映画・音楽・小説の感想 4年前

映画『勝手にふるえてろ』感想──自意識過剰な自己否定を肯定する物語

映画『勝手にふるえてろ』を観ました。2018年の初映画。

   元々原作読者というわけではなく、公開前はどんな映画かすら知りませんでしたが、  このような絶賛を目にして、その内容もいわゆる非リア的価値観にフォーカスしたものだと知って、とても観てみたくなりました。  卒論初稿提出までは何とか気持ちを抑えつつ、提出翌日にレイトショーで観に行き、そして、この映画の素晴らしさに震えました。  この映画を観て何を感じたかということを、個人的なメモとして書いていきます。  
あらすじ:初恋相手のイチを忘れられない24歳の会社員ヨシカ(松岡茉優)は、ある日職場の同期のニから交際を申し込まれる。人生初の告白に舞い上がるも、暑苦しいニとの関係に気乗りしないヨシカは、同窓会を計画し片思いの相手イチと再会。脳内の片思いと、現実の恋愛とのはざまで悩むヨシカは……。 映画『勝手にふるえてろ』 - シネマトゥデイ
 

前置き

 前提として私は非リア女子ではなく22歳男子なので、おそらくこの映画が描いていることの全てを正しく受け止められていないと思うし、  今から書くことはそんな映画を自分と接続させた感想なので、それが「男女問わず普遍的に当てはまること」であればいいけれど、「女子向けのメッセージを無理に男性目線で捻じ曲げている」可能性も十分あり、その2つを私には区別できないので、引っ掛かったらスルーするかコメントで指摘してください。  

新しい「非リア」像の構築

 とにかく松岡茉優の非リア演技が完璧すぎる。公式やインタビューでは「オタク女子」「サブカル女子」と表現されているが、それはこの映画で描かれている像を正しく捉えていないので、  この記事ではもう少し広く括るために「非リア」という表現を使う。そもそも私は女子ではないし。    あまりにも完璧すぎて、まるで私は松岡茉優なんじゃないか? とたびたび錯覚させられてしまうほどの圧倒的なリアリティ。  それは「もし自分がこんなに可愛い女の子に生まれていたら」みたいな話では決してないし、そして、こんな可愛い女優が非リアを演じるのはおかしい、みたいなことも起きていない。  だって、非リアとかいじめられっ子にも可愛い子なんてたくさんいるし、逆に学校内ヒエラルキーの上位にいる女子が可愛くないということも全然ある。  だからビジュアルの話じゃない。「この性格でこの言動だったら、例え美人だったとしてもクラスでも浮くだろうな」という説得力がある。

本物の非リアは飲み会に出る

 同時に、それ以前の脚本・演出レベルでも「ステレオタイプ的な非リア像の否定」が行われている。  まず、SNSを馬鹿にしている。「誰にも求められていない言葉をネットに吐き出して恥ずかしくないんですか」と見下している。  これは声を大にして言いたい、SNSでわーきゃー騒ぎながらガチャの爆死スクショを貼ったりPeingでボケてみたり、という人たちは、非リアではなくリア充オタクだ。  インターネットが暗い人間のためのものだった、なんていうのは10年前の話。それはヨシカが、Facebookらしき実名制SNSに登録さえしていなかったことからも明らかだ。  もはや現実社会とネットの二項対立なんて存在しない。人間の集まるコミュニティに馴染める人と馴染めない人の二通りが存在するだけ。    さらに言えば、「飲み会には出る」「友達はいる」という点も新鮮に感じた。  一般的なイメージであれば飲み会を断る素振りを見せそうなものだが、わざわざ飲み会を断れるのはその時点で自分の軸をしっかり持ったコミュニケーション強者なわけで、  真のコミュ障は誘われたら断れずに場違いに出席してしまって愛想笑い。もっと言えばトイレに立つことすらできずに端の席でスマホ(1)私の3ヶ月前の実体験です。  そんなヨシカの使うスマホはAndroid。背面に電源ボタン。ダサい。  結局iPhoneの高校生所持率が高いのも、周りから馬鹿にされない、コミュニティで変に浮かないために持つからであって、それを気にしないオタクの方がAndroid率高いはずなのだ。iPhone + Macbookでドヤ顔しているのもその時点で勝ち組でしかない。  これら一つ一つが、単なるステレオタイプやイメージに頼っていない、きちんと現実に存在する人たちの方を向いている映画であることを証明している。  

「陰キャ」という言葉が示す次世代スクールカースト

 ちょっと『勝手にふるえてろ』から離れた余談になるが、  オタク=ダサい、みたいな価値観を一応でも持っているのはたぶん今の20代までで、現代の中高生にはおそらくそういう感覚すらないと思う。    今の中高生はみんなスマホを持っていて、Twitterを使っていて、まとめブログも見ている。ソシャゲを遊んで深夜アニメを観ているのも少数派ではない。  それはもちろん2010年代に起きたゲームやアニメの地位向上の結果だから良い変化ではあるのだけど、ともかく今の時代は「オタク」はもはや侮蔑にならないし、  だから今は、「陰キャ・陽キャ」という言葉が新たに使われ出している。この新しい区分はつまり、  「陽キャは深夜アニメ観ててもデレステ遊んでてもTwitterでなんJ語使っててもキモくないけど、陰キャはサッカーやってようが恋人がいようがキモい」時代になったということ。  後天的に手に入る属性ではなく、先天的に性格(character)が陰。暗いやつは何をしてても暗い。    だからこの映画は主に20代・30代のための映画だ。それこそ今のヨシカと同い年の、大学生か社会人なりたての人たち。  ひょっとしたら今の中高生はこの映画を見ても「タモリ倶楽部」というワードでピンと来ないのではないか(2)そもそも「タモリ=昼の顔」というイメージも昔の話だから、タモリ倶楽部の相対的なサブカル感は薄れているのではないか。  

理由があれば行動的にもなれる

 ヨシカの暗い部分に過剰な感情移入をしてしまうと、逆に後半の同窓会を企画するあたりからの行動力に若干引いてしまう人もいるかもしれないが、  これも考えれば納得がいく。  ヨシカは単純な行動を取ったり恋愛願望の強い周りの人間を「本能に流される野蛮な人間」だと蔑んでいる。  これはつまりヨシカが、事前にあれこれ考えてからでないと動けないタイプだということを示しているが、それと頭が良いことはイコールではない。  よって周りからは「よくこんな大胆なことできるな、馬鹿じゃないかな」と思いそうな行動でも、本人の中できちんとした理由付けがされていれば行動できてしまう。  それが顕著に出ていたのが、実名SNSに別のクラスメートを騙ったアカウントを作って同窓会を開く一連の流れだが、あの行動には、「最悪バレてもアカウントごと消せば自分だとはバレない」っていう心理的なセーフティーネットがあったはずだ。  俯瞰的に世界を見ているつもりの人間にとって、最悪のケースでも致命傷にならない、というのは重要なことだ。  だから、「ボヤ騒ぎを起こして死にかけてから、このまま死ぬよりは何とか今のイチに会いたい」という理由付けが必要だった。このまま会えずに死ぬのが最悪のケースだから、行動した結果で何が起きてもそれよりはマシだ、という、自分を納得させる理由。  それは言い換えれば、野蛮な自分の欲望を理性的な自分に呑ませる論理。それは野蛮な自分の欲望を元にした結論ありきの論理なので、往々にして間違っているが、本人は頭が良くないので気づかない。  私自身にもそういう経験があるので(3)現在別の彼氏がいる元カノに告白したことがあります。その顛末を書いた記事⇒同窓会と成人式と伏線回収、だからヨシカがああいう行動をしたのも腑に落ちた。  

自己否定は自意識過剰の裏返しである

 物語の後半で明かされる、いろいろな話を聞いてもらっていた話し相手が、実は全てヨシカの脳内会話で、実際は話したことがなかった。  正直この展開は割と早い段階で読めた(4)この種明かしシーンを観ながら、実はアパートの隣のオカリナさんや来留美との会話も全部妄想だった……という更なる展開を一瞬予想して怖くなったが、さすがにそこまでホラーではなかった。ヨシカのような人間に、バスで隣り合った相手に話しかけるなんてできるわけがない。  ヨシカが欲しがっているのは自分の想定通りの返答をしてくれる相手だ、という、上の理論先行型な性格とも通底していると思う。  自分の考えが世界で一番正しいと思っているので、自分のシミュレーションの通りに動かない他人は間違っている。だからイライラする。    ヨシカの性格は、自己評価が高すぎる、自己評価が高すぎることを自覚しているがプライドを捨てられないという捻じくれすぎた自意識を体現している。それを「自己評価が低い」と「自意識過剰」のどちらかに分類することしかできていなかった旧来の映画にノーを突き付けたから、この映画が、松岡茉優が、新たな代弁者としてもてはやされているのだと思う。 ...

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