価値判断
1月それなりのペースで更新していた気がしたけど3回だし、ちょっと休もうと思ったらもう2月半分終わっているし、とにかく時間が経つのが速い。 時間が経つのが速いということは給料日のサイクルが速いということなので幸せです。 -------------------- 1月あたりからダラダラ書いて放置していた話題いくつか。 なんで1ヶ月くらい前から放置していたかと言えば、前回と前々回の記事を書いている途中で分割したままになっていたからなのですが。 最近聴いてる曲。
PSYQUI『Don't you want me (feat. Such)』
レコメンドされて。あらゆるメロディーとリズムが気持ちいい。Max Charm Faces 〜彼女は最高♡♡!!!!!!〜
アニメは観てないけど曲だけ聴いてハマりました。歌詞が3重にあるような楽曲の情報量が凄い。 そういえば去年は1本もアニメ観なかったのさすがに初めてかな? まあでも大人になってジャンプを買わなくなった、みたいなのと同じ感覚でアニメを観なくなったと考えるとそんなものかとも。ヒトリエ『YUBIKIRI』
良い曲。アルバム最終曲をMV公開って珍しいような。 でもやっぱりボーカルの声に慣れない。慣れないというか当たり前なんですけど別のバンドだよなと思うし、これをヒトリエではない別のバンドの新曲として急におすすめに出てきて聴いていたとしたらそんなに刺さらなかったようにも思います。ヒトリエだから聴くし良い曲だとは思うので何度も聴いてますが。 配信ライブも観ました。2日目だけ。ファンクラブ限定の方は金額がどうというよりファンクラブにわざわざ入会するのが面倒だなと思ってしまった。後でセットリストを見てもそんなに聴きたいものはなかったので。ウィンドミルかボカロ曲があったらアーカイブ買ってたかもしれませんが……。 あと、シノダさんが毎回「このクソったれな○○にwowakaより愛を込めて」という口上で『アンノウン・マザーグース』を紹介するの、この曲に込められている怒りとか憎しみみたいな感情をメンバーは当たり前のように感じ取っていたからなのかなあ……と思ったりしました。 [amazon_link asins='B08PRS5DSG' template='Original'] さすがに買おうと思っていたのですが、Blu-ray特典がライブ映像ではなかったので、だったら別にYouTube Music Premiumで聴けば良いか…となりました。すみません。 さすがに今年はもうベストソングやらなくていいかなあという気分になりつつあります。ここ数年のラインナップ見てても、あまりにも面白くないので。 -------------------- たぶん1ヶ月くらい前ですが、『やすとものいたって真剣です』のさらば青春の光ゲスト回がとても良かったです。 相方の不倫スキャンダルを聞いた時に森田が「自分もちゃんとした人間ではないので、怒りよりも面白いなという気持ちの方が先に来た」みたいに話していたのが印象的でした。ブクロさんの騒動後 怒りよりも「すげぇ」が勝った森田さんめっちゃかっこいいじゃん…あーいいコンビ#さらば青春の光#やすとものいたって真剣です@abcitaken pic.twitter.com/jMqFPJT6yM— おもち (@osaka_ikitaina) January 14, 2021多様性を肯定する社会ってこうあるべきだなと思っています。「自分は正しくて賢い人間だけど、頭の悪い人間にも手を差し延べてあげられる」みたいな上から目線の共生ではなくて、「自分もまともではないし相手もまともではない」という気持ちをみんなが持っていればもっと生きやすくなるのになと思います。 けどここに書いても仕方ないんで辞めます。 でもそういう意味でも最近さらばがオードリーの次くらいに好きな芸人になってます。 東ブクロが当たり前のようにセフレたくさんいてヤバさとかもむしろ応援したくなる。そんな程度のことを理由につまはじきにされる社会であってほしくないので。 -------------------- 今月読んだ本の記事、久々に……というほど久々でもない気もしますが、自分の攻撃性を前面に出した感じの内容になり、ちゃんといいねも少なめでした。 自分が書いた内容について何度読んでも間違ったことを書いたとは思っていないのですが、
その価値観に理解を示さずに馬鹿にするという態度を取っているせいで、結局「自分たちは正しい、自分と相容れない価値観は正しくない」という、本来否定したいはずの対象と全く同じ主張をしてしまっている。じゃあその本に対して自分がしていることは他者の価値観の否定ではないのか? ということを、この2週間ずっと考えていました。 言い訳の1つ目は、自分は他者の価値観を否定するものは嫌いで、他者への否定であってもそれ自体を攻撃してはいけない、という主張は、他者の権利への攻撃の容認になってしまうから、それは違うのではないかということ。 例えば、森元首相やトランプ前大統領の発言を否定することが、それらと同じレベルになることを指すかといえば、そうではないはずで、自分の中でそれと同じカテゴリーに入るものだった、という論。 たぶんここまでヒートアップして書いた理由はそれだと思うのですが、じゃあ自分が嫌いな考え方は本当に人格否定だけなのか、それ以外のものに攻撃したことは一切ないのかと言われると別にそうではない。ずとまよとかヒトリエに対して年末記事で書いてることも批判だし。 みたいなことを考えていった時に、自分は、自分と違う他者を理解したいのであって、受け入れたいわけではないんだなと思いました。 自分と違う考えに出会った時に、それが本当に自分にとって理解できない考え方なのか、というのを解きほぐし、突き詰めて、自分の中にある感覚との共通項を探りに行く形での共感。 例えば東ブクロさんの話にしても、自分はセフレを作る、それも複数同時にということは絶対にないと思うので行為としては理解できないけれど、本人同士が納得しているのであれば一つの人間関係の形として理解はできるし、 ずとまよファンも、自分がああいうはしゃぎ方をアーティストに対してすることはもうないだろうなと思いつつ、好きな人が多い構造は理解できるし。それこそ今なら『うっせぇわ』とかも、自分は嫌いではあるけれど、それに触れる年齢、時代背景、環境によって刺さる人は当然いるだろうなとか。 という形で歩み寄ってはいるんですけど、これって結局、 どれだけ考えても自分が1ミリも理解も共感もできないものはやっぱり良くないものと断ずることになってしまうんですよね。 その良さを誰かが語ってくれるならぜひ語ってほしいし、その内容によって自分の考えが変わることはあるはずだけど、現状もらったデータだけでは肯定のしようがない。 という態度が私にとっての「多様性」。 「他人の好き嫌いに対して、一切の価値判断をせずにあらゆるものを肯定する」という態度であるべきなのだ、という意見もあると思います。 が、それは少なくとも自分には無理だろうなと。自分以外の全てのものは他者が作り出したものであって、その全てに価値判断をしないというのは無理があると思うからです。 「そうは言っても、森元首相の発言を否定することと本谷有希子の小説を否定することのうち、前者が許されて後者が許されない理由なんて常識的に考えればわかるでしょ」と言われたら、そんなことはないです。自分の中ではどちらも他者に対する攻撃という受け入れ難いものであるし、 ここまで具体的なケースに落とし込んで冷静に見比べれば確かに答えは出るかもしれないけれど、 他人が好きなものに対して一切の否定をしない、というのであれば、じゃあ殺人とか詐欺とかが好きな人もいる…というのは極論ですけど、DVとか痴漢とか薬物とかは線引きが難しいし。法律の問題なら人種差別とか夫婦別姓の問題とか。 それこそこの自粛期間に会食に行く政治家とか、パーティーした芸能人とかも、別に100%誰が見ても悪いかと言われれば違うし、それを悪いと判断することが価値判断ではない、単なる事実の羅列だというなら、それこそ恣意的な線引きで、それ自体が価値判断になってしまう。 そういうものの一切に対して攻撃性を向けたことが一度もない人でない限り、「自分は他人の好きなものを否定したことはありません」とは言えないはずで、 そういうものに対して異を唱えようとする気持ちがある限り、他者と対立することなしには生きていけない。
頼むからもっと小説を読んでくれ…。できればラノベではなく、もう少し文章の整ったものを…。東野圭吾とか宮部みゆきとか北村薫とか、あるいは翻訳ミステリやSFもいいぞ…。そうすれば自分で文章を書くときにもう少しマシになる…。こちらも答案を解読する手間が減る…。頼む…。 #採点の祭典— 飯島明子 (@a_iijimaa1) February 4, 2021こういうツイートが荒れてるのを見かけましたが、この人にとっては別に炎上するような意見表明のつもりすらないというか。 「ラノベを読むと文章力が下がる」って別にある特定のコミュニティにいたら当然そう考える人もいるだろうなって思うんですよね。これを否定する人も、例えばこれがラノベじゃなくてゲーム・ソシャゲだったら特に違和感なく同意する人もいると思うし、一方で今度はFGOとかを持ち出して「ゲームのせいにするのは間違っている」という人もいると思う。 逆にラノベではなくてテレビバラエティを例に挙げて「千鳥やダウンタウンなどの芸人の乱れた言葉ばかりに触れていたら文章力が下がる」っていうツイートだったら、ここまで反発されなかったかもしれないし。 そういう自分の中では何の違和感も持っていない当たり前の感覚と、賛否両論であるかもしれない それであれば自分は、対立する相手のことをできる限り理解する、自分の中にある拒絶感をロジックで取り除けるようにできる限り努力する、という形に落としています。 自分の場合、薬物がダメとか殺人がダメとかも全て価値判断であって絶対的に正しいと言えるものではないと思うし、ただ自分の中ではそれが正しいと考えている、それに足るロジックもあるので、個人としては否定はしますけど。 それが、社会の大多数が良くないものとして判断しているから社会的にダメなものとしても扱われているというのは、全く別の問題であって。 が、それが正しいのかどうかはよくわかりません。 -------------------- みたいな意味で、自分が世界中のものに対して一切の悪意を持たずに生きることは不可能なんだろうなと思う一方、 それはそれとして何で私はこんなにもいろんなものが嫌いなんだろうと思います。もっといろんなものをポジティブに感受できる人間でありたかった。何を見ても無駄に考察して嫌な面ばっかり目についてしまう。 3年前に書いたこの記事からそうですけど、何でこんなにあらゆるものに対してそれは違うと言いたくなってしまうのか。 そして、それが全く根拠のない不快感だったら別にそういうものもあるな、でいいんですけど、嫌いであることに明確な論理と理由があって、理由があるからには説明したくなってしまう。それが間違っているならそれを超える論理で殴ってほしい。 そんな上記の記事が軽く炎上した後に書いた記事の締めが、
今度からTwitterなどで面倒くさい絡まれ方をしたら深呼吸して 「いや、でも、この問題に対してこの人の思考が自分の思考よりも論理的である可能性は客観的に見て低いな、だって私○○大卒だし」と言い聞かせることにしようと思いました。 当事者性は言い訳で、客観性は出しゃばりで、志乃ちゃんは自分の名前が言えない | Our...