ひとりごと 4年前

wowakaさんについて

 暗い、暗いの世界から  僕に「泣いて」って言うんだ  何もないよな気がしてた  何かあったかなあ  伝えなきゃいけないことが  まだまだ、あるって思うんだ  使い捨ての言葉たちだ  何があったかなあ - プリズムキューブ / wowaka
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 wowakaさんの曲を初めて知ったのはいつだったか思い出せませんが、まだニコニコにハマる前、YouTubeでボーカロイドの有名な曲を漁っている中で、『裏表ラバーズ』を自然と知ったのだろうと思います。  一方、ファンになった時期ははっきりしていて、間違いなく『ワールズエンド・ダンスホール』が投稿された瞬間、またはそれからの1ヶ月です。  このブログの過去の記事を漁っていたら、『ワールズエンド・ダンスホール』が投稿された時に、「裏表の人の新曲」という薄っぺらい紹介をしていました。文章がイタい中学生すぎたのでリンクは貼りませんが……。  それから毎日、家ではニコニコで、通学中はiPod nanoで、狂ったように聴き続けて、みるみるその虜になっていきました。
 私自身は、根っからのwowakaファンで、デビュー当時から追いかけていたわけではないものの、『ワールズエンド・ダンスホール』の動画で投稿から1か月ほど毎晩行われていたコメント色変え祭りに参加してた程度にはリアルタイム世代です。 「DEEPER」は悪くないけど、最近のヒトリエはなんか違うと思う
 今回の件で、wowakaさんのVOCALOID動画が追悼コメントで埋め尽くされていることに賛否が分かれていますが、そもそも、『ワールズエンド・ダンスホール』のコメント欄は、投稿直後から一貫して、曲の感想を書き合うような場ではなく、その楽曲をそれを愛する人たちが繋がるための媒体だったのですから、これがあるべき姿だと思います。  「平成最後の神話入りを目指そうぜ」なんて言っている人たちもいて、そういう態度を何らかの冒涜だと感じる方も中にはいるでしょうが、  2010年の熱狂をリアルタイムで体験したボカロ厨にとっては、『ワールズエンド・ダンスホール』と『モザイクロール』の最速ミリオン支援祭りも青春の一場面だったし、その空気感が残っていることはそう悪いものではないでしょう。    インターネットと社会の境目が曖昧になり、ニコニコとその他のコミュニティもすっかり一体化して、その中で無数の対立がある今となっては考えられないことですが、  あの頃は確かに「ニコ厨」「ボカロ厨」というひとまとまりのコミュニティがあって、「ニコニコ」という独立した一つの世界があって、  wowakaさんはそういう自分のいた世界の中で、紛れもなく圧倒的なヒーローとして存在していました。 --------------------

 誰が何と言おうと、私にとってVOCALOIDの全盛期は2010~11年前半に違いないのですが、  「BALLOOM」が設立され、リリース第1弾がwowakaさんのフルアルバム『アンハッピーリフレイン』だと発表された、あの瞬間こそがピークであり、この人たちが未来を変えるのだと本気で信じさせるパワーがあったように思われます。 ハチ / アゴアニキ / とく / wowaka / OSTER "BIGBAND" PROJECT / 古川本舗 / ナノウ / すこっぷ  この8人のうちのほとんどが参加する『酒処風船屋』というトークライブに、全部ではありませんが、2回も参加できたことは本当に奇跡だったと思います。 KC3Z0120   昔のHDD漁ってみて、こんな写真が残っていてびっくりしました。  撮影してオッケーだったのかどうかすらも思い出せないのですが、時効だと信じます。  あの頃はまだ顔出ししているボカロPの方が少数派だった中で、その「凄い人たち」が人間として同じ世界に存在していることを初めて実感した瞬間でもありました。    初めて行った回、wowakaさんとどうしても話がしたくて、イベント終了後にロフトプラスワン2Fの控室に戻っていたwowakaさんをスタッフの方に呼び出してもらって握手をして、話をしたことを今でも覚えています。  そして、まさか直接会えると想像も準備もしていなかったので、高校生特有の無遠慮さから、余っていたアンケート用紙の裏にサインを書いてもらうという、今思えば失礼極まりないことをしてしまいました。今だったら絶対にできない。    ただ、今となっては、むしろそちらが残っていることの方が貴重かもしれないと思います。 20190410_104206_2  こんなイベントがあったんですよ。信じられますか? 20190410_104154_2  このハート部分に自分の名前まで入れてもらってます。  あと、日付も書いてあるんですが、wowakaさんが年を間違えている(実際は2012年2月)というのもチャームポイントです。    diorama発売前のハチさんは、今よりももっと謎に包まれた人でした。「霞を食べて生きていそうなイメージ」とか言われるほど、アゴアニキさんや古川本舗さんから弄られていました。  wowakaさんはお酒を飲むとすぐに寝てしまって、ほとんど会話にも入っていなかった気がします。2回目のイベントで、「ひとりアトリエっていうバンドをヒトリエに改名しようと思っていて。凄い良い名前じゃないですか?」って話して、あんまりみんなピンと来てなかったことすら懐かしい。  それがdiorama発売時期なので2012年5月。  それから半年後、シノダ(衝動的の人)が加入して、ヒトリエ初の自主企画ライブであった「その少女、おひとりさま」で、私は初めてライブに足を運びました。 KIMG0319  当時の感覚は今でも鮮明に灼き付いていて、  激しいフラッシュの明滅で手だけが映るSisterJudy、激しいモッシュでボロボロになるワールズエンド・ダンスホール、それまでイヤホンで聴くものだけが音楽だった私にとって何もかもが新しくて、衝撃的だったし、  ライブの内容だけではなくて、一人で東京に行くこと自体がほとんどなかった高校2年生の頃に、下北沢の暗い路地で周辺住民の邪魔にならないように開場を待つ緊張感、番号順に呼ばれた時の高揚、ワンドリンクを開演前に受け取ってしまってライブ中ずっと邪魔になった失敗、ライブ終演後、小さな会場でグッズを手売りしていたwowakaさん、着ているTシャツに背中の上からサインをしてもらうファンの女性、真冬なのにヒトリエTシャツ1枚で駅まで歩いても全然寒く感じない身体の熱、  私にとってのライブとはつまりヒトリエのライブでした。    グッズを手売りしているwowakaさんに、「『酒処風船屋』の頃から……」と言ったら「そんなに前から?」と驚いてくれたことを覚えています。  直接話す機会があればそのたびにワールズエンドダンスホールカバーの音源化をお願いしてきましたが、正式な音源という意味では叶わず。  『酒処風船屋』のアンケートで、「BALLOOMメンバーでライブをやってほしい」という意見が寄せられ、その場ではメンバーも来場者も盛り上がっていたのですが、結局実現することはありませんでした。  米津さんとヒトリエのツーマンライブも、いつか観たい、いつかやってくれるはずだと、ずっと期待していたのに。 --------------------

 音楽は常にそれを聴いていた時の記憶と結びつくとよく言われますし、私にとってもそういう音楽はたくさんあるのですが、
例えば僕だったら、高校生3年生の頃、受験勉強しながら聴いてた曲をふと今聴くと、寒かったセンター試験の時期を思い出す。夜中走りながら聴いてた曲を今聴くと、その川原沿いの風景を思い出す。そうやって、音楽が人生に寄り添ってきたんですね。 isai Beat × ヒトリエ|wowakaインタビュー - 音楽ナタリー 特集・インタビュー
 ヒトリエの音楽については、そのほとんどが、もう長い間ずっと聴き続けているのでむしろ特定の時期の思い出ではなかったりします。  『ワールズエンド・ダンスホール』なんて特に、この9年間ずっと聴いてきた曲だから、投稿直後のパソコンの前に張り付いていた光景は思い出せても、音楽単体で何か特定の時期を想起させるものでは全然ない。  ただ、唯一『モノクロノ・エントランス』だけは明確に結びつきがあって、それはカナダの大学寮の風景です。  7月1日にこのアルバムが発売されて、私はそれを速攻でiPod nanoに入れて、7月3日から6週間のカナダ短期留学に行きました。慣れない土地と見知らぬ人の中、ずっと英語で授業を受けるストレスで、前半の3週間くらいはずっと帰りたくて仕方なかったのを覚えています。  そういう中で、夜、『モノクロノ・エントランス』を聴きながら、1周するだけで20分はかかる広大な大学寮をウォーキングするのが息抜きになっていました。今でも、特に『劇場街』や『モノカラー』を聴くと、7月でもまだ肌寒かったあのカナダの空気が蘇ってきます。    それ以外の楽曲に関しては、どちらかといえばライブの思い出とのリンクが強くて、   ...

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