ひとりごと 4年前

アンビバレント

ひとりごとです。 --------------------  大学卒業して以降も交流がある大学時代の友人が2人だけいるのですが、  先々週、半年ぶりくらいに飲みに誘ったところ、見事に既読スルーされたまま10日ほど経ったので友人ではなくなりました。  いや、別にブチギレてるとかそういうことではなくて、全然落ち着いたテンションでできる話なんですけど、  現実的に考えて、こちらからの誘いに対して無反応で止まっているLINEグループで、数ヶ月後にこちらからまた飲みに誘うのは事実上不可能だし、  私が誘わない限り集まらないグループだったので、この人たちとはもう一生会う機会がないということになるし、それを数年後に振り返ると「あの時に友人ではなくなった」ということになる。  そういう選択を私以外の2人が取ったのだからそれに従うだけです。別に責めてもいないです。  きっとこれまで会っていた時にも楽しかったのは私だけで他の人はつまらなかった、面倒臭かったのでしょうし、付き合わせて申し訳ないなと思います。  と、こういう過度に自虐的なことをリアルの知り合いに言うと、「そんなことないよのカツアゲ(©山里亮太)」に見えてしまって、そういう反応をされてしまいがちなんですが、違うんですよね。  そんなことない人のする行動じゃないから、実際そうなんですよ。会って楽しいと思っていたのであれば、また会いたいと思うはずだし、会うために協力的な態度を見せるはず。そうしないのだから会ってた時に楽しくなかった、以外の結論を導けない。だから「そんなことないよ」って言われても何も響かないんですよね。 --------------------  ここ数年の自分の大きな変化として、「自分の考え・持論が一般的に多くの人に受け入れられる正当な論理ではないという自覚を持てるようになった」というのが挙げられると思っているのですが、  それは結局のところブログで何かを発信する気がなくなったことと同義であって。  書きたいこと、誰かに言いたいことは日々の中で当然浮かんでくるんですけど、それを書いても誰にも受け入れてもらえないし余計な論争になるし、私もあなたも不快になるだけだからどこにも書かない方が全員ハッピーだよね、という。  なので何か考えてもどこにも吐き出さずに忘れていく日々を過ごしているのだなあと最近改めて自覚しています。  が、それって別に私自身が優しくなったとかではなくて、ただアウトプットする前に気づくようになっただけなので、自分の中に生まれてはくるんですよね。  数週前の『あちこちオードリー』で、ピース・又吉さんが「他人の価値観や言動を否定する心の狭い人間になりたくないのに、つい嫌な目線でいろんなことに気づいてしまう自分が嫌だ」という趣旨(要約なので少し違うかも)の発言をされていたのですが、それと近いと思います。  なので、仕事などで深く関わる相手だったり、仲の良い友人だったりと、長く話をしていると、つい、冷静になれば言うべきではないこと……別に必要のないこともそうだし、"誰かを傷つける笑いの取り方"をしてしまったり、好戦的に言葉尻を捉えて反論してしまったり、  そういう自分の素の部分、嫌な部分が出てしまって、自分と関わる全ての人に対して申し訳ないなあという気分になりますし、取り繕わない自分のあまりの醜さに反吐が出る毎日です。 --------------------  最近、会社の人とちょくちょく揉める機会があって。揉めるというのも違うのですが。  あんまり波風立てないようにしてはいるのですが、そうも言ってられないことはやっぱりたまに起きて。例えば定時に帰るつもりが19時から終わりの見えないMTG入れられるとか、毎日のように20時から採用面接入れられるとか、開発時のルールが急に変更になるとか、スケジュールが大きく変わって振り回されるとか。  別に仕事に限った話ではなく、事前にわかってテンションを調節できることばかりではなくて、全く想像もしていないところから嫌な話が急に持ち込まれるのが人生ではあるのですが、  そういう、一時的にではあっても平静ではいられなくて感情的になってしまった時、の、自分の人間としてどうしようもない感じが本当に嫌になる。  Twitterを辞めたことによってインターネット上ではそれなりにそういうトラブルを避けられるようになったのですが、現実世界ではやっぱりそういう即興でのコミュニケーションを求められることはあって、そういう時の自分の感情の抑えられなさが本当に恥ずかしい。  でもその時は自分が正しいと思っているから止められないし、それを止めるにはもう誰とも関わらない方が良いんだろうなと。 --------------------  先週、宝塚劇場が一時的に公演を再開したというニュースがあって、  それ自体は別に賛否両論あって良いと思うし私自身も別に大賛成というわけではないのですが、  「これでもし感染者が出たらエンターテインメント全体が世間から非難されるから」という理由で批判している人だけは、あまりにも卑怯で醜悪なので許してはいけないなと思いました。  何で卑怯かと言えば、「世間から非難されるから」という理由には本人の価値判断が入っていないからです。それを発信している本人がこの件についてどう思っているのか、ということへの言及から逃げている。  そして、もし仮に「(私は全然間違ったことだと思っていないけれど)世間から非難されるから」という意味で使っているなら、おかしいのは世間の方なんだから戦う相手が違いますよね。  「マスコミが印象操作に使うから止めた方が良い」と言うなら、それは宝塚ではなくマスコミを叩くべきだし。  そうではないのであれば、やっぱり本当は自分も間違っていると思っているからで、だったらそう言えばいいんですよ。「感染者が出ると危険だから」なら全然いい。  でもそうせずに、直接自分の手を汚したくない、叩かれるリスクを背負いたくないから主語をすり替えている。「私自身はあなたの味方ですよ」という顔をしながら殴っているのが最低だなと。  しかも、何ならそのことに無自覚であるかもしれないのが怖いなと。別に意図的に嘘をついているわけではなく、それが正論だと本気で信じてそういうめちゃくちゃなことを言ってるんだろうなと思うんですよね。  内面化のさらに一段深いところにある現象というか。自分自身がそれに従うという意識なしに規範を受け入れている。  それこそ、アイドルの恋愛がスクープされた時に、「恋愛がスクープされたらファンが減るから控えるべき」とかも、いや、それで離れるファンの方がおかしいよね、という話だし、  芸能人の不倫や不祥事に対して「不倫しても別に犯罪じゃないけど番組降ろされるんだから」とか、  自民党の不祥事報道に対して「別にそれを批判しても支持率下がらないのに」とか、  そういう、一見、合理的でリアリストな振る舞いのようでいて、実際には今の社会の支配構造を肯定して全面的にsupportしてしまうロジックを、絶対に許してはいけないし、自分がそういうものに安易に乗っかっていないか常に意識しなければならないなと改めて思いました。 --------------------  自分の感情と言葉が一致していない人を見ると嫌な気持ちになります。  自分が感情的に正しいと思うことと、別の論理で正しいと導き出されることが偶然一致しているだけの人が、「論理的に考えてこれは正しいです」と主張するのは詐欺だと思うんですよね。  そこは感情と論理の両方を説明しないと嘘だと思うし、今は感情の方もちゃんと表に出すことが、現代の空気とも合っているんじゃないかなと。  それは大きな社会の話だけじゃなくて、自分の身の回りの人間に対してもそう感じることが最近特に多くて、  「Aというルールを作ると会社(組織)のためになる!」みたいな大義名分をかざしながら、実際は自分にとって心地の良いようにルール作りをしているだけの人がいて、確かにそのルール作りによって組織が得られる恩恵はあるけれど、その目的を達成するためのルールは本当にBでもCでもなくAでなくてはならないかの検証がないので、「会社のため」を最大かつ唯一の理由に挙げるには不適切ですよね、とか。  「これをすることが私にとってもあなたにとっても幸福量の総和が最大になるから」みたいなことを主張しつつ、実際には自分100相手50で合計150みたいなラインの提案を押し付けてきて、こちらの視点だとお互い60の方がマシなんですけど? みたいな。  ふわっとした例え話ばかりで申し訳ないですが。  実際には、「みんなにとって/あなたにとっても良いことだから」みたいなのは理由としてはどう考えても2番目で、1番は「自分のため」だから、他の方法で2番目の目的が達成できるとしてもそれは説得材料にならない。でも、「自分のため」という条件が最優先であることをオープンにしてこないからそもそも対話のしようがない。  そういうのを悪気なく本気で信じている人と関わるのはしんどいなあと思います。 --------------------  最近家族と接するのもしんどいです。しんどいというか、裏で私のことを嫌っているんだろうなという気持ちが日に日に強くなっていて、そろそろ限界に近づいています。  何が、とかじゃないんですよね。  「家族じゃなかったら近づきたくないなあ」と思うタイプの人間である自分が家にいることが申し訳ないなというか。自分が面白いと思ってする話とかも全部内心つまらないなと思いながら愛想笑いしているんだろうなとか。  そもそも兄弟に対して共通の話題がない。大学の話とか一応聞くけど、逆の立場で考えた時に、大学の授業の様子を毎日のように聞いてくる社会人の兄、だるすぎるな、と。  というか、それをしてくる父親との会話が全然楽しくなかったというここ数年のイメージがあるからなのですが。  とにかく自分が父親のようになっていることが嫌で嫌で仕方ない。今の自分にとって凄く呪縛になっているように思います。避ければ避けるほどむしろ近づいているような。  結局、現状自分が家族の中で一番稼いでいて、まあまあ生活費負担していて、っていう状況が、そもそも上下関係にならざるを得ないというか、怒らせるのが怖い相手になってしまっているだろうなと。自分が、いなくてもいい存在では絶対ないからこそ居心地が悪い。だったら一人暮らししてお金だけ送る方が良いんじゃないかなあ……と思ったりします。 --------------------  「『自分が嫌われていることに気づかずに、好かれていると勘違いしていること』がこの世で最も恥ずべき振る舞いである」  という考え方が、ここ数年の自分を強く縛っている価値観の軸の1つであると思うんですが、  振り返ってみるとそれはやっぱり4年前の1月、自分が強い好意を持っていて、全面的に信頼していた相手に、しかも2人同時に、裏切られる……というと被害者ぶりすぎていますが、一方的に絶縁されて、ということのダメージがあまりにも大きくて、  それを二度と起こらないように意識した結果として、この世界の全員から嫌われていることをベースに人間関係を構築しているのですが、  それから4年くらい経って、その中で捨てきれなかった数人の友人についてはさすがに、好かれてはいないまでも嫌われてもいないだろう……とぼんやり思っていたのですが、  そうでもないなあと思われるようなことが最近何度かあって、ここまで気を遣ってエネルギー使っても嫌われるんだなあという。上の大学時代の友人とか、社交性で言えば底辺に位置する私の方から定期的に飲みに誘ってお膳立てしてるっていう珍しい相手だったんですが、それが最終的にこうなるのはただただ虚しいなと。  何も考えずに自分の言いたいことを我慢せずに言っていた中学時代なんかと違って、別に好き勝手やってるわけじゃないというか何ならこっちだって別に大して楽しくなくて気を遣って人間関係やって毎回疲れて帰ってるのに、それでも喧嘩になったり絶縁されたり、ってことは、もうそもそも私が他人と親しい仲になってはいけない人間に違いないし、これからもそういう風にどんどん周りから人がいなくなる一生を送るのだろうなと思います。  と、こういう過度に自虐的なことをリアルの知り合いに言うと、「そんなことないよのカツアゲ(©山里亮太)」に見えてしまって、そういう反応をされてしまいがちなんですが、違うんですよね。  実際そうなんですよ。周りで起きていることを整理していったらそういう結論が導き出されるだけなので。「そんなこと言いつつ本当は友達欲しいんでしょ」とかも無意味。欲しい欲しくないの話ではなく、無理だ、という客観的事実の話だけをしているので。  別にノーリスクな人間関係なんてないとは思いますが、とはいえ大多数の人ってこんな当たり前のようにどんどん友人減ったりしないし、だから向いてないんだろうなと。 --------------------  関わった全ての人間を不快にさせる、いるだけで周りの人にとって邪魔である人間に何の価値があるのだろうかと思うと同時に、  親しい相手を一切作らない人生ってつまらないし無意味だと思いますけど、親しい相手を作っても最終的にこうやって捨てられて傷つくだけで、つまりどちらにしても今後の人生が楽しくなるわけがない。  なので早く死にたいですね。今すぐ絶命できるなら全然それで良い。死にたいとも違うな、生きたいと積極的に思う理由がない。別にここで世界が終わっても何の未練もないだろうなという。お金を稼いでも仕事をしても社会に貢献しても自分は幸せになれないことが決定づけられている。父親がそうであったように、万が一家族を持てたりしても最終的には自分の性格が原因で捨てられて孤独に死んでいくのでしょうし、そんな人生に何の意味があるのか。虚しい。何もする気になれない。 ...

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