2021年1月に読んだ本
年始に本を読むという目標を置いて、せっかくなのでとKindle Unlimitedの2ヶ月299円キャンペーンに登録したりしながらいろいろ読んだので備忘録的に書いておきます。来月以降はやらないかもしれません。 ちなみにネタバレしまくります。各作品ごとの感想で他の作品のネタバレはしないように気を付けてはいます。 ※Kindle Unlimited対象ではない作品も含まれています。 --------------------
本谷有希子 『静かに、ねぇ、静かに 』
[amazon_link asins='4065128684' template='Original']芥川賞受賞から2年、本谷有希子が描くSNS狂騒曲!海外旅行でインスタにアップする写真で"本当”を実感する僕たち、ネットショッピング依存症から抜け出せず夫に携帯を取り上げられた妻、自分たちだけの"印”を世間に見せるために動画撮影をする夫婦――。SNSに頼り、翻弄され、救われる私たちの空騒ぎ。うーん……。という感じ。 1本目の短編が特にですが、主人公が自分のことを正しいと信じて疑わないキャラクターに設定されているはずなのに、地の文で自分たちのことをメタ的な視点でかなり否定的に描かれている。別に主人公がそういう俯瞰と主観を持ち合わせた人間であるとかでもなく、そういう域を超えて二重人格のような語りには多少違和感があったし、あとここまで馬鹿にするからには絶対最後は痛い目に遭うんだろうなと読めてしまった。 とはいえ、著者がそれを無自覚にやった(本人はフラットなつもりがそうではなくなっている)とはさすがに思わないのでたぶん意図的なのだろうなと思うのですが、 問題はそもそもその視点が全然新しくないということ。 インスタ映えに拘りすぎてSNSでの見え方さえ良ければ現実がどうであろうと関係ない、現実の生活に満足していなくても自己顕示欲や承認欲求が満たされればそれでいい……みたいな感覚って、今更特筆すべきものだとも思わなければ、その大小を別にすれば普遍的に誰にでもある感情だと思うし、 それを「あえて誇張することで逆説的に馬鹿にする対象として描く」のは、アフィブログで5年前からさんざんやりつくされて最早「嘘松」という2文字で説明できてしまうくらいに浸透してる価値観なんで、それを2018年に、今さら小説という媒体で……。という気持ちになりました。こういう人が渋谷ハロウィンとかタピオカミルクティーとかに未だに怒ってるんだろうな。 特に1本目の短編は、「自分たちの生き方を良いと信じて疑わず、既存の価値観(社会的な地位やお金があることに価値を置くこと)を馬鹿にすることで自分を正当化するキャラクター」を描いているのに、 その価値観に理解を示さずに馬鹿にするという態度を取っているせいで、結局「自分たちは正しい、自分と相容れない価値観は正しくない」という、本来否定したいはずの対象と全く同じ主張をしてしまっている。 完全にそれを「自分とは違う人間」だと決めつけた描き方で、「自分は現代の弱者の代弁をしてあげている(自分自身はああは絶対にならないけど)」という傲慢さを感じました。 それこそ今のプペルマルチの問題とか、アイドルスパチャ依存とかも、本谷有希子さんから見たら「頭の弱い人だけが落ちるしょうもない世界」に見えるのでしょうけど、ああいうものに救いを求める、価値を感じる人たちがいるというリアルには、本人の性格だけではない形できちんと説明のつく社会的背景があるわけで、現代SNSをテーマに持ってくるならせめてそういう考え方・生き方をする人たちの理解を助けるような形にしてほしかった。 あと、そういうものを描いているのにオチが急にファンタジーなのもしょうもないなと思ってしまいました。 自分が一番嫌いなのは「現実にある社会問題をモチーフに選びながら、物語内の解決をフィクションにしてしまうこと」で、スカっとジャパンみがあるとも言い換えられるのですが。 それは現実にその問題で苦しんでいる人たちの存在に対して、寄り添うフリをして一方的に搾取して突き放してしまうような不誠実さを感じる。 パラサイトの感想の時にも同じようなことを書きました。
結局あの映画って、出発点として(おそらく)韓国で普通に存在する貧困層のリアルを描いているはずなのに、終盤にかけて衝撃的な展開が続いていく、それは確かに映画としては正しいのだけど、 結果的にストーリー全体をあり得ないこと、観客に対して「自分が今生きている世界とは関係のない話」として処理させてしまう効果を持ってしまうのではないかと。そう受け取る人が少なければ問題ないのかもしれませんが。 『シンゴジラ』を観た時も似たようなことを思って、あれも3.11のモチーフを織り込みながら最終的に都合の良い結末に結びつけてエンタメにしてしまったことで、あの一連の事象そのものを美化してしまうような作品だったので観た後に嫌悪感があったのですが。 それだったら自分は完全なフィクションから出発して「でも自分がいる世界と無関係な話ではないな」と思わせてくれる作品の方が好きだなあと。要するに『ズートピア』のことです。社会を変えることに寄与するのはどちらかといえば後者の方じゃないかと思ってはいるのですが、実際どうかはわかりません。どちらも同等に無力だという話かもしれません。 au Pay、パラサイト など | Our Story's Diary (oswdiary.net)
宇佐見りん『推し、燃ゆ』
[amazon_link asins='B08HGQXTKY' template='Original']逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ。アイドル上野真幸を“解釈”することに心血を注ぐあかり。ある日突然、推しが炎上し――。デビュー作『かか』が第33回三島賞受賞。21歳、圧巻の第二作。芥川賞。1999年生まれってマジか……。 発達障害の描写がリアル、とは言うものの、実際発達障害の人の心理がこれがリアルなのかどうかはわからなくないか……? と思ったりもしましたが、 なんというか、そもそも発達障害っていうものも別に「障害がある人/ない人」みたいな二元論じゃないはずなんですよね。一応病気として認定される便宜上のラインはあるにせよ、グラデーションのようなものであるはずで、だから主人公が自ら「自分は病気だから仕方ない」と言い訳にする自覚性も全然あり得るんだろうなあとも思うし、 漢字の書き取りは全然できないけどPCは変換機能があるからブログは書ける、みたいなことも全然あり得る。 世間的な普通にどうしても合わせることのできない主人公、というテーマは『コンビニ人間』に近いものがありますが、そちらよりもさらに残酷だと思うのは、コンビニ人間と違って明確に他者(家族)に迷惑をかけているという部分。 好き嫌いとか善し悪しではなく描く対象の違いなんですけど、これのせいで一概に「いろんな人がいていいよね」という綺麗事に落とし込めない。落とし込むことを許さない。 発達障害、またはそう認定はされない程度の性格的な問題によって、勉強ができない、働けない、他者と一緒に動くことができない……みたいな人たちは少なからずいるだろうし、その人たちに対してそれを理由に生きる権利がないと断じることは誰にもできないわけですけど、 じゃあ働けないという個性を持った人間が家族にいる場合、その対象を養う義務まで生まれてしまうのか。それは「働けないものは仕方ない」で済ませて良いことなのか。働いたり勉強したりなんて誰だって好きではないはずなのに、できないという理由でそれが許される人間がいるのか……。 理想論としては、逆に自分がいつそういう救われる立場になるかもわからないから、ということになるのだと思いますが、そんなことで簡単に解決できるものでもないし、じゃあ公平とか公正ってどのような状態を指すのでしょう。 文章というかその時々で起きていることの読解が難しいポイントが多々あって、主人公の混乱を表現しているのだとしたら上手いなあと思いつつ、 結局その推しが暴力を振るったという行為に対する主人公の解釈が最後までなかったのが気になりました。肯定するにせよ否定するにせよその事象に対して何らかの答えを都合よく出さずにいれたのかという点で。 私自身は「推す」という言葉を過剰に使う女性オタク文化圏のことはあまり好きになれない(別に男性オタク語が好きなわけでもない)し、好きなものを100%好きで居続けることができない(むしろ好きなものであるほどに自分の期待する行動を取らなかった時にガッカリする)タイプなので、主人公の感性そのものにはあまり共感できませんでしたが。 自殺を選びそうな語りがありながら、もちろんそんな安易な終わり方はしない。惰性であっても生きていくしかない、死ぬ理由がないから死んでいないだけだとしても。これだけ希望のない社会で自殺願望なんてない方が珍しいし、その上で自殺はする方が珍しいのだから当たり前。そういう意味で私が期待する誠実さは当然ありました。
ヘッセ『車輪の下で』
[amazon_link asins='B009KZ46ZG' template='Original']周囲の期待を一身に背負い猛勉強の末、神学校に合格したハンス。しかし、厳しい学校生活になじめず、次第に学業からも落ちこぼれていく。そして、友人のハイルナーが退校させられると、とうとうハンスは神経を病んでしまうのだった。療養のため故郷に戻り、そこで機械工として新たな人生を始めるが……。地方出身の優等生が、思春期の孤独と苦しみの果てに破滅へと至る姿を描いたヘッセの自伝的物語。このあらすじ、ストーリーの主要な展開からオチまで全部言ってるの酷くないですか??? 古典だからって全員がストーリー知った上で読むと思わないでほしい……。ハイルナーが退校することを事前に知らずにストーリーを追いたかった。 自分の周りの高卒で働いている人とかと話す時も思うんですが、勉強に限らず、自分のしていることの正しさに疑義を持たないということは一つの才能だなあと強く思います。自分が選べる以外の可能性のことを知れば知るほど人生は息苦しいものになっていく。 逆に故郷に戻ってそこで楽しく生きていければ良いのでしょうけど、神学校に進んでエリートコースに乗るという可能性も見てしまったから簡単には捨てられない。 ところでこの話、最終的に主人公は故郷に戻った後、機械工としての仕事に就いてすぐに事故で死ぬんですけど、これって作者にとってすごく都合の良いハッピーエンドだよなあとも。 人生に絶望した主人公がその先の人生を生きていく必要がなくなるって救いでしかないし、本当はそうではなくて、絶望した人間がその先どうやってそれに折り合いをつけて生きていくかを語ってほしいのに、と思わなくもないです。それを古典に求めても仕方ないのかもしれませんけど。
トーマス・マン『ヴェネツィアに死す』
[amazon_link asins='B00H6XBJ40' template='Original']高名な老作家グスタフ・アッシェンバッハは、ミュンヘンからヴェネツィアへと旅立つ。美しくも豪壮なリド島のホテルに滞在するうち、ポーランド人の家族に出会ったアッシェンバッハは、一家の美しい少年タッジオにつよく惹かれていく。おりしも当地にはコレラの嵐が吹き荒れて……。『魔の山』で著名なトーマス・マンの思索と物語性が生きた、衝撃の新訳。主人公が意味のない生よりも意味のある死を選ぶ話。「自分の好きな相手と一緒にいられる幸せを捨ててまで長生きすることに意味を感じない」というのは、それこそ今のコロナ禍での行動様式と繋げて語ることもできそうですね。 自分の生きる意味って何だろう、何のために生きているんだろう、みたいな問い、学生時代は無限に考えていて、それで悩んで死んでしまった方が良いんじゃないかと思ったことも何度もあったし、たぶんこのブログにもそういう思考の断片的な発露がたくさん残っているだろうと思いますけど、 そこからいろんなことを経た今は、そういうことを考えないことが唯一の正解だと自分の中で結論を出してしまっているみたいなところがあります。生きる意味なんて考えてもないに決まっている。 今の仕事を続けていく先に自分の人生の意味があるのかとか、今ある人間関係を維持していくことにどれだけの意味があるのかとかも。だってどうせ最終的には死ぬのだし、短い人生の中で全員がその意味を作れるわけがない。 そういう意味で「少なくともお金を稼げれば稼いだだけ幸せになれる」ということがわかったので、それ以外のことで悩んでも意味がないことは考えないようにしています。 コロナ禍で外出を自粛していろんなものを我慢してまで生に執着することに意味があるのかと言われれば別にないですよ。ないけどそれを言い出してしまったら料理を作る必要もないしリングフィットアドベンチャーをする必要もないし仕事を頑張る必要もないし、生きている必要なんてないんですよね。自殺する動機がないから生きているだけだし、刹那的な快楽、スタバが美味しいとかラジオが面白いとかそういうものの寄せ集め以上の意味なんて要らないです。
トーマス・マン『だまされた女』
[amazon_link asins='B00H6XBJB8' template='Original']アメリカ人青年に恋した初老の未亡人は、再び男性を愛する喜びに目覚めたのだが……(「だまされた女」)。インドの伝説の村、頭脳の優れた青年と見事な肉体の若者が美しい腰の娘に出会う。娘は女になり、目覚めた愛欲が引き起こす混乱の結末とは(「すげかえられた首」)。女盛りに向かって上りつめる女と、老いのなかでいまいちど情熱に燃える女の、対照的なエロスの魔力。『すげかえられた首』の方はまだ読んでないのですが。 ストーリーはあまりにも後味が悪くて笑ってしまった。身体と精神の繋がりをこのモチーフで表現する生々しさ。 母親が娘を呼ぶ時の呼び方が「おまえ」じゃなければ5倍くらい読みやすかったのになあと思ったり。全体的に翻訳の固さ(たぶん古語に忠実なのだと思いますが)で、各登場人物が何を言おうとしているのかいまいち掴み損ねたところがあります。 母親も娘もそれぞれに自分のことを棚に上げて語る、他人を非難しつつ同じ論理で自分を正当化して生きている。親としての責任を放棄しているとは言いつつも、子に対する親の責任とはいったい、という気持ちにも。
エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』
[amazon_link asins='4334751059' template='Original']ボクサー志望のマッツ、貧しくも秀才のマルティン、おくびょうなウーリ、詩人ジョニー、クールなゼバスティアーン。個性ゆたかな少年たちそれぞれの悩み、悲しみ、そしてあこがれ。寄宿学校に涙と笑いのクリスマスがやってきます。前半、別の学校の生徒にクラスメートが人質に取られて奪還するために決闘を申し込んでみたいな展開が微塵も共感できなかった。この時代のドイツって本当にそんなゲームめいた世界だったの…? 後半のウーリが勇気を示す流れは確かに示唆的ではあったものの、 全体的に良い人が良い人すぎるのと悪い人が悪い人すぎていろんなことが都合よく解決していく感じがあり、もう少し登場人物に深みというか複雑さがあってほしかったなあと思ってしまった。決して優等生ではない生徒たちに対して先生の対応が優しすぎるし、度を超えた行動に対しても寛容に接しすぎている。逆に実科学校の生徒は単なる悪者以上の意味を持っていないし、良くも悪くも古典という感じ。 結局どういうメッセージが込められた話なのかがよくわからず、何で読み継がれているのかはよくわかりませんでした。 ...