとそうですけど、そういう試行がほとんどできなかったので、増やしていかなければいけないなと思います。  特に、私は「気が合うかどうか」の要求レベルが高いのだから、なおのこと。ソシャゲのリセマラだって、単にSSRがほしいんじゃなくて、アイドル一致のSSRがほしい人はその分リセマラ回数も増えますしね。  ……他人との出会いをリセマラと表現している時点で、出会いなんて一生うまくいかないような気もしますけれど。 ——————–  他人との出会いがリセマラなら、出産・育児は気の長い投資だなあと最近思います。  両親が、稼いだ給料の大部分を子どもに20年も使うのは、そのあとの40年でそれ以上のリターンが見込めるからに違いないし、だからこそ、自分は少なくともそのリターンは親に返さなくてはなあと思います。  結婚して、子どもを産まずに貯金し続けていれば、老後を豊かに暮らすことができたはずなのに、子どもを産んだせいで老後が苦しくなるんだったら、わざわざ育ててきた意味がないっていう話ですからね。できる限りそうさせたくはないなあと思います。どんなところに就職するかもわからないので、そうしたい、という以上のことは強く言えないのですが……。 ——————–  久々にプライベートの暗い話になってしまってすみません。ろこどるの話とかMiitomoの話とかしたかったんですけどこの記事に混ぜるわけにもいかないのでまた今度。 ...

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