アニメ・ゲームのこと 8年前

『ボルケニオンと機巧のマギアナ』におけるテーマ性の検証 - 嘘と偏見に向き合った”日本的ズートピア”

2016年のポケモン映画『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、  「ポケモン映画は薄っぺらい、中身がない、子ども向け」という従来の定説に反旗を覆すべく制作された映画だ。  それは、ストーリーが十分に面白く、そして感動的である、というだけにとどまらない。  信じられないかもしれないが、今年のポケモン映画は明らかにテーマ性とメッセージを帯びている。  では、果たしてこの映画は何を描き、何を伝えようとしたのか? ということを考えていきたい。    注)以下の内容は、『ボルケニオンと機巧のマギアナ』を既に視聴済みであることを前提にネタバレ込みで考察しています。  ストーリー部分の重要な結末は白文字に反転させており、それを読まなくても一応内容はわかるようになっていますが、それでもネタバレになってしまう部分が少なからずあるので、できれば一度映画を観てから読んでいただければと思います。  ネタバレのないレビューは先日書きましたこちらをどうぞ。  ・【感想】『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、ここ数年のポケモン映画への不満を解消した傑作  ・『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は例年の #ポケモン映画 とどう違うのか。そして、ポケモンはディズニーを目指すのか  また同時に、比較対象としてディズニー映画『ズートピア』についても触れています。こちらも重要なネタバレは避けていますが、なるべく情報を入れたくないという方はご注意ください。もうすぐBlu-rayが出るので未見の方はぜひ買いましょう。 -------------------- ボルケニオンの人間不信  この映画は、ボルケニオンとサトシが不思議な鎖で繋がれてしまい、離れられなくなるところから始まる。  ボルケニオンはマギアナを守ろうとするが、そのために手を貸そうとするサトシやセレナたちを一切信用しない。  その理由としてボルケニオンはこう答える。  「人間は信用ならねえ。人間は嘘をつくからだ」  これにはちゃんと根拠がある。ボルケニオンは、かつてトレーナーに捨てられるなどの辛い過去を持ったポケモンたちが集まって暮らすネーベル高原に数百年いて、しかもそのポケモンたちを捕まえて売り捌こうとするポケモンハンターから守り続けてきた。  人間のポケモンに対する酷い仕打ちを数えきれないほど目にしてきたボルケニオンが、人間の全てに対して憎悪と疑心を持つのは、当然のことだろう。  サトシたちのマギアナやその他のポケモンたちに対する好意的な態度を見ても、ボルケニオンはなかなかサトシたちを信用しない。  一方で、サトシたちも、ボルケニオンの「これ以上関わるな」という命令には、決して首を縦に振らない。  ピカチュウやサトシのポケモンたち、そしてもちろんサトシも、これに反論しようとする。  「人間はそんなやつらばっかりじゃない」「サトシは嘘をついたりしない」。  このサトシとボルケニオンの意見の相違……厳密に言えば、ボルケニオンのサトシたちに対する敵意が、氷解していくその過程は、この映画の1つの軸である。  「人間は嘘をつくから信用できない、仲良くしてはならない」というボルケニオンの主張は、実は複数の前提の上に成り立っている。 「嘘をつく人たちを信用してはいけない」  「嘘をつくのは悪いことである」  「人間は全員嘘をつく」  という3つの点だ。  このうち最初の2点はほとんど被っていて、「嘘をつく」「信じる」ことの是非・善悪についてだ。まずはその点を見ていく。  

信じることは悪いこと?

 嘘をつく相手を信用するのは悪いことなのか。  徹底的に他人を信用するサトシと、徹底的に他者(人間)を信用しないボルケニオンの対比はもちろん1つの軸だが、  実は、サトシ一行とは別の軸でこの問題を引き受けている人物がいる。  アゾット王国の王子・王女である、キミア・ラケル姉弟だ。  ラケルが「ジャービスを疑わない悪役」、キミアが「ジャービスを疑う味方役」と、2人は対照的な役回りになっている。  ジャービスという人物が徹底的に救いようのない悪役として最初から描かれているため、キミアが絶対的に正しいように見えるが、本当にそうなのか?  そこでキーとなるのが、途中、ジャービスの企みに気づいた後の、「改心したラケルの扱い」だった。  ラケルもいくら騙されていたとはいえ、ネーベル高原を強襲してポケモンたちを痛めつけるのを平然と眺めていたりとなかなか酷いことをしていて、そう簡単に許されていい人物でもない気がするが、  そのことを謝るラケルに対して、サトシの答えは、「ポケモンと旅に出てみたらいいよ」という一言。  この潔い対応に、サトシの他者に対する絶対的な信頼が集約されている。  

嘘をつくのは悪いこと?

 そもそも、「嘘をつく」というのは100%悪い行為なのか。  中盤に、こんなシーンがある。  ネーベル高原で、サトシとボルケニオンを縛り付けていた鎖を破壊するのをゴクリンが手伝ってくれる。  ところが、サトシが感謝の意を伝えるためにゴクリンを抱きしめると、ゴクリンは怯えて逃げ出す。  ボルケニオンは、「ゴクリンはトレーナーから捨てられた過去があり、捨てられる直前にトレーナーがゴクリンを抱きしめたことから、抱きしめられることにトラウマがある」ということをサトシに伝える。  そこからボルケニオンは「人間は嘘つきで、身勝手だ」という考えを改めて主張する……。  ボルケニオン含むネーベル高原のポケモンたちのトラウマの根深さを示す重要なシーン……なのだが、このエピソード、人間の目線で見直すと、ちょっとした引っ掛かりを覚えないだろうか。  人間の事情でポケモンを捨てるのは確かに身勝手だ。しかし、トレーナーが「ゴクリンを抱きしめてから逃がした」のは、「ゴクリンに嘘をついた」エピソードなのだろうか? 何か、もっと別の感情があったように思えないだろうか?  この時点で、ボルケニオンの考え方の偏りが垣間見える。  もちろん、そのトレーナーがどのような意図からその行為をしたかは定かではないが、  ボルケニオンは、「良い嘘と悪い嘘がある」という人間ならではの感性を理解できておらず、  「人間は嘘をつくから悪い」「ポケモンは嘘をつかないから善い」という単純な構図を信じていた。    そんなボルケニオンの視点のズレは、物語のラストシーンにおいて、見事に覆される。  (※以下ネタバレにつき反転)  ネーベル高原に墜落しようとする空中要塞から脱出する最中、ボルケニオンは「自分1人がここ(要塞の中心部)に残って内部から爆破させる」という提案をし、サトシたちから「それだとボルケニオンの命が危ない。脱出して外から爆破すればいい」と否定される。  それに一度は同意を示したが、ボルケニオンはサトシたちを要塞から追い出してから、1人で要塞の中央部に戻る。  サトシは爆発する空中要塞を見ながら、「嘘つき」だと小さく呟く。  (※ネタバレここまで)  ボルケニオンはサトシたちとネーベル高原のポケモンたちを確実に守るために、1つの嘘をついた。  ストーリーのクライマックスと、メッセージのクライマックスが完全に一致した、見事としか言いようのないシーンである。  そしてここで、「ポケモンは嘘をつかない」というボルケニオンの考えが、その本人の行動によって否定される。それは、「嘘も方便」などという簡単な言葉にとどまらず、もう1つの重要な意味を持っている。  

種族の壁、偏見の壁

 そもそも、「人間とポケモン」という二元論は正しいのか。  ボルケニオンが人間をひとまとめに扱うことにサトシが反発する流れは、物語中に何度も繰り返される。  「(サトシとボルケニオンを縛り付けている)鎖を作ったのはお前らだろ」「だから俺じゃないって」という口論もその1つ。  ボルケニオンは人間の根底にある悪意を信じて疑わない。  そして、実はこのバイアスは、最後まで否定されないのである。  映画の最後、ボルケニオンは、サトシたちにこう告げる。  「お前らみんな……ネーベル高原名誉ポケモンにしてやる」  これはWikipediaのサトシの項目にも載っているからネタバレではない。はず。  このセリフは、ボルケニオンがサトシたちに対してようやく受容を示す、綺麗なエンディングに見える。  しかし一方で、この結末は残酷だ。  ボルケニオンはどうして、「人間の中にも良いやつはいる」という結論を出さなかったのだろうか?  

『ズートピア』と「もう1つのズートピア」

 ここで話を一度『ズートピア』に移そう。なぜズートピアかって、あの作品もまた「種族の壁」と「バイアス」をテーマに描き、そして真正面から描き切った映画だからだ。あと、私が大ファンだからです。  『ズートピア』では、肉食動物と草食動物という大きな種族/カテゴリーの共存と衝突が描かれていた。  中盤、肉食動物が凶悪犯罪を起こす事件が多発したことで、肉食動物の生物学的、遺伝子的な危険さが問題視され、隔離すべきだという意見が草食動物の側から上がる。草食動物の方が数は圧倒的に多いため、社会の流れもそちらに傾く……。  最終的に主人公ペアであるニックとジュディの活躍によって、肉食動物と草食動物の違いは生物学的なものではなかったことが判明し、ズートピアは再び動物たちが共存できる街に戻っていく。    ところで、『ズートピア』は現行の設定になるまでに紆余曲折を経ていた。 『ズートピア』の制作史、および『ズートピア』のテーマは「差別」であるのか? ...

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『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は例年の #ポケモン映画 とどう違うのか。そして、ポケモンはディズニーを目指すのか

『ボルケニオンと機巧のマギアナ』の感想記事。つい数日前にも書きました。  【感想】『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、ここ数年のポケモン映画への不満を解消した傑作  しかし、この内容はネタバレがないように全力で配慮したもの。この程度ではまだまだ書き足りない。  というわけで、少しだけ(未視聴でも問題ないラインを探りつつ)ネタバレを交えながら、もう少し深くこの映画の魅力を掘り下げていきたい。  本当は中身についてネタバレ全開の考察記事も上げたいのだけど、そっちはそっちで近いうちに別の記事で……。  

「今年のポケモンは、本当に違う」

 そんな評判を去年も聞いた。一昨年も聞いた。っていうか毎年聞いた。  特に、去年の『フーパ』は、『エンテイ』以降十数年ぶりに脚本家が変わったので、今年は違う、今年は面白い、そんな話が結構流れていたと思う。  なので、私は期待して観に行き、そして、つまらなかった。  ここで「まあまあ面白かった」ということも可能だけど、それだとただの「ポケモン映画はいいぞおじさん」になってしまうのではっきりさせよう、『フーパ』はつまらなかった。伝説のポケモン大集合、というコピーありきのコンセプト。ラティ兄妹の再登場のようなファンサービスこそ旺盛だったけど、肝心のストーリーは全然大したことなかった。  これがポケモン映画の限界。大人が観ると「まあまあ面白かった」というところに収まるような、子ども向けアニメの枠を超えられないのかという失望。  なので今年も正直全然期待してなかったし、どうせあてにならないので前評判すら全く調べずに突っ込んだらめっちゃ面白かったので、こうして掌を返して手の甲側でキーボードを叩いているのだけど、  観てない人からすれば「今年は違うってあと何回言うんだよ」と思うのも致し方ない。  では、何がいつもと違うのか。それを見ていく。  

ピンチになるのがピカチュウではない

 一昨年公開された映画『破壊の繭とディアンシー』。XY映画第1作。  さすがに2年前の映画なので多少のネタバレは許してほしいのだけど、  この映画のラストで、ピカチュウはイベルタルの力によって石にされてしまう。  大切な仲間が命を奪われ、涙を流すサトシたち。  そこへ、再生をつかさどるゼルネアスが表れ、ピカチュウは生き返った。  さあ、この夏史上最大の感動!泣こう!  ……このラストシーンを観て、ポケモン映画のメインターゲットたる小学生がどういう感覚を抱くかはわからない。  わからないが、大学生の私の感覚としては、  毎週木曜に元気に冒険しているレギュラーメンバーの生死をストーリーの軸に持ってこられても困る。  こういう見方をすると身も蓋もないけれど、それにしたってさすがに茶番。生き残るに決まってるのだから。  同じポケモン映画でも、『ミュウと波導の勇者ルカリオ』なんかの展開は、どっちに転ぶか最後までわからなくて良かったし、前作『フーパ』が個人的に『ディアンシー』よりは楽しめた理由もそのあたり。  その点、今作の『ボルケニオン』。ボルケニオンとマギアナの安否がストーリーの主軸になっているので、最後まで展開が読めない。これだけでもかなり嬉しい。  

サトシの成長は望めない

 ポケモンのテレビアニメシリーズ中、最高傑作とされることの多い『ダイヤモンド&パール』。  あのシリーズは、サトシとヒカリのダブル主人公だった。  シリーズ開始前、サトシが続投するかどうかが前週まで伏せられる(AG編最終回でサトシがシンオウ行きの船に乗ることで初めてわかる)、という大胆な宣伝手法が印象に残っている。  どうしてダブル主人公が必要だったのか。  これもまた、身も蓋もない話になってしまうが、サトシというキャラクター、初代~金銀までならいざ知らず、もうとっくにキャラクターとして完成されている。  サトシを物語の主人公に据えると、「事件が起きました、マサラ人のサトシが解決しました、めでたしめでたし」という単純な物語になってしまう。ミステリーやアクション映画やコメディなどであれば、それでもいいけれど。  そこでDP編では、ヒカリというキャラクターをメインにすることで、サトシのバトル道とヒカリの成長物語のいいとこどりを行った。  続くBW編では、サトシの経験値をリセットして成長物語にしようとした結果、旧来のファンの怒りを買いまくり、シーズン2で軌道修正をする羽目になった。  XY編は何とかバランスを取ろうとしているっぽいけどちゃんと観てません。ごめんなさい。  まあとにかく何が言いたいかというと、サトシは主人公としてはあまりにも成長しきっている。CP2000くらい。    『ボルケニオン』は、サトシとボルケニオンのダブル主人公、というよりボルケニオンが主人公と言ってもいい。  この2人の対比を掘り下げるとネタバレになるので詳しくは割愛するけれど、  年齢・強さ・存在感などで一見するとボルケニオンの方が上の立場に来るところを、実はサトシの方が精神的に大人びている部分があって、ボルケニオンを諫めたりする。  このデコボコな関係、お互いを補完しあう2人組というのがバディものとして理想的。  「場慣れしている前主人公+新米主人公のダブルキャスト」という構図は『ナルニア国物語』から『相棒』まで古今東西で使われてきたメソッドであるけど、サトシという最強主人公を外せないポケモンアニメにおいてはこのダブル主人公制が最適解だということを改めて示した。  

ロケット団がいる意味

 前回の記事でも触れたことだけど、ポケモンアニメはAG編で、原作ゲーム(ルビー・サファイア)に出てこないロケット団をアニメオリジナルで続投させる決定を下してから、(ストーリー上重要な回であればあるほど)その扱いに困ることになった。ある意味ではサトシ以上に扱いあぐねていた。  その1つの解がBWの路線変更だったけど、残念ながら炎上した。  この問題が映画では特に顕著で、「映画オリジナルの悪役」が存在するのに、ロケット団は何をしに出てくるのか。  第三勢力として騒ぎに乗じてピカチュウを狙うにしろ幻のポケモンを狙うにしろ、うまくいくわけがないし、本筋の対決とは関係ないので、「中盤あたりで挿入される全く関係ないイベント」になってしまう。  全く関係ないイベントが挿入されることは物語においてノイズだ。  いや、そう思わない人もいると思うが、少なくとも思春期に『輪るピングドラム』というドラッグを摂取してしまった私としては、やっぱり物語は必然性と必要性だけで構築されてほしい。全てのオブジェクトに意味があってほしい。あらゆる映画はズートピアであってほしい。    この問題について、今回の映画の解決策は非常にスマートだ。  「ロケット団を敵陣営に協力させる」。今までのポケモン映画における「悪役の手下」をロケット団に兼ねさせることにしたのだ。(まあ悪役の手下も別にいるのだけど)  これによって、定番であるサトシvsロケット団の対決が物語に必要なステップになったし、同時にロケット団が今回の悪役の技術である「ネオ神秘科学」の力を借りることで、「いつもと違うロケット団」になった。  「いつもの(テレビシリーズのままの戦力の)ロケット団」がサトシに勝てないというのはもう自明。突然ニャースがタイマンでピカチュウに勝てるようになるわけがない。  でも、ネオ神秘科学の力を借りたロケット団なら、サトシたちを追い詰める展開もあり得るかもしれない?  そう思わせた時点で成功だ。今作のロケット団は、物語の重要なパーツとしてきちんと存在している。  あと、今作はニャースがかなり重要な役割を演じているのだけど、その話も掘り下げるとネタバレなので割愛。  

伏線・反復

 お前は伏線さえ張ってあれば満足なのか? と言われると「はい……ごめんなさい……」となるのだけど、  まあとにかく今作は「本当にポケモン映画?」っていうくらい伏線や反復が詰め込んであって、作品が綺麗にまとまっていた。  前回の記事で書いたことと同じ内容になってしまうのでもう少し踏み込んで書くと、  今作は「相手を信用できるかどうか」「異なる集団が共生していくことはできるのか」みたいなところが一貫してテーマになっていて、  「相手が本当のことを言っているかどうかわからない」というエピソードが大小様々に散りばめられている。  そこに対してラストシーンの意味がちゃんとある。  1つ1つのエピソードを拾っていくほど、ラストシーンは必然的で、この映画が明確に1つのテーマを描くために作られていることがはっきりする。  しかも、ラストシーン、基本的に割と説明過剰なポケモン映画において、サトシの台詞がすごくシンプル。  シンプルだからこそ光る。素晴らしいです。  

ポケモン映画の路線変更の理由

 で、ここからが本題。いや、ここまでも本題なのだけど。  ポケモン映画はどうして今年ここまで化けたのか?  もしかしたら大した理由なんてなくて、脚本家がアナ雪観て感銘を受けてちょっとそういう路線に舵を切ってみたくなっただけかもしれないけど、  私はこの物語の必然性を信じるのだから、当然、この物語を生み出した現実にだって必然性を信じる。  考えられる路線変更の理由は何か。  前年の『フーパ』が興行収入最低記録を更新したことで、スタッフに危機感が出てきたというのは、それなりに尤もらしい。  けれど、それに気づくのはもう何年か早くても良かった気がする。  もう1つ要因として挙げるとするなら、  任天堂キャラクターの映画事業進出に伴って、任天堂グループの映画戦略が見直されることになったのではないだろうか?    ポケモンは一応任天堂とは別会社になっているが、『スマブラ』や『amiibo』『バッジとれ~るセンター』などを見る限り、キャラクターとしては任天堂IPの1つとして扱うはずだし、  少なくとも世間では任天堂と株ポケの区別が全くついていないことがPokémon GO現象で判明してしまった。  現時点でポケモンのアニメ・映画は任天堂全体の事業戦略からは何となく切り離されているけれど、  今後マリオやゼルダやスプラトゥーンやF-ZEROの映画が順次作られていくとすれば、ポケモン映画は「任天堂ブランド映画の1つ」ということになる。  その時に、任天堂映画全体が「ポケモンのような低年齢層向けの映画」という目で見られる ...

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【感想】『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、ここ数年のポケモン映画への不満を解消した傑作

ポケットモンスターの映画第19作、『ボルケニオンと機巧のマギアナ』を観てきました。

cncqqs8viaabqkr-9369348  まず最初にはっきりさせておきますが、本当にすごく面白かったです。  ここ数年のポケモン映画で一番の傑作だと思います。何なら過去最高かもしれない。  前情報ゼロ(ボルケニオンのタイプも知らなかったし、あらすじも全然見てなかった)で観に行ったからこその、この圧倒的な魅了され具合でもあったと思うので、  できればこの記事なんか読まずにさっさと観に行ってほしいのですが、  そういうわけにもいかないと思うので、この映画の魅力をなるべく熱く語っていきます。    ところで、皆さん、最近のポケモン映画、観てますか。  私自身(現在大学生)は、DP後期~BWあたりで一時期ポケモン映画から離れていたのですが、最近は小学生の弟の保護者として、ここ3年のXY映画を全部映画館で観ています。  そして、一昨年の『ディアンシー』、昨年の『フーパ』を観た後に抱いた感想は同じでした。  「出来が悪いわけではないけど、子ども向けすぎて退屈だった」  あえて辛口に言えば「子どもが楽しめる」ことに特化していて、設定のディティールやストーリーの完成度は二の次、とにかく派手なシーンを見せるための、予定調和で「先が読めてしまう」映画。  もちろん、ポケモンアニメのメインターゲットは子どもですから、そこに向けて作るのは当たり前だし、子どもでなくても、こういう難しいことを考えずに観られる映画が好きな人だってたくさんいると思う。別に悪いことじゃない。  しかし、私はここ数年、『シュガー・ラッシュ』『アナと雪の女王』『ズートピア』を映画館で観て、「子ども向けのエンタメと大人向けのストーリーの両立」を見事に成し遂げるディズニー映画にどっぷりハマっていただけに、  ポケモン映画もこういう作りにならないのだろうか? という歯痒さを感じていました。  子どもも大人も楽しめる、ディズニーのような映画をポケモンは作れないのか。というか、原作ゲームではポケモン/任天堂が散々やってる領域なのに映画はどうしてできないのか。    で、今年。正直、GWに観たズートピアがこの手の映画として最強すぎたこともあって、  「まあポケモンはいつも通りのストーリーなんだろうな」と、あんまり期待せずに観に行きました。  しかし。  中盤あたりで胸の中にじわじわと広がっていく、「あれ、今年、面白いのでは……?」という感覚。  ストーリーの粗も、演出の無理やりさも、全然見えてこない。  ただただキャラクターたちの魅力とストーリーの盛り上がりに心を掴まれる。  そしてその勢いを維持したままの見事なクライマックス。  CMで「この夏最大の感動!」って毎年言われる割にポケモン映画で感動したことはあんまりなかったのですが、今年は本当に感動しました。まさかポケモン映画で泣きそうになるとは……。  ストーリーも最後の最後まで展開が読めなくて、ずっとドキドキしながら追いかけることができました。  断言します。今年のポケモン映画は、「子どもも大人も、ポケモンファンでなくても楽しめるポケモン映画」です。    だからこそ、「この映画をいろんな人に知ってほしい」と思うのです。  私が観に行った時はうちの家族4人で貸し切りでした。ヤバい。  この手のシリーズ作品は常に前作の評価を引き継ぐものなので、「去年までは退屈だったポケモン映画が今年突然アナ雪クラスの傑作になってるよ!」って言ってもオオカミ少年感あって絶対に信じてもらえないと思うけど、本当。マジ。  今年のポケモン映画は、去年までのポケモン映画が好きじゃなかった人こそ観るべき作品だし、  もっと言えばディズニー・ピクサー映画が好きな人が観るべき作品なのです。  今年の作品は、そういう人が見ないと「ポケモン映画にしては地味なストーリー」くらいの評価で埋もれてしまう可能性があるのです!それは良くない!    さて、ここまでの内容で観に行こうと思った方はこれ以降の文章は読まなくていいです。  しかし、まだ信用できないという方のために、  ここから『ボルケニオンと機巧のマギアナ』の具体的な魅力を解説していきます。    まず初めに断っておきますが、この記事は「ここ数年のポケモン映画が不満だった人の目線」です。  なので、ここ最近の映画……つまり『ケルディオ』『ディアンシー』『フーパ』が好きな人にとっては一部不快になる表現があるかもしれません。ご了承ください。  と、いうか、ここ3年のポケモン映画観て、それが大好きだったって人は、他の人からどうこう言われる前に観に行ってますよね。  そういう人を説得しても意味ないので、私は、ここ数年のポケモン映画が嫌いだった人/興味がなかった人を説得するためにこの記事を書いています。  

1. ストーリーが王道かつ丁寧

 今年の映画、あらすじを超簡単に言うと「悪い奴らから幻のポケモンを守る」というポケモン映画のド定番なんですけど、  そのストーリーにご都合主義的な展開が見られない。  サトシたちが事件に関わっていく理由、マギアナを守る理由、悪役たちの動機、悪役との何回かに分けての衝突。  その1つ1つに対してちゃんと納得できる理由付けと描写があり、ストーリーに説得力とリアリティを持たせることに成功しています。  子供向け映画(子供向けに限らないけど)を大人の薄汚れた目線で観ると、  「あ、今、物語の展開を都合よく転がすために偶然に頼ったな」とか、「あ、この悪役、今とどめ刺せるのに映画が終わっちゃうから手加減したな」みたいな野暮なことをついつい思ってしまう映画というのは結構多くて、  ポケモン映画でも前年の『フーパ』なんかは割とそういうポイントがありました。(というかフーパの能力があまりにもチートすぎた)  しかし今年の映画は違う。ストーリーの説得力があったし、突拍子のない展開もなかった。  その点で、大人が観ても十分満足できる映画に仕上がっています。  

2. 舞台と世界観が魅力的で住みたくなる

 今回の舞台は、ゼンマイ仕掛けの超カラクリ都市「アゾット王国」。  アゾット王国は、局所的に流行しているスチームパンクの雰囲気、というかもっと端的に言えばラピュタです。 アゾット王国  神秘科学の恩恵を受けて暮らす街。動く歩道があったりと、方向性としては『裂空の訪問者 デオキシス』のハイテク未来都市「ラルースシティ」に近い。  個人的に私は小学生の頃から「ああいう街に住んでみたいなあ」と思わせてくれるポケモン映画が大好きで、その点で『デオキシス』の ...

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Splatoonの1周年に寄せて(3) その意義と、自分にとっての意味を考える

.numbering {color: #4c4c4c; line-height: 30px; border-left: 5px #cccccc solid; margin-bottom: 4px;}.chosen {background: #e5e5e5; border-left: 5px #0595c7 solid;}#shachotitle {color:#0595c7; font-size: larger; margin-bottom: 6px;}  Splatoon(スプラトゥーン)1周年に寄せて、スプラトゥーンについて語る記事も3日目。最終回です。1日遅れてしまいすみません。  初日はスプラトゥーンの魅力と中毒性について、2日目はスプラトゥーンのブームに繋がった任天堂ブランドとソシャゲブームという情勢について。  語りましたが、まだまだ足りない、というか、一番書きたかった、スプラトゥーンというゲームが、この時代に生まれた意味。そして、私にとっての意味。  そういうものを語りたいと思います。 -------------------- 目次(リンクではありません) (1)Splatoonの1周年に寄せて、その魅力と中毒性の理由を考える   1. Splatoonの魅力とは?   2. 入口の広さと、奥の深さ   3. 隙のない現実逃避   4. 理不尽ではないランダム性   5. 「お約束」がないからこそ   6. 徹底的なストレスフリー (2)Splatoonの1周年に寄せて、そのブームの理由を考える   7. 任天堂への期待感と閉塞感   8. みんなが「こういうブーム」を待っていた   9. 「任天堂ブランド」とNintendo Direct   10. スマホアプリでは成立しないゲーム性 (3)Splatoonの1周年に寄せて、その意義と、自分にとっての意味を考える   11. 3DS・WiiUビジネスの集大成   12. Splatoonが取り戻してくれたもの   13. 「Splatoonが任天堂ファンを変えた」   14. 岩田社長の、4年越しのアンサー   15. Splatoonの今後のこと   おわりに 3497 ...

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Splatoonの1周年に寄せて(2) ブームの理由について考える

#shachotitle {color:#0595c7; font-size: larger; margin-bottom: 6px;}.numbering {color: #4c4c4c; line-height: 30px; border-left: 5px #cccccc solid; margin-bottom: 4px;}.chosen {background: #e5e5e5; border-left: 5px #0595c7 solid}  昨日の記事(Splatoonの1周年に寄せて、その中毒性について考える)では、  スプラトゥーンというゲームの持つ独自の特徴として、  ランダム性・理不尽要素の排除と、お約束の見直し、これらを総括して「ストレスフリーの実現」ということを書きました。  しかし、Splatoonがここまでのヒットに繋がったのは、もちろんゲームそのものの出来の良さもありますが、ブームというのはそれだけで生まれるものではありません。  Splatoonというソフトがなぜここまでのブームに繋がったのか?  ということを書いていきます。 (今回の記事はいろいろと想像で書いていますが、きちんとリサーチして書いたようなものでは決してなく、あくまで私個人の見たイメージですので、ご理解ください) -------------------- 目次(リンクではありません) (1)Splatoonの1周年に寄せて、その魅力と中毒性の理由を考える   1. Splatoonの魅力とは?   2. 入口の広さと、奥の深さ   3. 隙のない現実逃避   4. 理不尽ではないランダム性   5. 「お約束」がないからこそ   6. 徹底的なストレスフリー (2)Splatoonの1周年に寄せて、そのブームの理由を考える   7. 任天堂への期待感と閉塞感   8. みんなが「こういうブーム」を待っていた   9. 「任天堂ブランド」とNintendo Direct   10. スマホアプリでは成立しないゲーム性  11. Splatoonのもたらした影響と価値について語る 3496 ...

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Splatoonの1周年に寄せて(1) その魅力と中毒性の理由を考える

.numbering {color: #4c4c4c; line-height: 30px; border-left: 5px #cccccc solid; margin-bottom: 4px;}.chosen {background: #e5e5e5; border-left: 5px #0595c7 solid;} #shachotitle {color:#0595c7; font-size: larger; margin-bottom: 6px;}

はじめに

 皆さんは『すばらしい新世界(原題:Brave New World)』という小説を読んだことはあるでしょうか。  オルダス・ハクスリーが1932年に発表した小説で、ジョージ・オーウェルの『1984年』と並んでディストピア小説の名作とされています。  『1984』と『Brave New World』のメインテーマはともに全体主義・監視社会への風刺。  舞台は近未来世界、独裁政府によって国民の生活と思想が統制されているが、人々は洗脳されているのでその暮らしに疑いを持つことなく満足している。暮らしている人はみんな「幸せ」というユートピアですが、主人公はその社会に疑問を抱く……という、まさにディストピア小説らしいお話です。どちらも名作なので、ぜひ一度読んでみるといいと思います。  これらの作品は風刺小説であり、かつ(当時から見て)未来を描いた話なので、実際にはあり得ないような技術がいろいろ登場します。  たとえば『Brave New World』で描かれる社会は、生まれた時から知能に差別化が施されている、完全な階級社会です。下の階級として生まれた者は知能的に劣り、上の階級のものの奴隷として働かされる。それはいいのですが、下の階級の人間は1個の受精卵を96分割してビンで製造される(なので労働力不足を防げる)ことになっていたりして、「どういう技術だよ」と突っ込みたくもなり。  ただ、風刺小説におけるこういう存在は、それそのものが将来的に登場するというわけではなくて、「それに近い概念が登場する」、もしくは「登場した場合どうするか」という思考実験的な側面があり、科学的に実現可能かどうかということは重要な問題ではないんですよね。といっても、『Brave New World』の舞台は西暦2540年なので、その頃には可能になっているのかもしれませんが……。  さて、これと同じように、約80年が経過した現在から見ても「あり得ないだろ」と思う技術として、『Brave New World』には「ソーマ」という薬が登場します。  これについての説明を、Wikipediaから引用します。
安定した社会を維持するための要素の一つ。二日酔いなどの副作用のあるアルコール飲料の代わりとして、フォード紀元178年(2086年)に2000人の化学者に研究助成金が支給され、開発された副作用のない薬。アルコールとキリスト教の長所のみを融合させ、宗教的陶酔感と幸福感と幻覚作用をもたらす。アルファ階級からエプシロン階級までのすべての人間が日常的に使用しており、半グラムの錠剤を3錠ほど呑むと「ソーマの休日」の夢世界に入れる。 すばらしい新世界 - Wikipedia
 凄いですね。「ソーマの休日」というネーミングも絶妙だし、「アルコールとキリスト教の長所を融合」と、信仰と中毒を同列に扱うあたりが素晴らしいです。こんなものが発明されれば、確かにどんなディストピアでも生きていけそうな気がします。  とはいえ、副作用のないアルコール飲料、デメリット一切なしに幸福感と陶酔感を得られるアイテムなんて、もちろん発明されたら素晴らしいことですが、そんなウマい話があるのでしょうか。少なくとも、21世紀に生きる我々が目にすることはないでしょう……。  と、思っていました。  しかし、驚くべきことに、21世紀も始まったばかりの2015年。  「ソーマ」とほぼ同等の、宗教的陶酔感と幸福感と幻覚作用をもたらし、それでいて人体に副作用を一体及ぼさない、夢のようなアイテムが、  製薬会社でも宗教団体でもない、ただの花札屋の手によって生まれてしまったのです!    それがWii U用ゲームソフト『Splatoon』です。 61uv9elrm1l-_sy445_-6279676  さて、前置きが長くなりました。Splatoonの話をしましょう。   あ、この記事めっちゃ長いので先に言っておきますが、1周年おめでとうございます。 -------------------- 目次(リンクではありません)  はじめに  1. Splatoonの魅力とは?  2. 入口の広さと、奥の深さ  3. 隙のない現実逃避  4. 理不尽ではないランダム性  5. 「お約束」がないからこそ  6. 徹底的なストレスフリー  7. Splatoonのブームの理由を考える 3495 ...

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アニメ・ゲームのこと 8年前

志保を肯定したい、の話のお礼とか補足とか

先日投稿した記事に対して、予想以上の反響がありまして。  ミリマスのCD投票に思う、"志保の在り方を肯定する"ということ  まずはありがとうございました。  私の変態的なエゴサーチ力によって、私のツイートをRTした人、いいねした人、URLをつぶやいた人、その人のツイートをRT・いいねした人のプロフを全て拝見させて頂きました。突然いいねが飛んできたりして引かせてしまってたらすみません。  そもそもこの記事を書くまでアイマスPとの繋がりが全くなかったので、誰かに捕捉されると思ってなかった……というのは半分嘘で、正直、バズるんじゃないかなーという淡い期待はありました。  というのも、先月に「「DEEPER」は悪くないけど、最近のヒトリエはなんか違うと思う」という、これまた長文でファンの流れに石を投げ込む記事を書いて、にわかにバズった経験があったので。……いや、普段からこんなことばっかりしてるわけじゃないのですが……。  ただ、さすがにここまでの規模になるとは思っておらず。  スクリーンショット (54)  Twitterの検索候補にサジェストされたりとか、  Screenshot_2016-04-21-11-30-56  コンベに持ち込まれたりとかは想定外でした。 --------------------  今回の記事に対する反応で、いくつか気になったものはRT・いいねしたりしたのですが、(わかる/わからないみたいなのは除いて)大雑把にカテゴライズして、それぞれにちょっと補足します。  別に逐一反論するコーナーとかのつもりはなくて、むしろ納得できる意見ばっかりだったので、だからこそそれをちゃんと整理して書き留めておきたいのと、それに対する自分の感覚をフィードバックしたいなーという。  このまま何事もなかったかのように流れてしまうと、そのまま忘れてしまいそうなので。   ・アイドルマスターは団結の物語じゃない。  たぶん一番多かった。特にアーケードや無印の頃からのファンの方に多かったと思います。

 つまり、あえて棘のある言い方をすれば、  アイドルマスターは、最終的に全てのキャラが「765プロ最高!アイマス最高!みんな仲間!」でまとめなければならない物語であり、  志保は、アイマスという枠組みの中では、「自分を曲げられるようになる、周りに合わせることができるようになる」という方向に進むしかない。
 この部分の、「アイドルマスターは」というのが主語として大きすぎたことはもう反省点でしかないのですが、  ただ、私が知っている範囲のアイマス、つまり(アニマスはそこまでしっかり観ていないとしても)「劇場版」「ミリオンライブのゲーム」そして「ミリオンの声優ライブ」で、団結とか一体感を前面に出しているのは事実かなと。それは、運営側の設定するテーマもそうだし、同時にPの態度も。  数年後のifストーリーならともかく、ミリオンライブとして展開する限り、「各アイドルの目標と765プロの目標は別」とは行かないんだろうなーと。   ・ムビマスはそんな映画じゃなかった。  「ムビマス・PSLは志保が否定されるストーリーだった」というのが謎、みたいな方も結構いて。記事にしてしっかり書いてくださった方もいました。  志保の在り方……というよりアニマスの在り方かな  ええと……そもそもアニマス・ムビマス観たのがもうだいぶ前なので、ストーリーを詳細に覚えているわけではないのですが。  まず、私は別に春香とか静香が悪い、とは思っていなくて。あの2人なりの行動指針、方法論に基づいているので、それはいいのです。  ただ、「志保と誰かが対立したとき、最終的には志保の方が納得する」というストーリーにっ向かわせてしまうシナリオが嫌い、というか……。このへんはメタな視点になるので納得できない方もいると思いますが。  PSL編で言えば、志保と静香の主義の対立、「どちらも正しいけど考え方が違う」くらいにとどめておけばいいのに、「志保は星梨花の事情を知らずに突っ走って酷いことを言った」みたいな設定にしてきたところが本当に悪質だと思っていて。「正論のつもりが実はそうじゃなかった」なんて、志保を悪者に着陸させるところから逆算しない限りあんなストーリーにはならないだろうと。  「志保本人が納得したんだから良い」という考え方もあるようですが、そうじゃなくて、「志保が納得して譲歩することだけが物語のグッドエンド」みたいな描き方をしないでほしいなあ、という……。  あとこれに関連して、「この人はエピソードゼロ喜ぶだろうな」って意見もありましたが、「どうせまたツンツンした志保が更生させられるストーリーなんだろ」って思ってるので正直あんまり期待してないです。   ・ここまで志保のことを考えている時点でプロデューサーなのでは?  前の記事では、「765ASをプロデュースするなんて畏れ多い」ということを書いたのですが、実は志保に対しても似たようなことを思っていて。  つまり、「私より志保の方が絶対アイドルに詳しいしマジメに考えてるのに、私がプロデュースするなんて何様なのか」みたいな。  だからですね……私は志保のプロデューサーになりたいとか、思ってなくて、できれば対等な関係でいたいし、何なら志保の方が上でいいというか。憧れなんですよね。  それをアイマス界隈では広義のプロデュースに含めるのかもしれませんが、あの記事、「本来の意味でのプロデュース」って書いてますしね……。   ・志保に自分の理想を押し付けすぎ。  はい。   ・志保は結果にこだわるタイプでは?  「仕事を取ってくるために手段を選ばない」ことが「志保の否定にはならない」という意見。  んー……これは解釈の問題だと思いますけど。「個人の信念よりも全体の結果・成功を一番に考える」のであれば、春香さんに刃向かって時間がない中でわざわざ輪を乱したりしないと思うんですよね……。  もちろん、志保は自分にとっての結果にはストイックだと思いますが、個人のゴールと全体のゴール、またはそこに向かう道に関する見解が一致しなかった時には、「とにかくゴールにたどり着くこと」よりも「個人のゴールに向かうこと」を優先させるんじゃないかなあと。  「リーダーに無条件に従っておけば波風立たない」という状況下で「わざわざ波風を立ててでも自分の意志を通しに行く」という考え方。……まあ、ぶっちゃけ志保じゃなくて私の性格がこうだというだけのような気もしますが……。  で、今回の投票の件で、リーダーが誰であったかは、何となくでも顛末を知っている方はわかっていると思うのでわざわざ書きませんが、まとまることそのものが正しかったとしても、譲れない部分もあるのです。   ・なんでわざわざ志保に役を上げようとしている人の足を引っ張るの?  前回の記事が、志保への投票に対して一種のネガティブキャンペーン的な立ち位置であった部分はあると思います。  ただ、「役を与えたい=正義、ポジティブ」「役を与えたくない=不正義、ネガティブ」というのは都合よく単純化された構図で、  私は「志保の考え方に背かない」ということをポジティブな動機だと捉えていたし、どちらがプラスであるかは客観的に決められないかなーと。  あと、あの記事を書いてる最中って、まだ志保コンベがコンベ内再投票に流れる前の、なんか「軽い喧嘩があったけどいい感じにみんなまとまってきましたよ」っていう総括をされようとしている頃で、  わざわざツイート貼ったりはしませんが「もう志保Pは用心棒で一致したので大丈夫です」「問題解決したからここからは一直線に行きましょう」みたいなことがそれなりに拡散されてて、  この一連の流れを美談にされたくないという気持ちがすごく強かったんですよ。すごく。だからまぁ、そういう意味では邪魔をしにいったと捉えられても間違いじゃない気はします。   ・役柄云々じゃなくて、志保の声が聞きたい、新曲が聴きたいじゃダメなの?  ぶっちゃけこの視点は完全に抜け落ちてて、言われて初めて気づいたんですが、  私、もう志保の新展開とか別に望んでないのかもなあと。私が好きなのは概念としての初期志保であって、プロデューサー感どころかキャラ萌え的な好意すらないので、例えばこれからミリマスがアニメ化して志保回があったとしてもそんなにテンション上がらないかもしれないです。   ・ゲッサン読もう。アケマスやろう。箱マスやろう。シンデレラとかSideMもやろう。  アイマスPこわい。っていうか今回の記事に対する反応、志保Pより千早Pの方が多く見かけた気がする……。  や、もちろん興味がないわけではないのですが、今はそこに割くほどの時間も金銭も熱量も余裕ないので……。  と、いうか、あの記事だけだと私が熱狂的なアイマスPに見えてそうなのですが、申し訳ないことに本当は全然そんなことないライト勢で、ライブもLV一回行っただけだし、CDも買ってなければ曲もほとんど知らない(友人と行くカラオケで初めて聴く曲の方が多い)し、  おまけに肝心のゲームもほぼ無課金なんですよ。ほぼ、というのはネタじゃなくて、トータルで4000円くらいです。安い。これは微課金を名乗るのもおこがましい……。   ・そのエネルギーを二次創作に向けよう。  ちょっと思った。そちらは時間ができたら……。  っていうか、これもう時効というか今さら言っても何もないと思うんでバラしますけど、    ↑私はこのMADを作った人です。2年くらい前?  他にもまつり姫のドーナツホールとか作りました。別に隠してはないけどあんまり紐づけしたいとも思わないので、「ブログから」とか書かないでくださいね。  中学~高校の頃にニコニコとかYouTubeで活動してました。いや、別に引退したわけでもないんで、そのうち何かまたやりたいなーとは思わなくもないのですが……。  まぁとにかくそんな感じで、二次創作やりたいっちゃやりたいんですけどね。SSとか。気が向いたらそのうち……。   ・この記事書いた人、これからいろいろと苦労しそう  はい。……実際現時点でも既にそこそこ苦労を買いに行ってるので大丈夫です。頑張ります。  というか、だからこそ志保に頑張って自己を貫いてほしいというか、「わざわざ苦労を買いに行くことが馬鹿で、苦労を避けるために拘りを捨てることが賢い」という風潮に屈したくない・屈してほしくないなって。  なので、「志保を肯定したい」のはそのまま「今の自分自身を肯定したい」ってことなんだなと、改めて思いました。コメントでも結構言われましたが、正直言われる前からだいたいわかってました。 --------------------  今回の件で、いろんな意見を頂きまして、その中には暖かい意見も冷たい意見もあり、  「過程はわかるけど結論に納得いかない」「過程は理解できないけど結論は一緒」「志保Pじゃないから同意できるけど自分の担当だったら批判してた」とか、とにかくいろいろな意見があって。  アイマスが団結の物語、みたいなのもそうですけど、私はたぶんアイマスとかアイマスPのことをだいぶステレオタイプに捉えすぎてた部分があるんだなとは思いました。    Twitterでもちらっと書きましたが、  私は情報を速く正確に伝えるとか、わかりやすく説明するとか、そういうことが得意な人間ではなくて、  ただ、おそらく他の人よりもいろんなことを不必要なまでに真剣に考えて、突き詰めようとしてしまうだけで。  そういう私がこのブログで何ができるかと言えば、「他の人が言語化できていない領域を何とか言葉にする」。そうしてこそ私がこういう媒体を持っている意味があるんだろうなと。  特に、こういう、今まであんまりなかった新しい視点を投げ込んで、それによって共感でも反発でも何でもいいけれど、反応を貰うのがとても好きなので、その意味ではまさに自分のしたい通りのことができて良かったです。本当にありがとうございました。  別にそれで読んだ人の意見を変えようとかは思ってませんし、私だってあれだけいろんな意見を読んでも自分の意見は全く変わっていませんし、そんなものだと思います。考えるきっかけに……なんて言うのも偉そうですけど、とにかくあの記事が皆さんのアイマス愛の踏み台にしてもらえたなら十分だなと思ってます。    ……最近マジメな記事ばっかり書きすぎている。とりあえずミリマスの話もリリスクの話もひと段落したので、そろそろどうでもいい記事を書きたいです。 ...

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アニメ・ゲームのこと 8年前

ミリマスのCD投票に思う、”志保の在り方を肯定する”ということ

このブログは特にテーマが決まっているものではなく、私の興味のあること・最近あったことを適当に書き殴っているだけなのですけど、  それでも読者層を意識すると何となく書きやすい話・書きにくい話というのはあって、  中でもアイマスの話は、「わかる人しか楽しめない」話になってしまいそうで、触れることがあまり多くありませんでした。  しかし、そうはいってもここ2年は毎日ログインしてるし、定期的にイベント入賞してたりする、それなりに熱量はある趣味で、だからこそ語りたいこともたくさんある。  そんな中、ミリオンライブのとあるキャンペーンをきっかけに志保さん周りが若干話題なので、  今回はあえて文脈の共有とかは諦めて、重度の拗らせ系志保Pとしてちょっと思うことを吐き出してみたいと思います。アイマスPじゃない方ごめんなさい。  ※一応「志保の好きなところを語る」つもりですが、性質上どうしても私個人の過去の話とかが入ってくるので、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。 --------------------  まず、私自身のアイマスPとしてのバックグラウンドを語ると、  ミリマス以外のアイマスタイトルをプレイしたことがありませんし、アニマスは放送当時見ていたけど別に誰が好きとかもなければ、取り立てて好きなアニメでもありませんでした。当時は輪るピングドラムに熱狂してました。  その数年後、周りの友人から映画アイマスに誘われ、そこでゲスト出演していた北沢志保さんに惹かれ、そのあとミリマスにも誘われ、そして現在に至ります。  で、まず1つはっきりさせておきたいのは、「私は『自分がアイドルの”プロデューサー”だ』という感覚を持ったことがない」ということです。  (アイマスファンの総称としてのプロデューサーではなく、文字通りのプロデュースをする人、という意味で)  アニマスで最初に入ったので、特にASの13人については「彼女たちは赤羽根Pの担当アイドルであって、それより後から来た私なんかにプロデュースする資格はない」と思っているし、  シアター組の37人についても、ミリオンライブというソーシャルゲームの構造上、デッキを強くして、イベントに勝って……という、プロデュースとは程遠いことをしているので、ゲームとしてアイドルを育てている感覚はあまり持っていません。  何より、私は、志保を含めて、765プロのアイドルたちがどういう方向に進むかについて一切何も関わっていないわけで、  アイドルをプロデュースしているのは、バンナムのスタッフの皆さん、もしくは、現実のライブを制作しているバンダイナムコライブクリエイティブの人たちだと思っています。    だから、私が志保に対してどういう形の思い入れを持っているかといえば、「自己投影」「感情移入」「共感」という言葉で括れるようなもの。  北沢志保というキャラクターが大好きですが、それはプロデュースの対象という目線ではなくて、あくまでゲーム・アニメの登場人物として、強く共感し、応援したいと思えるからです。 --------------------  志保のどこに自分が共感できるか、というのを具体的に上げると、  「自分が正しいと思ったことを貫き、そのために周りに合わせたり、自分を曲げて妥協したりせず、目上の相手にでも喰らいついていける芯の強さ」。  空気が読めない、協調性がない、面倒くさい奴、そんな風に思われる方もいるかもしれませんが、私は、そこにこそ志保の良さがあると思っています。さらに言えば、それは、アイドルとして、765プロの一員としての良さではなく、1人の人間としての良さです。  それが顕著に表れたのが劇場版アイドルマスター。  このブログの過去記事に、2年前に劇場版アイマスを見に行った時の感想が残っていました。  ⇒僕の初恋の向こう側  なぜか「僕の初恋を君に捧ぐ」の感想と抱き合わせたせいで記事タイトルがアレですが。  読むのが面倒な方のために、記事の内容を簡単にまとめると、  あの映画で志保のいうことは全く間違ってないし、むしろ春香の取った行動の方が非常識だったのに、ライブ自体は成功しちゃったがために、志保が間違っていて春香が正しい、という収まり方になったことが納得いかない。  これ自体は、今の私が思っていることとほとんど変わりません。というか、自分でも今日読み直してみて、2年前の時点でここまで書いていることにびっくりしました。    ミリマスを通してアイマスというコンテンツとも2年付き合い、その間にPSL編なんかもあって、だんだんとわかったことがあって、  志保の自己を貫く方向性は、そもそもアイドルマスターという作品の方向性と全くマッチしない。  つまり、あえて棘のある言い方をすれば、  アイドルマスターは、最終的に全てのキャラが「765プロ最高!アイマス最高!みんな仲間!」でまとめなければならない物語であり、  志保は、アイマスという枠組みの中では、「自分を曲げられるようになる、周りに合わせることができるようになる」という方向に進むしかない。  これが私はどうしても許せないのです。 --------------------  志保に対して「感情移入」「共感」と書いたように、私自身にもそういう、自己を曲げられない、妥協できない、という部分が少なからずあって、  例えば、高校で、ゴリゴリの体育教師だった怖い学年主任に1時間怒鳴られながらも一切非を認めなかったり、大学受験の時に志望校1校しか受けなかったり、Facebook上で意識高い系の知り合いのエッセイにわざわざ反論を書いて投稿したり、とにかくそんなことばっかりしていて、  まぁそんなのと一緒にされたら志保は嫌がるかもしれないけど、とにかくそういう  「楽な方、エネルギーを使わない方に流れることなく、自分の意思を貫くためにわざわざ大変な道を選ぼうとする自我・こだわりの強さ」を、私自身が、持っているというより持ちたいと思っていて、  だからこそ、志保にはそれを捨ててほしくない。  もちろん、自分を曲げる必要のないところで誰かと仲良くすることはいいことだと思うし、無駄に意地を張る必要もないし、かなしほのような仲の良い相手ができることは全然いいのだけど、  だからといって、周りに過度に合わせていった結果、ぬるま湯に慣れきってしまうようなアイドルになってほしくない、という思いがあって、  同時に、そういう態度こそが正解だ、そうなることが成長だという社会一般の常識に屈してほしくない。  こういう、集団に尽くすようになる成長の仕方が是とされることが、非常に日本人っぽいなと感じていて、実際にそれが成長だと考えている人も多いと思うけれど、  私は、たとえそれが未熟な子どもの意見だと思われたとしても、  そうなりたくない、そうなることだけが成長ではない、と信じているし、  そうなることだけが成長ではないのだと志保にも証明してもらいたい。    だから、もしかしたら多くの志保Pは、「志保がもっと周りに馴染めるように成長する過程を見守りたい、応援したい」と思っているのかもしれませんが、  私は、その逆で、「周りに馴染まない志保を応援したい」。  さらに言えば、劇場版の志保を『あなたは間違っていないから、このままでいいよ』と肯定したいのです。 --------------------  そして、話は現在行われているボイスドラマのキャスト投票に移るわけですけど、  とりあえずキャスト投票の大まかな流れは別の方が書いてくださっていたのでリンクを貼ります。  「ミリオンライブ!」の投票が政治的側面を見せ始めている件  http://ch.nicovideo.jp/roastpork193/blomaga/ar1011285  簡単に言うと「特定キャラに投票する選挙ではなく、キャラ×役名の組み合わせに投票するので、票が割れると死票が出やすい。そのためコンベンションセンターで意思統一を図っている」という話で、  その中でも志保に関しては、あんまりピッタリ当てはまる役柄がなかったことから、票がなかなかまとまらず、コンベンションセンターでも意見集約ができず、最終的にとある有名Pがニコ生を行い、そこで決まった投票先にまとめ上げようとしました。そこからコンベンションセンターではもう一波乱ありつつも、現在は表面上そっちの方向で進んでいるっぽいです。  それがうまくいくかどうかはまだわかりませんが、私は絶対にうまくいってほしくないと思っています。是非のり子かうみみに取っていただきたいです。    もちろん、志保Pとして、志保に何としてでも役を与えたい、仕事を取ってきてあげたい、という考えをするのはわからなくもないですが、  私は、上に書いたように、そもそも自分をプロデューサーだと思っていないし、  志保をプロデュースしたい、ビジネス的にサポートしたいのではなく、志保の考え方・生き方を応援し、肯定し、共有したいのであって、  もし志保が今の志保Pの立場だったら、「役を取るという結果だけを目指して、有名Pが作った流れに思考停止で乗る」というのはあり得ないと思うからです。  もしも、そんな器用なことができる子であれば、劇場版だってPSLだって、起こった問題に対して、リーダー任せにして知らんぷりをすることもできたし、わざわざ春香に噛みつくにしても、可奈にも踊れるようにダンスを簡単にするとか、自分の意見を通すために他の先輩に相談するとか、いろいろな選択肢があったはずです。  でも、志保は常にベストな結果を目指しているし、そこに向けて迂回したりしない。常に真っ向から問題に取り組み、「0か100か」で物事を捉え、「10でも0よりマシ」なんて答えは出さない。春香がリーダーである以上は最短距離で春香に相対する。  だから、志保P、というより、志保と同じ方を向いていたい私は、結果ではなくプロセスにも拘るし、「死票を出すよりは集団圧力に屈した方がマシ」なんて結論にはならない。 --------------------  上に書いた、「志保の性格はアイマスの方向性と真逆であるということ」には、もう1つ意味があって、  「志保が強く関わるストーリーは、必ず志保の在り方が否定されるストーリーであった」ということ。  アイマスという作品、ミリオンライブという作品の中で、志保はどうしてもストーリーの舞台装置、輪を乱す存在。「雨降って地固まるための雨」として扱われてしまいます。  それは、「こだわりを貫こうとした志保のやり方は間違っていて、春香/静香のやり方がやっぱり正しかった」という、おとぎ話の意地悪なおじいさんみたいな扱いになってしまう。  もし、アイマス・ミリオンがそういうテーマを持った作品であったとしても、私は納得いかないし、だから劇場版もPSLクレブルも好きではないのですが、  ここで言いたいのは、このキャスト投票がもしこれから、  「いろいろあったけど、最終的に代表者の意見に合わせて志保Pみんなで1つにまとまって『用心棒』の役を取れた、やっぱり絆って大事!仲間って素晴らしい!」という決着を見せるとしたら、  それはまさしく北沢志保的な在り方を否定するストーリーになってしまうのではないか、ということです。  「志保みたいなやり方じゃなくて、集団に迎合することが正解だったよ」という結論とともに仕事を取ってくることは、本当に良いことなのか。   ...

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アニメ・ゲームのこと 8年前

#私を構成する9本

ツイッターで昨日あたりに流行ってた「私を構成する9枚」という、好きなCD9枚を紹介するタグがありまして、  それをやろうと思ったんですけど、よく考えたら私の思い出の曲の大半はYouTubeかiTunesで聴いてるし、CD縛りだとwowaka・米津・ヒトリエ・ろこどるで全部埋まることに気づきまして断念。  そしたら「私を構成する9本」としてゲームジャンルでやってる人がいて、ああそれならできそう、だけど去年やった「思い出のゲーム10選」タグと何が違うの……?  と思ったんですけど、そういえばそのタグが流行った時に「ああ、これブログで詳細に1本ずつ解説すればよかった」と思いながら結局できなかったのを思い出しまして、  よし、じゃあこのタグに便乗してブログでリベンジしよう、ということにしました。  まあ面白いかはわかりませんが、「昔遊んでいて、今の自分のベースになっている思い出のゲームソフト」の話をする機会って意外とないんですよね。  そういうわけで9選です。   Moldiv_1454063311628  これがその9本です。まあ前に一度考えたのでそんなに悩みませんでしたが。  ドラクエとかポケモンとかドンキーとか上げだすときりがないので、シリーズものは被りなしに。  ……レア社ドンキーとレトロドンキーは別です。いいね?  ちなみにスーファミのゲームがやたらと多いのは、我が家ではWiiが出るまでずっと母親の結婚前からの持ち物であるスーファミが現役稼働していたからです。いやWii出た後もやってたんですけど。  ゲームキューブ持ってなかったので同世代の人と思い出話をしても噛み合わない。「エアライド?なにそれ?」ってなる。 3461 ...

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