ひとりごと 5年前

wowakaさんの追悼会について

6/1、新木場 STUDIO COASTで『wowaka追悼 於 新木場STUDIO COAST』が行われました。 20190601_140024  前の記事で「始発で行ってグッズを買いたい」とか書いていたのですが

*お願い* 13:00より前の時間は会場内への入場や待機、近隣での待機が不可能となっておりますので、 13:00より前にお越し頂くのはご遠慮下さい。 場合によっては開催続行が中止となる場合がございます。 http://www.hitorie.jp/news/#506322
 とのことで、NGでした。間違った情報を書いてしまってすみません。  普通に昼頃に来て並び、グッズを買って帰りました。 20190602_131835-1559464984414  いろいろ買いました。写真に映っているものの他にフォトアルバムとHOWLS初回盤も買いました(ダウンロード購入していてCDは持っていなかったため)。 -------------------- --------------------  追悼会はチケットを持っていなかったのでニコ生で観ました。
 チケット、払い戻しとか要らないから追加販売してほしかった気持ちは当然ありますが、今から追加で募集をかけるとキャパシティ的にどうしようもなくなるんだろうなというのは理解できます。  Twitterとかメルカリとかで募集かけている人もたくさんいますが、それは意味がないのでしませんし、Coyote Howlingのチケットを取らなかった自分の罪として背負おうと思います。  wowakaファンとヒトリエファンはイコールじゃないし、次がないイベントはその重みも違いますから、ツアーに行く気がなかったのに追悼会に行きたいと思う方がいることは理解できますけど、  やっぱり2019年のwowakaさんは2019年のヒトリエを愛してくれている人を求めていたと思うし、そこに応じられなかった自分が今更何か求めるのはずるいと思うので。
 追悼会の詳細が出た時点でこれは決めていたことです。  やっぱりこういうことがなかったとしたら、自分はCoyote Howlingにたぶん行ってなかったんじゃないかと思うし、だからライブが中止になったことに対して100%の熱量で悲しめないという中で、  そういう悲しめないこと自体が悲しいし、どこかで嘘が混じっているような、10年間ずっと熱烈なファンであったようなフリをするなという後ろ指を差される感覚があるし。たぶんそう思う人もいると思うんですよね。私のことを何ならヒトリエアンチだという目線で、石なんとかの亜種みたいにカテゴライズしている人もいると思うし、そう思われても仕方ないことをしてきたし。  wowakaさんの存在を忘れないとか、今になってwowakaさんのことを愛しているような素振りを見せるのは単に亡くなった人の悪口を言えないだけで、それは卑怯だと言われたら反論できない。  あのライブをニコ生で観て、もちろん感動したしただ最高のライブだという感情があって、  あの場に居合わせたかったという気持ちがないと言えば嘘になりますけど、それもやはり自分の罪に対する罰なのですから、甘んじて受け入れます。 --------------------  ちょうどwowakaさんが亡くなって2ヶ月が経とうとしている中で、未だに、wowakaさんのことを、当たり前のようにずっと話題に出し続けていましたが、  やっぱりどうしても消化しきれない、というか、消化という言い方も適切ではないと思いますが。  むしろ時間が経つにつれてどんどん辛くなっていく感覚が最近増していました。  それは、自分がこれまでの5年間、ヒトリエという存在の重きをライブに置いていなくて、音源、作品をメインに追いかけてきたからこそ、  ある程度時間が経った今も、「wowakaさんの新しい曲は二度と出ない」という事実の重みが全然損なわれずただひたすらに増えていくせいです。  パスピエとか米津さんの新曲が出るたびに「でもヒトリエの新曲は出ないんだ」と思ったし、5月、リリスクやオサカナがメジャーで売れていくのを見ても「でもヒトリエはもうこれ以上評価されることがない」と思ったし、  そういうものが全部虚しさに変換され、その都度wowakaさんがいない世界にいるという事実が実体となって現れる。  今までライブに1年以上行かなかった期間も普通にあったし、だからwowakaさんが亡くなってからの2ヶ月でヒトリエのライブに行けていないことそれ自体は別に、wowakaさんの存在はあまり影響してない。  同時に「あのライブ行っておけばよかった」もあんまりない。例えば、IKIやLovelessに行っていたとしても、別にそれで今のこの後悔や苦しみが何か薄れたりもしなかったでしょうし、直近のワンマン(HITORI-ESCAPE 2019)は行っていたし。  でもwowakaさんがいないことで時間が止まってしまったことは間違いなくて、それは毎日聴ける手元の音源からも感じられるからこそ、ずっと積もっていく。  別にwowakaさんのことがあって以降とかいうわけではなく、YouTubeでおすすめに表示されたりとかで、ヒトリエの何らかの曲は当たり前にほぼ毎日聴いていて。だから辛い。  訃報が出た直後にあれだけ悲しみに暮れていた人たちがどんどんそんなことなかったみたいにツイートとかし始めてるのも、もちろんそういう人たちもそれぞれに折り合いをつけて頑張っていることもわかりますけど、それ自体にも嫌悪感を押さえられないし、  そう言っている自分も、wowakaさんが亡くなったのに何をテラスハウスとかオードリーANNとか楽しんでるんだよっていうのをずっと思うし、ずっと突きつけられて、その問いから逃げ続けてる。全部嘘だし全部欺瞞。  思ってもいないことを書いている。思ってもいないことを口にしている。そうできている時点で何も思っていないんじゃないか。  これだけブログでは毎回wowakaさんのことを書いていて、そのことを思い出さなかった日は1日たりともないと思うけれど、そんなことは臆面にも出さずに会社の同僚や家族との会話を普通にしている。何ならその話題を出すのが恥ずかしいことだと思って避けている。それはwowakaさんのことで受けた悲しみは体面や恥を守るよりも優先度の低い存在だったという意味になりやしないか。  もう1つ、今回のことがずっと心の中に沈殿し続けている一番の理由は、  この出来事を自分の人生における教訓として受け取るにはあまりにも理不尽で、どうにも解釈できないから消化できないということにもあります。  あの日、「推しは推せる時に推すべき」みたいな薄っぺらいツイートをたくさん見ましたけれども、じゃあ仮に今まであったヒトリエのライブ全通してたら悲しみが軽減されてたのかって言われたら全然そんなことないし、  「アーティストは積極的に応援しよう」とか言われても、これが解散とか活動休止ならわかるけれどそれとは性質が違いすぎる。  「お前がDEEPER批判するブログを書いたことでそれを見たかもしれないwowakaさんに精神的なダメージを与えてwowakaさんを追い詰めたことが心労に繋がったかもしれない」と言われたら、それは一理あると思いますけれども、  かといって、自分がヒトリエのCDを毎回絶賛してヒトリエの布教に全力注いでいたらこうはならなかった、なんて考えるのもそれはそれで烏滸がましいでしょう。そんなわけはないので。私が何を考え、どう生きているかとは、全く及ばないところでこうなってしまった。  そして、じゃあ次こういうことが起きるかもしれないから、他の好きなアーティスト、米津さんとかパスピエとかリリスクとかを全力で推せるだけ推せ、って言われても、そうはできないですよね。  というのは、こんなこと書くのはあまりにも失礼だし不謹慎だしというのは承知の上で、ですけど、亡くなったのがwowakaさん以外の好きなアーティストであったらCoyote Howlingのチケット取ってたと思います。  だから、そういう、複数あるうちの1つとしてヒトリエを追っていた方が、他の人への想いを強めるのはわかりますけど、でも、私にとってはそうではないので。  一番の方が亡くなった時にそれ以外への想いによって代替することはできないし、むしろ逆で。最新のライブの思い出を上書きしたくないとすら思ってしまいます。 --------------------  私は、訃報があってからこれまでの約2ヶ月。  ヒトリエというバンドが、あの日、4月5日で終わったのだということを、ある程度の前提として、いろいろなことを考え、いろいろなことを書いてきました。  「もう二度とヒトリエのライブを観られない」「ヒトリエの音源は二度と出ない」と何度も書いてきたし、「ヒトリエの新曲は出ないからヒトリエメドレーを作るのは最初で最後だ」とも書いたし、  そうではない可能性にはあえて触れようとしませんでした。  もちろん、ヒトリエが続いていく可能性も想像はしていましたが、  それに対して、解散しないことが何らかの救いになるという意味の言葉を安易に発することがどうしてもできませんでした。  それが救いになるということすら冒涜のような気がしていたし、それ以上に、  そういうことが告知された時に、自分がそれを100%喜べるのか、ということについて、自信がなかった。  それは、直近ではなく、もっと先の未来で待っていることに対してです。  ヒトリエが解散せずに進んでいくとして、新メンバーが入るのか、サポートメンバーを入れるのか、3人でやっていくのか、という選択肢はあるにせよ、  どんな形であれ、バンドが続いていく以上は、次のライブか、1年後か、わかりませんが、おそらくwowakaさん抜きで制作された新曲が披露される時がいつか来るでしょう。それを受け入れられる自信が私にはありませんでした。  もっと言えば、ヒトリエがこの先も活動を続けていくのだとして、もちろん直近1年でそれが起きることは考えにくいですが、  例えば、3年後、5年後、「wowakaがいなくなった後の曲」がどんどん増えていって、「wowaka時代の曲が1~2曲しか演奏されないヒトリエのライブ」がいつかやってくるかもしれない。それに自分は堪えられるのだろうかと。  それはちょうど、2015~16年頃、VOCALOID時代の楽曲を全くやらなくなったヒトリエのライブに堪えられなくて足が遠のいてしまったように。そして、それはひょっとしたらそれ以上に残酷なことで。  これがwowakaさんが自分の意志で脱退したものであれば、もちろんその変化も当然のものとして肯定しなければならないと思います。  新メンバーの加入直後は単なるカバー、ともすればコピーバンドのように感じられるかもしれないライブが、新しいグループの形を試行錯誤しながら探る中で、このメンバーでしかあり得ないライブの完成形を体得する過程。  赤い公園、パスピエ、lyrical school、CY8ER、など、そういう一時的な痛みを乗り越えて新たな進化を遂げたグループをいくつか知ってもいます。  でも、ヒトリエについては、「wowakaさんのいない体制での新しい完成形」を見たくない、という思いも、正直あって。ずっと何かが欠けたままでいてほしい、という複雑な感情を抱いてしまいそうにも思いました。 --------------------  そして、6/1のライブがあって、期待と不安が半々だった想像が、現実のものとなり……、  「そういった不安は6/1のヒトリエのライブを観て全て吹き飛ばされた」と書くのは、嘘になるのでできません。  そう書く以外に、ヒトリエファンに納得して頂ける形でこの記事を落ち着ける方法が見当たらないんですけど、でも、できません。  「少なくとも解散はしないと思います」というシノダさんの言葉を聞いた瞬間に、ハイテンションになるようなことは決してなかったし、そうなったか……という、何とも言えない、嬉しいだけではない、複雑な気持ちに包まれました。  でも、それから1日、2日経った中で、  ヒトリエというバンドのライブにまた行けるという事実がだんだんと実感を伴ってきて。  『踊るマネキン、唄う阿呆』や『トーキーダンス』、もしかしたら『ワールズエンド・ダンスホール』で、頭を空っぽにして踊れる機会が、あのhitori-escapeで最後にならなかったんだなとか、  追悼式の会場で、ヒトリエのライブくらいでしか顔を合わせる機会のない高校時代の友人と会って、別れ際に「もうこうやって会うことも少なくなるけど…」なんて言っていたのですが、そうではなかったんだなとか、  それが喜びでなければ何なのかと。   ...

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