映画・音楽・小説の感想 3年前

2021年1月に読んだ本

年始に本を読むという目標を置いて、せっかくなのでとKindle Unlimitedの2ヶ月299円キャンペーンに登録したりしながらいろいろ読んだので備忘録的に書いておきます。来月以降はやらないかもしれません。  ちなみにネタバレしまくります。各作品ごとの感想で他の作品のネタバレはしないように気を付けてはいます。 ※Kindle Unlimited対象ではない作品も含まれています。 --------------------

本谷有希子 『静かに、ねぇ、静かに 』

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芥川賞受賞から2年、本谷有希子が描くSNS狂騒曲!海外旅行でインスタにアップする写真で"本当”を実感する僕たち、ネットショッピング依存症から抜け出せず夫に携帯を取り上げられた妻、自分たちだけの"印”を世間に見せるために動画撮影をする夫婦――。SNSに頼り、翻弄され、救われる私たちの空騒ぎ。
 うーん……。という感じ。  1本目の短編が特にですが、主人公が自分のことを正しいと信じて疑わないキャラクターに設定されているはずなのに、地の文で自分たちのことをメタ的な視点でかなり否定的に描かれている。別に主人公がそういう俯瞰と主観を持ち合わせた人間であるとかでもなく、そういう域を超えて二重人格のような語りには多少違和感があったし、あとここまで馬鹿にするからには絶対最後は痛い目に遭うんだろうなと読めてしまった。  とはいえ、著者がそれを無自覚にやった(本人はフラットなつもりがそうではなくなっている)とはさすがに思わないのでたぶん意図的なのだろうなと思うのですが、  問題はそもそもその視点が全然新しくないということ。  インスタ映えに拘りすぎてSNSでの見え方さえ良ければ現実がどうであろうと関係ない、現実の生活に満足していなくても自己顕示欲や承認欲求が満たされればそれでいい……みたいな感覚って、今更特筆すべきものだとも思わなければ、その大小を別にすれば普遍的に誰にでもある感情だと思うし、  それを「あえて誇張することで逆説的に馬鹿にする対象として描く」のは、アフィブログで5年前からさんざんやりつくされて最早「嘘松」という2文字で説明できてしまうくらいに浸透してる価値観なんで、それを2018年に、今さら小説という媒体で……。という気持ちになりました。こういう人が渋谷ハロウィンとかタピオカミルクティーとかに未だに怒ってるんだろうな。  特に1本目の短編は、「自分たちの生き方を良いと信じて疑わず、既存の価値観(社会的な地位やお金があることに価値を置くこと)を馬鹿にすることで自分を正当化するキャラクター」を描いているのに、  その価値観に理解を示さずに馬鹿にするという態度を取っているせいで、結局「自分たちは正しい、自分と相容れない価値観は正しくない」という、本来否定したいはずの対象と全く同じ主張をしてしまっている。  完全にそれを「自分とは違う人間」だと決めつけた描き方で、「自分は現代の弱者の代弁をしてあげている(自分自身はああは絶対にならないけど)」という傲慢さを感じました。  それこそ今のプペルマルチの問題とか、アイドルスパチャ依存とかも、本谷有希子さんから見たら「頭の弱い人だけが落ちるしょうもない世界」に見えるのでしょうけど、ああいうものに救いを求める、価値を感じる人たちがいるというリアルには、本人の性格だけではない形できちんと説明のつく社会的背景があるわけで、現代SNSをテーマに持ってくるならせめてそういう考え方・生き方をする人たちの理解を助けるような形にしてほしかった。  あと、そういうものを描いているのにオチが急にファンタジーなのもしょうもないなと思ってしまいました。  自分が一番嫌いなのは「現実にある社会問題をモチーフに選びながら、物語内の解決をフィクションにしてしまうこと」で、スカっとジャパンみがあるとも言い換えられるのですが。  それは現実にその問題で苦しんでいる人たちの存在に対して、寄り添うフリをして一方的に搾取して突き放してしまうような不誠実さを感じる。  パラサイトの感想の時にも同じようなことを書きました。
 結局あの映画って、出発点として(おそらく)韓国で普通に存在する貧困層のリアルを描いているはずなのに、終盤にかけて衝撃的な展開が続いていく、それは確かに映画としては正しいのだけど、  結果的にストーリー全体をあり得ないこと、観客に対して「自分が今生きている世界とは関係のない話」として処理させてしまう効果を持ってしまうのではないかと。そう受け取る人が少なければ問題ないのかもしれませんが。  『シンゴジラ』を観た時も似たようなことを思って、あれも3.11のモチーフを織り込みながら最終的に都合の良い結末に結びつけてエンタメにしてしまったことで、あの一連の事象そのものを美化してしまうような作品だったので観た後に嫌悪感があったのですが。  それだったら自分は完全なフィクションから出発して「でも自分がいる世界と無関係な話ではないな」と思わせてくれる作品の方が好きだなあと。要するに『ズートピア』のことです。社会を変えることに寄与するのはどちらかといえば後者の方じゃないかと思ってはいるのですが、実際どうかはわかりません。どちらも同等に無力だという話かもしれません。 au Pay、パラサイト など | Our Story's Diary (oswdiary.net)

宇佐見りん『推し、燃ゆ』

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逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ。アイドル上野真幸を“解釈”することに心血を注ぐあかり。ある日突然、推しが炎上し――。デビュー作『かか』が第33回三島賞受賞。21歳、圧巻の第二作。
 芥川賞。1999年生まれってマジか……。  発達障害の描写がリアル、とは言うものの、実際発達障害の人の心理がこれがリアルなのかどうかはわからなくないか……? と思ったりもしましたが、  なんというか、そもそも発達障害っていうものも別に「障害がある人/ない人」みたいな二元論じゃないはずなんですよね。一応病気として認定される便宜上のラインはあるにせよ、グラデーションのようなものであるはずで、だから主人公が自ら「自分は病気だから仕方ない」と言い訳にする自覚性も全然あり得るんだろうなあとも思うし、  漢字の書き取りは全然できないけどPCは変換機能があるからブログは書ける、みたいなことも全然あり得る。  世間的な普通にどうしても合わせることのできない主人公、というテーマは『コンビニ人間』に近いものがありますが、そちらよりもさらに残酷だと思うのは、コンビニ人間と違って明確に他者(家族)に迷惑をかけているという部分。  好き嫌いとか善し悪しではなく描く対象の違いなんですけど、これのせいで一概に「いろんな人がいていいよね」という綺麗事に落とし込めない。落とし込むことを許さない。  発達障害、またはそう認定はされない程度の性格的な問題によって、勉強ができない、働けない、他者と一緒に動くことができない……みたいな人たちは少なからずいるだろうし、その人たちに対してそれを理由に生きる権利がないと断じることは誰にもできないわけですけど、  じゃあ働けないという個性を持った人間が家族にいる場合、その対象を養う義務まで生まれてしまうのか。それは「働けないものは仕方ない」で済ませて良いことなのか。働いたり勉強したりなんて誰だって好きではないはずなのに、できないという理由でそれが許される人間がいるのか……。  理想論としては、逆に自分がいつそういう救われる立場になるかもわからないから、ということになるのだと思いますが、そんなことで簡単に解決できるものでもないし、じゃあ公平とか公正ってどのような状態を指すのでしょう。  文章というかその時々で起きていることの読解が難しいポイントが多々あって、主人公の混乱を表現しているのだとしたら上手いなあと思いつつ、  結局その推しが暴力を振るったという行為に対する主人公の解釈が最後までなかったのが気になりました。肯定するにせよ否定するにせよその事象に対して何らかの答えを都合よく出さずにいれたのかという点で。  私自身は「推す」という言葉を過剰に使う女性オタク文化圏のことはあまり好きになれない(別に男性オタク語が好きなわけでもない)し、好きなものを100%好きで居続けることができない(むしろ好きなものであるほどに自分の期待する行動を取らなかった時にガッカリする)タイプなので、主人公の感性そのものにはあまり共感できませんでしたが。  自殺を選びそうな語りがありながら、もちろんそんな安易な終わり方はしない。惰性であっても生きていくしかない、死ぬ理由がないから死んでいないだけだとしても。これだけ希望のない社会で自殺願望なんてない方が珍しいし、その上で自殺はする方が珍しいのだから当たり前。そういう意味で私が期待する誠実さは当然ありました。

ヘッセ『車輪の下で』

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周囲の期待を一身に背負い猛勉強の末、神学校に合格したハンス。しかし、厳しい学校生活になじめず、次第に学業からも落ちこぼれていく。そして、友人のハイルナーが退校させられると、とうとうハンスは神経を病んでしまうのだった。療養のため故郷に戻り、そこで機械工として新たな人生を始めるが……。地方出身の優等生が、思春期の孤独と苦しみの果てに破滅へと至る姿を描いたヘッセの自伝的物語。
 このあらすじ、ストーリーの主要な展開からオチまで全部言ってるの酷くないですか??? 古典だからって全員がストーリー知った上で読むと思わないでほしい……。ハイルナーが退校することを事前に知らずにストーリーを追いたかった。  自分の周りの高卒で働いている人とかと話す時も思うんですが、勉強に限らず、自分のしていることの正しさに疑義を持たないということは一つの才能だなあと強く思います。自分が選べる以外の可能性のことを知れば知るほど人生は息苦しいものになっていく。  逆に故郷に戻ってそこで楽しく生きていければ良いのでしょうけど、神学校に進んでエリートコースに乗るという可能性も見てしまったから簡単には捨てられない。  ところでこの話、最終的に主人公は故郷に戻った後、機械工としての仕事に就いてすぐに事故で死ぬんですけど、これって作者にとってすごく都合の良いハッピーエンドだよなあとも。  人生に絶望した主人公がその先の人生を生きていく必要がなくなるって救いでしかないし、本当はそうではなくて、絶望した人間がその先どうやってそれに折り合いをつけて生きていくかを語ってほしいのに、と思わなくもないです。それを古典に求めても仕方ないのかもしれませんけど。

トーマス・マン『ヴェネツィアに死す』

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高名な老作家グスタフ・アッシェンバッハは、ミュンヘンからヴェネツィアへと旅立つ。美しくも豪壮なリド島のホテルに滞在するうち、ポーランド人の家族に出会ったアッシェンバッハは、一家の美しい少年タッジオにつよく惹かれていく。おりしも当地にはコレラの嵐が吹き荒れて……。『魔の山』で著名なトーマス・マンの思索と物語性が生きた、衝撃の新訳。
 主人公が意味のない生よりも意味のある死を選ぶ話。「自分の好きな相手と一緒にいられる幸せを捨ててまで長生きすることに意味を感じない」というのは、それこそ今のコロナ禍での行動様式と繋げて語ることもできそうですね。  自分の生きる意味って何だろう、何のために生きているんだろう、みたいな問い、学生時代は無限に考えていて、それで悩んで死んでしまった方が良いんじゃないかと思ったことも何度もあったし、たぶんこのブログにもそういう思考の断片的な発露がたくさん残っているだろうと思いますけど、  そこからいろんなことを経た今は、そういうことを考えないことが唯一の正解だと自分の中で結論を出してしまっているみたいなところがあります。生きる意味なんて考えてもないに決まっている。  今の仕事を続けていく先に自分の人生の意味があるのかとか、今ある人間関係を維持していくことにどれだけの意味があるのかとかも。だってどうせ最終的には死ぬのだし、短い人生の中で全員がその意味を作れるわけがない。  そういう意味で「少なくともお金を稼げれば稼いだだけ幸せになれる」ということがわかったので、それ以外のことで悩んでも意味がないことは考えないようにしています。  コロナ禍で外出を自粛していろんなものを我慢してまで生に執着することに意味があるのかと言われれば別にないですよ。ないけどそれを言い出してしまったら料理を作る必要もないしリングフィットアドベンチャーをする必要もないし仕事を頑張る必要もないし、生きている必要なんてないんですよね。自殺する動機がないから生きているだけだし、刹那的な快楽、スタバが美味しいとかラジオが面白いとかそういうものの寄せ集め以上の意味なんて要らないです。

トーマス・マン『だまされた女』

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アメリカ人青年に恋した初老の未亡人は、再び男性を愛する喜びに目覚めたのだが……(「だまされた女」)。インドの伝説の村、頭脳の優れた青年と見事な肉体の若者が美しい腰の娘に出会う。娘は女になり、目覚めた愛欲が引き起こす混乱の結末とは(「すげかえられた首」)。女盛りに向かって上りつめる女と、老いのなかでいまいちど情熱に燃える女の、対照的なエロスの魔力。
 『すげかえられた首』の方はまだ読んでないのですが。  ストーリーはあまりにも後味が悪くて笑ってしまった。身体と精神の繋がりをこのモチーフで表現する生々しさ。  母親が娘を呼ぶ時の呼び方が「おまえ」じゃなければ5倍くらい読みやすかったのになあと思ったり。全体的に翻訳の固さ(たぶん古語に忠実なのだと思いますが)で、各登場人物が何を言おうとしているのかいまいち掴み損ねたところがあります。  母親も娘もそれぞれに自分のことを棚に上げて語る、他人を非難しつつ同じ論理で自分を正当化して生きている。親としての責任を放棄しているとは言いつつも、子に対する親の責任とはいったい、という気持ちにも。

エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』

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ボクサー志望のマッツ、貧しくも秀才のマルティン、おくびょうなウーリ、詩人ジョニー、クールなゼバスティアーン。個性ゆたかな少年たちそれぞれの悩み、悲しみ、そしてあこがれ。寄宿学校に涙と笑いのクリスマスがやってきます。
 前半、別の学校の生徒にクラスメートが人質に取られて奪還するために決闘を申し込んでみたいな展開が微塵も共感できなかった。この時代のドイツって本当にそんなゲームめいた世界だったの…?  後半のウーリが勇気を示す流れは確かに示唆的ではあったものの、  全体的に良い人が良い人すぎるのと悪い人が悪い人すぎていろんなことが都合よく解決していく感じがあり、もう少し登場人物に深みというか複雑さがあってほしかったなあと思ってしまった。決して優等生ではない生徒たちに対して先生の対応が優しすぎるし、度を超えた行動に対しても寛容に接しすぎている。逆に実科学校の生徒は単なる悪者以上の意味を持っていないし、良くも悪くも古典という感じ。  結局どういうメッセージが込められた話なのかがよくわからず、何で読み継がれているのかはよくわかりませんでした。 ...

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映画・音楽・小説の感想 5年前

ヒトリエ『HITORI-ESCAPE 2019ー超非日常下北沢七日間篇ー』(2/14・最終日ワンマンライブ振替公演)

行ってきました。  ヒトリエのワンマンは……半月ぶり。  元々、1/27のワンマンライブはファンクラブ入ったのに先行抽選外れたので行く予定ではなかったのですが、  wowakaさんのインフルエンザのおかげで延期・会場変更・キャパ拡大が起こり、奇跡的に追加チケットで行けました。正直ありがたかったです。  とはいえ、初期曲連発前回ほどドストレートなセトリにはならないだろうと思っていたのと、あと単純に会場入りが遅れたので、  今回は最後列付近でのんびり楽しみました。あんまり飛び跳ねずに。 https://twitter.com/wowaka/status/1096055842925817856  見てわかる通りの神セトリ。

    センスレス・ワンダー darasta ever ever ever アンチテーゼ・ジャンクガール インパーフェクション 癖 なぜなぜ 劇場街 トーキーダンス シャッタードール ワンミーツハー リトルクライベイビー 目眩 アンノウン・マザーグース ポラリス コヨーテエンゴースト カラノワレモノ
 割と早めに……3曲目のあたりで「リリース順に各CDから数曲なぞる」構成だと気づいたので、「次は何の曲が来るかクイズ」としての楽しみ方ができて良かったです。  『darasta』など珍しい曲もあったものの、基本的には各CDの定番曲。  『インパーフェクション』来るだろうなと思ったらその通りのイントロだった時はテンション上がりました。  そしてまさかの『DEEPER』全カットは読めなかった……w トーキーダンス・シャッタードール・ワンミーツハーで3曲あると言えばそうなのですが。来るとしたら『後天症のバックビート』かなと思ったら飛ばされて驚きました。  こんな記事を書いたのももう3年前。時が経つのは早いものです。  IKIから選ばれた2曲も好きだけど、できれば『ハグレノカラー』聴きたかったなあ……。初披露のDEEP/SEEK以降未だにライブで一度も聴けていなくて辛い。正直曲単体ではメジャーデビュー後で一番好きな曲だったりするので。  個人的にメジャーデビュー後のCDだと『モノクロノ・エントランス』が大好きで、特に『劇場街』は、このCDが出た数日後にカナダ留学に行って、そこのキャンパスを歩きながら聴き続けてた時の思い出が鮮明に甦るので、そういう意味でも聴けて良かったです。  『アンノウン・マザーグース』もちゃんとやってくれたし、『ポラリス』で〆というところまで、綺麗なセトリだったと思います。  欲を言えば、今日こっそり『ローリンガール』9周年なんでそこにも触れてほしかったなというもやもやも。アンノウンマザーグースの時のMCもそうですけど、ボカロ時代のことにあえて触れないようにしてる感じがしてしまう……。  もうヒトリエの普通のワンマン行かなくなって久しく、リリースツアーは『DEEP/SEEK』を最後に行ってないんですけど、次のツアーは行こうと思ってます。  今回のメジャーデビュー後の集大成なセトリと、前回のレア曲連発な再現セトリで、もう全部揃ったし、次のライブは何が来ても精神的に穏やかでいられる……はず。  そしてそろそろこれのことを考えないといけないな……とも思いました。今回のライブで改めて思いましたけど、ヒトリエってシングルとかEP除いても既にフルアルバム4枚ミニアルバム3枚出してるわけで、wowaka/ヒトリエメドレーって相当しっかり取捨選択して構成組まないとキツいなと……。  そろそろ曲順とかアレンジに手を付けようと思ってますが、イラストなどの協力してくださる方は随時募集中です。 ...

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映画・音楽・小説の感想 5年前

ヒトリエ『HITORI-ESCAPE 2019ー超非日常下北沢七日間篇ー』(1/22・初ワンマン再現セトリ)

1/22。ヒトリエワンマンライブ『HITORI-ESCAPEー超非日常下北沢七日間篇ー』初日に行ってきました。

セットリスト

 今日のライブのセトリは6年前にネタバレしてるから無罪ですね?
    SisterJudy モンタージュガール るらるら らんらんと泣いて アレとコレと、女の子 積み木の人形 Inaikara プリズムキューブ ラインアート サブリミナル・ワンステップ ワールズエンド・ダンスホール ハネルマワル アンハッピーリフレイン 泡色の街 (アンコール) カラノワレモノ ローリンガール
 ライブ中、泡色のところで「次で最後の曲です」とか、あとゆーまおさんが間違えてイントロの音源をちょっと流しちゃって「次の曲バレちゃうじゃん~」みたいな下りがあったのだけど、  そもそも今日のセトリに関しては事前に全バレしてるっていうことに誰かツッコんでほしかったなとちょっと思いました。ライブのアンコールはもちろん毎回ファンとバンドの共犯関係ではあるのだけど、今回に関してはそういうことでもないんじゃないかと。

レポ

 セトリ全バレしてるとは書きましたが、あえて事前に調べたりはしなかったので、どういう順番で来るかはあんまり覚えていませんでした。ローリンガールで終わることくらいは何となく覚えてましたが。  そんなライブは『SisterJudy』『モンタージュガール』という最強コンボでスタート。SisterJudyの中盤であの観客の手がコマ切れに見えるフラッシュがなかったのは残念でしたね。その演出が入ったのは下北沢ERAじゃなくて11月の  『ラインアート』『積み木の人形』が入ってることは正直忘れてたので、ああ、初期は確かにラインアートも定番セトリに入ってたなあ、と懐かしい気持ちに。hitori-escape 11.4あたりからだんだんと消えていったような。  中盤の『プリズムキューブ』、確か初期ヒトリエではキー変えていたと思うんですけど、IKIの頃のワンマンで復活した時にアレンジがボカロ寄りになって、今回も当然そちらの最新アレンジでした。やっぱり良い……。  ここで一旦MC。シノダさんの「6年前のワンマンでは人の押し合いが凄すぎたけど、皆さんも大人になりましたね」という言葉にうんうん頷くばかり。そう、ヒトリエのライブといえば激しいモッシュというイメージがずっとあって、特に下北沢ERAでのhitori-escapeは、観客の頭上に雲ができてライブハウスが揺れるほどの発汗量と運動量だった記憶がありました。  6年前のライブにいた中では自分はおそらく最年少くらいの方だったと思いますが、その自分ですら23歳で就職してるわけで、まあみんな大人になった。メンバー側も。  ただモッシュないまま終わるのもちょっと残念だな……と思っていましたが、それは杞憂でした。後半戦、『ラインアート』に続いて始まった『サブリミナル・ワンステップ』からのダンス曲3連打。  ここに向けてエネルギーを残していたと思われるひとりっ子たち(ヒトリエファンの呼び方、昔ごく一部の界隈であった記憶がありますがまだ生きてるのでしょうか?)。『サブリミナル・ワンステップ』が終わったところでwowakaさんが「とりあえずみんな一歩下がろうか」と呼びかける。が、当然メインはその次の曲、『ワールズエンド・ダンスホール』。  曲中ずっとジャンプし続ける、前奏でコールを入れられる、ワンツーで一緒に叫べる、まさにライブ映えの極地。  ちょうど一昨年、hitori-escapeの2days2日目について書いた感想そのまま。
 ヒトリエのライブ版ワールズエンド・ダンスホールは何度経験しても最高で、  「部屋の隅っこ、最小単位で踊れる曲」というテーマで作られた曲で会場の全員がリアルタイムに踊っていることの感慨深さ、  そして、7年前に世界の隅っこでニコニコ動画を観てコメント打ってたオタク共(私含む)が前奏のリフに合わせて「フッフー!」とかイキってコールを入れている時間と空間の歪み、  それらが凄くポジティブな意味で、自分が生きててもいいんだって言ってもらえるような感覚があって。ワールズエンドダンスホールみたいな曲が大好きな裏のひねくれた住人でもライブを素直に楽しんでいいんだっていう。  そして、7年前のニコニコの思い出と、ちょうど4年前にhitori-escape 11.4に行った前後、つまりライブ初体験でヒトリエにどっぷり浸かっていた頃の思い出が、どちらも詰まっていて、中学生の頃の幸せと高校生の頃の幸せのシンボルなので、  そういうことをすべてひっくるめて、我を忘れて踊れる濃密な4分間の楽しさは他のあらゆる快楽を超えていると思います。 最近の音楽の話題(BOOTLEG、HITORI-ESCAPE2日目)
 そこからの『ハネルマワル』。これライブで聴いたの一体何年ぶりになるのだろう……?  近年は『踊るマネキン、唄う阿呆』や『トーキーダンス』に押し出されてしまった曲ですけど、実はこれがシンプルで一番ノりやすくて楽しいと思う。今後定番に返り咲いてほしい。  アンコールでは長めのMC。オリジナルドリンクに関するトークは普通に面白かったし、次のアルバムの話もたっぷり。  Idol Junkfoodがシノダ作曲というので一瞬「ついにこの日が来たか……」と思ってしまいましたが、よく聞くとシノダさんが構成を作った後でwowakaさんがメロディーと歌詞を乗せる、という作りだったようで、それなら何とか……むしろそっちの方がwowakaらしさが出る可能性にも期待したいです。  欲を言えばMCでボカロ時代からの流れにも触れてほしかったなあというところも。メジャーデビュー5周年はその通りだけど今年は『グレーゾーンにて。』の10周年控えてますよ……と。  アンコールの『カラノワレモノ』『ローリンガール』はもちろん言うまでもなく最高でした。今でも一昨年のhitori-escapeでカラノワレモノやらなかった理由がわからない。

感想

     エモい……という言葉に尽きる。それ以外の語彙を消し飛ばしてしまうほどのエモの塊。
 おそらく6年前に来ていた人がほとんどなのではないかと思いますが、だからこそ時間の流れ、変わったものと変わらないものを痛烈に感じて泣きそうになりました。  とにかく思春期以降の自分の人生はwowaka/ヒトリエとともにあるわけで、  もう下北沢の駅からちょっと入ったところにある住宅街に潜むライブハウスの雰囲気だけで、6年前、高校生の頃のビクビクしながら行った下北沢GARAGEのツーマン『その少女、おひとりさま』、その次の下北沢ERAの『hitori-escape』などの思い出が甦ってくるし、  ライブの途中のサブリミナルワンステップを聴いては、予備校サボって行った『hitori-escape 11.4 非日常渋谷篇』のことを思い出し、そこでメジャーデビューが発表された頃のことなんかを思い出して、自分がヒトリエについて一番熱かったのはその頃かもしれないなあなんて考えたり。  そして何よりも『ワールズエンド・ダンスホール』。  8年半前からずっと変わらず自分の人生で一番の曲で、6年前からずっと変わらず、イントロのドラムから全細胞が沸騰して踊り狂える曲。  自分のライブの記憶も常にこの曲とともにあるし、この曲で飛び跳ねるためにヒトリエライブに行っているので、  とにかくワールズエンドダンスホールが絶対来るという安心感があるだけでライブの楽しみやすさが全然違うなと思いました。  2014年頃からのヒトリエのライブ、行くたびに「次ワールズか?次ワールズか?」みたいなのを待って結局ボカロ曲ゼロで終わるみたいな状態が2年くらい続くことに嫌気差して行かなくなったみたいな感じなので。  ちょうど3日前に観た米津玄師『脊椎がオパールになる頃』が徹底して近年の曲しかなかったのとはコンセプト的にも真逆。だからこそ余計に嬉しい。  ヒトリエが、こういう形でボカロ時代や初期の楽曲たちをずっと演奏し続けてくれること、それ自体がもっと感謝すべきことなのだろうなと、あの米津さんのライブを観た後だと痛感しました。  ヒトリエも米津さんもたぶん自分が一生聴き続ける音楽だろうと思うんですけど、そんなことを無邪気に思えるのはファンの側だけで、アーティストにとってはもちろんずっと苦悩があっただろうし、ヒトリエだって現状の規模を維持するだけでも多大な苦労があるだろうし、今後もいろいろあると思う、  wowakaさんは今日のMCで「5年後も、10年、20年後も音楽続けていこうと思う」と言っていましたが、それは意思表示であって実際にそうなるとは限らないし、活動休止するバンドもたくさんあるわけで、  だからこそ自分は、もっとヒトリエを応援しなきゃいけないなとも思いました。  無責任に批判記事とかで石を投げるのではなくて。もちろんそういう愚痴も素直な感情として吐き出したくなるけれど、ライブにはちゃんと行こう、とか、行ける時に行っておかないと。  そして同時に、米津さんとwowakaさんというのは、自分より一世代上の、そして自分にとっての憧れの存在であることに疑いはないのですけど、  wowakaさんや米津さんがボカロ曲を上げ始めた年齢よりも今の自分はとっくに上にいるわけで、自分ももっと頑張らなきゃなあという刺激も受けました。  あれだけの人数の期待を背負ってそれに応え続けて10年いるというのは、凄まじいことだなと改めて……。そういう存在にデビュー前から出会えてずっと応援し続けられていることにも幸せを噛みしめつつ、そんな人たちのことを無責任に評価するだけのつまらない三流音楽ライターになりたいわけではないので、自分も自分の人生についてちゃんと次の景色を見に行くために走らなければならないなと思いました。  ところでこの話も定期的に書きますけど、wowakaさんと米津さんを一生応援し続けていくのと同じように、  10年前、新宿ロフトプラスワンにwowakaさん・ハチさんなどのボカロPが大集合していた「酒処風船屋」という伝説のイベントに立ち会えて『アンハッピーリフレイン』と『diorama』にサインしてもらったことも一生自慢し続けたいです。 ...

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映画・音楽・小説の感想 5年前

米津玄師『脊椎がオパールになる頃』感想(1/19・徳島)

1/19、米津玄師ワンマンツアー2019、アスティとくしまでの初日公演に参加してきました。  思ったことなどを適当に書いていくのですが、このブログは基本的に「誰も読んでいない」「読むとしたら未来の自分だけ」という前提にあるので、ネタバレなどは全く気にせずに書き記します。なのでこれからツアー行く方は読まないようお願いします。  ちなみに前回行ったライブの感想です。3年前。

セットリスト

 ネタバレを気にしないのでいきなりセトリ。某所から。
    flamingo LOSER 砂の惑星 飛燕 かいじゅうのマーチ アイネクライネ 春雷 Moonlight fogbound amen Paper Flower Undercover 爱丽丝 ピースサイン TEENAGE RIOT Nighthawks orion Lemon (アンコール) ごめんね クランベリーとパンケーキ 灰色と青

演出がヤバい

 まず何よりも感じたのは、「お金があると演出いろいろできるんだな~」というところ。まあそもそも、演奏しなきゃいけないバンドやダンスしなきゃいけないアイドルに比べて、シンガーソングライターっていう形態がパフォーマンスの自由度高いのもあるでしょうが。  最初の数曲はシンプルに強い曲が続き、アイネクライネあたりから背景映像でも魅了し、  しっとりした曲を挟んでからの『amen』『Paper flower』『Undercover』の大迫力のパフォーマンス。この3曲が個人的にこのライブで一番刺さった部分でした。Undercoverが特に。あの演出は凄い。  その後も『アリス』『ピースサイン』と目も耳も惹きつけて離さない。そして本編ラストの『Lemon』まで、見事な流れでした。

MCが最高

 アンコール明けでちょっと長めのMC。  徳島での思い出トークということで、もう徳島県民しかわからないネタが次々飛び出す。駅前にロフトとスタバ、数年前まで一店もなかったセブンイレブン、そしてスーパーセブンの話までw  別に私は徳島に住んでたことはないんですが、毎夏徳島に行ってるので8割くらいはこのあるあるがわかって、それだけで恵まれてるなあと思いました。  正直このMCを生で聞けただけでもわざわざ徳島まで足を運んだ甲斐があったと思いました。あの徳島の話をする時の温度だけは他の会場では絶対に味わえないものだと思いましたし。

物販の規模が凄い

 ちょっとライブの感想から離れますが、物販の凄さもちょっとびっくりしました。あれどう考えても一日で間違いなく何千万とか売り上げてるわけで、恐ろしい。  朝11時に物販開始というアナウンスがあったにも拘わらず、ツイ検索すると8時頃には200人並んでいたらしく。  私自身はそもそも先行で向かう気はあんまりなくて、開演2時間前くらいに行けばいいかなと思っていたのですが、それでは何も買えない気がしてきて朝10時に向かいました。それでも大行列。結局買えたのは12時過ぎてからでした。  ただスタッフ側もそのあたりは想定していたようで、12時になっても売り切れの商品は全く出ていませんでした。『音楽隊』の頃は普通に売り切れ続出だったので、需給予測の精度が上がっていたのか、単に早く行ったからか。  購入までのフローの素晴らしさはさすがビッグアーティスト……という感じでした。クレジットカードどころか電子マネーも使えるという。スタッフの多さも含めて洗練されすぎて驚きました。  ちなみに私が買ったのはTシャツ・パーカー・フーディー・タオル・ラバーバンド。買いすぎ。ただリュックはさすがに躊躇いました。グッズは自分で使うものしか買わない、というポリシーがあるので。タブレットPCが入るポケットありますとかそういう実用面のアナウンスがあったら買ってたかもしれないw  夕方ごろには売り切れてたのかよくわかりませんが、終演後もまだグッズ販売が続いていたので、狩りつくされるようなことはどうやらなかったのでしょう。

徳島県のスター

 自分が買えた後の12時過ぎ、帰りに写真を撮ったのですが、
20190119_121910_HDR  もう何よりも徳島にこんなに人がいたのかという感想を抱きました。  というか、チケットの有無に関わらず徳島市の中高生全員来てたんじゃないですかね。10代・20代のヒーロー的なアーティストが徳島でツアー初日を迎えることなんて他にないでしょうし。自分だって高校生の頃に徳島に住んでてこんな人がいたらそうしてると思う。  ライブの行き帰りの道路、夜に寄ったファミレス、帰りの空港、もう至るところで米津パーカー、米津リュック、緑色のショッピングバッグを目にする。  阿波踊り・マチアソビと並んで徳島三大イベントを名乗っても良いのではないかという、そんな雰囲気でした。むしろ今後は会場に屋台とか出して徳島に経済効果どんどん与えてほしい。  ……そうなるとツアーじゃなくて徳島限定のイベントになるから倍率も飛行機もめちゃくちゃになりそうですが。  でも、チャットモンチーがいなくなった今、『こなそんフェス』的なものを徳島でやる役割を担えるのももう米津さんしかいないわけで、ボカロ出身のアーティスト全部集めたフェスとか徳島でやってくれても良いんじゃないかなあ……という夢。  というか、もうあのワンマンの熱狂を見ちゃうと、nexUsに米津玄師なんてのは絶対にあり得ない幻想なのだと思い知らされたので、ボカロ世代を殺す共演はもうそういうレベルでしか望めない……。

ポップを追求して、最高点を叩いたセトリ

 2014年、『リビングデッド・ユース』が投稿された時、ニコニコで「徳島県最後の希望」って赤文字で書かれてたのが今でも印象に残っているんですが、  それから5年経って、もう徳島どころか邦楽最後の希望になってしまいました。さすがにこの未来を真面目に予想していた人はいないのではないでしょうか。  そんな5年前、ニコニコ/インターネット発のアーティストがシーンの覇者になることを期待していた人たちが、ハチ~diorama時代に語っていた、  例えば「音楽理論を無視した独特なアレンジ」「不協和音を平気で放り込みながら成立させるバランス感覚」「高速ボカロックをそのまま持ち込んだ中毒性」とか、  そういった感想を、今回のワンマンで披露された曲たちに当てはめることはできないと思います。  強いて言えばFlamingoがそうかもしれませんが、『羅刹と躯』のような危なっかしさは完全に鳴りを潜めています。  3年前の『音楽隊』の時は『ゴーゴー幽霊船』、さらにまさかの『パンダヒーロー』まであったのですが、今回はもう見事にBremen以降の曲で構成されていました。YANKEE以前の曲は『アイネクライネ』だけ。  それは良い悪いという話では決してなくて、昔のハチさんの音楽が聴きたければ昔のCDを引っ張ってくればいいし、そういうものを望む必要はないと思います。  だからまあ……ぶっちゃけると、米津さんのライブ、今後は自分は行かなくてもいいかなという気もしています。それは良し悪しではなく個人の趣向として。  ヒトリエのライブに、毎回は行かなくなったものの1年に1回くらい行くというのとは、ちょっと事情が違うんですよね。米津さんは明らかに1年ごとに進化していて、進化するごとにファンが増えているという部分で。  wowakaさんは、まあこういう言い方はいろいろ反感を招きそうですけど、ワールズエンド・ダンスホールより有名な曲はヒトリエにはないじゃないですか。今でも。だから昔の曲を期待してしまうし、新曲にああいう路線を望みたいとも思ってしまうけれど、  米津さんに関しては、Twitterで一部のファンが何と喚こうと、現在の米津玄師のワンマンライブに望まれるものとしては初日のセットリストがたぶん最高値だと思うし、2日目では『ゴーゴー幽霊船』が入ったらしくてめちゃくちゃ悔しいんですけど、『ゴーゴー幽霊船』と『TEENAGE RIOT』だったら後者の方が望まれてるだろうと。  で、米津さんは、そちらを満足させるという、固定ファンを相手にするより遥かに難しい方向へ2019年も進むという意思表示を、2019年初、そして紅白後初のワンマンであるツアー初日にあえてしてみせたのではないでしょうか。  それを自分は支持したいし応援したい、だから今年の新曲も楽しみではあるんですけど、  たぶん私みたいな捻くれた性格と趣味を持った人間が、今後の新曲について「米津さんの曲で過去最高だ!」と思うことはもう一生ないだろうなとも思うわけです。たぶんですけどね。  そういうのも含めて、ただ米津玄師の現在の一つの到達点であり完成形みたいなワンマンライブに立ち会えたのはとてもよかったと思います。これで下手にviviとかぶち込まれてたら未練が残ったのでw  それでも自分が10代を捧げたアーティストの一人として、今後も追いかけ続けたいし、たぶん一生聴き続けていくんだろうなと思います。それはもう、たとえこれからどんなに音楽性が変わったとしても。 ...

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映画・音楽・小説の感想 5年前

『若おかみは小学生!』の感想の延長戦

よりフランクに

 昨日上げた『若おかみは小学生!』の感想記事は読んでいただけたでしょうか。  これから観るつもりの方は読まなくて良いんですが、それなりに手ごたえのある感想記事になりました。  久々に文章らしい文章を書いたなあという感じで、これを2日で書き上げたことにはそれなりに満足しています。  こうやって臆面もなく一個人の意見を事実であるかのように書けるようになることが大人になるということです。  で、今日は久しぶりに普通の(ただの日記としての)更新をしよう、と思っていたのですが、  若おかみの感想記事に書ききれなかったことをまとめていたら、思ったより長くなったので、1つの記事にしちゃいます。  というのも、昨日みたいに言い切りの文体で、筋の通った一つの「論」として書こうとするとうまく入らないものが多すぎて……。  これは普遍性がない(自分以外の人が読んでもわからない)とか、作品論から離れすぎている(社会問題への接続が強すぎる)とか、そういうことで削ったものがたくさん。  なのでこの記事は、肩の力を抜いて、自分が慣れている敬語で書きます。  なので昨日のこの記事を読んでいることが前提です。昨日の記事もこの記事もネタバレは避けていますが。  ということで削った話をいくつか。

音楽が最高(誰にでも書ける)

 だいたいこういう感想記事書く時、アイドリングとして個人的な話から書いていって、最終的に邪魔になるので個人的な話だけ削っていきます。  
『勝手にふるえてろ』の感想もそうでした。  で、みんな書いてるポイントはみんな書いてるからいらないか、と思って削っただけで、  デザインもセリフもキャラクターも最高に面白い映画なので全般的に褒めたいんですけど、特に良かったのは音楽部分です。  鈴木慶一さん作曲の劇伴、特に中盤流れる暗いBGMの雰囲気がMOTHER2過ぎて最高だった。そして劇中歌の『ジンカンバンジージャンプ!』は早く配信してくださいって感じ。  まあでもこれはもう観た人全員言ってることなんでわざわざ書かなくても……という判断でした。

『ろこどる』だった

 「嫌な奴、悪役が全然出てこないのにちゃんと主人公が成長するしストーリーにメリハリがあって面白い」というのが『若おかみは小学生!』の新しさだ、と冒頭で書いたのですが、  『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』もそうだったので、2例目です。  以前書いた「好きなアニメ10選」みたいな記事の中で、
基本的に面白いアニメって「嫌な事件が起きないので安心して観られるけど盛り上がりがない」か「ストーリーにメリハリがあるけど先が不安になる」かだと思うんですけど、ろこどるは「嫌な事件が起きないのにちゃんとストーリーにメリハリがある」という奇跡のアニメです。 アニメばなし | Our Story's Diary
 と書いた通りで、ろこどるもまた、悪役がいないのにちゃんと主人公の奈々子が成長するし、物語も面白かったです。  だから「ただメリハリ作るために、悪役以外のアイデンティティを持たない、物語的な必要性だけで生まれた悪意の塊みたいなキャラ」を生み出すのって単なる甘えだなあとも思いました。  ただ2018年の今、『ろこどる』を例えに出して誰がわかるんだよという感じだったので削りました。  どちらも共通点多いので、若おかみ気に入った方はこっちも面白いんじゃないでしょうか。おすすめです。

『花咲くいろは』じゃなかった

 あともう1つ、今回で言えばどうにも収まりが悪くて削った文章があって、  この映画のあらすじを見て、「ポストジブリ!ポスト宮崎駿!」みたいな感想見た時に私が抱いた感想が、 「あーはいはい、また主人公が女将にめちゃめちゃ厳しく指導されて過酷な追い詰められ方をされて逃げ出したくなったりするけど、最終的には何だかんだで辛い経験も全部糧になって成長する系のアレね」  みたいなことを書きたかった。  ニュアンスとしては元の感想記事にも残ってるんですが、自己主張強すぎて流れを止めちゃうなあと。卒論だったら脚注に投げるやつ。  要するにこの設定だと『花咲くいろは』思い出しちゃうんですよね。女将の主人公への当たりが強すぎて、最終的にもろもろハッピーエンドになることなんかもちろん承知の上で1話切りしたアニメです。  それだったらちょっと嫌だなあと……。  で、冒頭はちょっとその匂いがあって、おっこが若女将になるのを承諾するくだりは割と有無を言わせず……だったのですが、その後はちゃんとおっこが自発的に選んで、周りから何かを強制されない、しかも基本的にはおっこはずっとハッピーなので、良い映画だなあと。  おっこ自身がその責任でがんじがらめになって選択する余地もなく、みたいな映画になってないところが良かったです。  まあ、高校生とかならともかく小学生主人公でそれを描いたら本当に目も当てられない児童労働になってしまうということもあるのでしょうが……。  あと、「中盤までボロボロにされた主人公が最後だけ何となく成長して丸く収まるけど全然プラマイゼロじゃねーじゃん」みたいな王道ストーリーの例として『アンナチュラル』挙げようかとも思ったんですが、  伝わりにくそうなのと私自身もアンナチュラル3話以降観てないのでやめときました。甲子園批判くらいがちょうど良い。

信仰の必要性

 感想記事のラストの、信仰に関する話は、いろいろ持論削った結果だったりします。  この映画を観る前から何となく考えていたことなのですが、  最近の日本だったり世界だったりの、血も涙もなく弱者や少数派や対立する相手を切り捨てることを良しとする風潮って、  資本主義、新自由主義、科学や合理性の観点からではどう論理を組み立てても否定しきれないなと思っていて。  例えば「LGBTは生産性がないから殺すべき」みたいなことを言ったとして、それでLGBTを殺したことでLGBTでない人に何か不利益があるかと言えば、資本主義的にはないんですよね。この考え方を擁護するわけではもちろん全くないですが!  でもドイツのナチスがやったのはそういうことで、それでユダヤ人でない人種に「不利益」があるかと言えばない、むしろ利益を享受できたわけじゃないですか。  さらに極論として言えば、「この国にいる51%の人の税金ゼロにして残りの49%の人権奪って奴隷にします」っていう主張は資本主義・民主主義では通ってしまう。  そして、今、安倍首相やトランプ大統領がやっているようなことは、それをもう少しマイルドにしたものでしかない。  で、そういう自己本位、実力主義、自分が勝ち馬に乗れれば負け犬は皆殺しで問題ない、という考え方が、インターネットで本音が好まれるようになってますます増長しているし、  それに対して「いや、LGBTも生産性あるよ」とか「だったら安倍首相も子どもがいないから生産性ない」とかは、  結局その論理に乗っちゃってるから否定できてない。  「生産性があってもなくても人間は生きていていい」という結論を導く必要があって、  それは資本主義や民主主義というところに立っている人間にはどうしようもないのだけど、  宗教や信仰といった、人ならざるものの力を借りることで初めて導くことができる。  「神様が人類はみな平等と決めたから」と言えば、それで全て解決するし、むしろそれ以外で解決できない。  それが合理的ではないという人もいるかもしれないけど、じゃあ逆に、弱い人間は殺してもいいなんていうあり得ない意見を否定するために、それほどのことをしないと導けない方がおかしいというか、  本来は理屈なんかいらないはずなんです。それでもそこに理屈を求めてしまう人間の弱さを助けるために信仰や神の存在がある。  で、『若おかみは小学生!』はまさにそういう映画だったんじゃないかと。  おっこに対して何かを強制する権利のある人間は、生きている中にはいない。  でも亡くなった両親と、温泉の言い伝えがあるから、おっこは前に進めるし、それは他人の言葉に支えられてのものであったとしても、それも含めて自己の強さと言ってしまって良いだろうし。  ラストシーンの、おっこのトラウマの克服って、  例えば「今までライバルだった真月に叱咤激励されて」みたいに着地させることもできたと思うし、むしろその方がすごく王道っぽい。  でも、そういう映画だったら私はボロクソに叩いてましたね。その方がウケは良いのかもしれませんが、そうじゃない、というのが新しいし素晴らしいと思います。  現実社会の話に引き戻すと、  だから今の日本社会がこんなに息苦しいのも要するに無宗教な人が増えたからなのでは……とか、  自分のこの矛盾(他人を否定したくないけれど他人から否定されたら否定し返したい、など)はもしかしたら信仰によって解決するしかないのではないか……とか、そういう話です。  だからといって現代に信仰が広まることもないでしょうから、  その点でも『若おかみは小学生!』は理想の世界の話だし、ファンタジーだなあと。  でも、ファンタジーにわざわざ現実の息苦しさと絶望を持ち込んで、子供に夢を見させまいとする数多の映画より、こっちの方が世界にとってポジティブに作用してくれるでしょうから、もっと増えてほしいですよね。ディズニーは『ズートピア』でとっくにそれを達成しているので、日本アニメでも。 ...

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映画・音楽・小説の感想 5年前

『若おかみは小学生!』感想。「誰も傷つけない”ぎき”面白い」という新しい王道

前書き

 映画『若おかみは小学生!』を観た。  新海誠監督をはじめとして各方面から大絶賛されているこの映画。 http://twitter.com/shinkaimakoto/status/1043917476608626688  ストーリー、キャラクター、美術、音楽、どこを取っても魅力に満ちていて、過不足なく、子ども向けアニメ映画の新たな傑作であることを疑う余地はない。  ただ、そのクオリティの高さについてここで私が書く意味は、正直ないだろう。  それで観に行こうと決める人は、もうとっくに観に行っているはずだし、既に観に行った人であれば、もう散々その手の語りは見飽きていることだろう。  そこでこの記事では、この映画のウェルメイドな部分ではなく、いかに「新しい」かということにフォーカスしたい。  言い換えれば、「王道映画」「ポスト宮崎駿」と聞いて、興味を持つどころかむしろ観る気をなくした層に向けた感想。  なぜなら私も、「ポスト宮崎駿」という持ち上げられ方を目にして観に行くことを躊躇った側だからだ。    なお、この記事でストーリー上のネタバレはなるべく避けているが、テーマにはかなり言及しているので、できれば観に行ってから読んでほしい。  

あらすじ

小学6年生の女の子おっこは交通事故で両親を亡くし、祖母の経営する旅館「春の屋」に引き取られる。旅館に古くから住み着いているユーレイ少年のウリ坊や、転校先の同級生でライバル旅館の跡取り娘・真月らと知り合ったおっこは、ひょんなことから春の屋の若おかみの修行を始めることに。失敗の連続に落ち込むおっこだったが、不思議な仲間たちに支えられながら、次々とやって来る個性的なお客様をもてなそうと奮闘するうちに、少しずつ成長していく。 若おかみは小学生! : 作品情報 - 映画.com
https://www.youtube.com/watch?v=AtUJn7Lp6Yc  

「悪役」がいない、全ての人間が肯定される世界

 この映画の一番の魅力であり革新は、何と言ってもこの1点に集約される。  この映画には「悪人」がいない。  そして同時に、変わった人や未熟な人であっても、その個性を誰かが否定するようなシーンは決して描かれない。    両親を失ったおっこが引き取られた旅館・春の屋で働く人たちの中に、おっこに厳しくあたるような人はいない。  全員がおっこを可愛がってくれるし、おっこに対して責任を押し付けたりするようなシーンもない。  ライバルポジションの「ピンふり」こと真月も、「春の屋のライバルである豪華旅館の跡取り娘」という設定から想起される、いわゆる「嫌ないじめっ子」のイメージとはかけ離れたキャラクター像で描かれる。自分の旅館と周りの街を盛り上げるべく努力している。  全てのキャラクターが自分の信念を持って生きている。あらゆる言動には理由があり、それは決して他人を陥れるためのものではない。    例えば、「主人公が旅館の若女将に」という設定であれば、  「厳しい女将が主人公の一挙手一投足を叱る」「主人公が若おかみの過酷な仕事に耐えられなくなって逃げだしたくなる」などといったシーンが挿入されそうなものだが、そうなっていない。  もちろんお客様に対する接客の心の大切さ、みたいなものは出てくるが、例えば「時々敬語が抜けてしまう」「バランスを崩して転んでしまう」みたいな小学生らしいミスに対して、合理的でない伝統や礼儀作法を理由に細かく叱るシーンは、全くない。  それらのおっこの純真無垢なキュートさは、無礼や世間知らずといった欠点ではなく、あくまでおっこの持つ魅力として常に肯定され、それは旅館に対してもプラスに働く。  「自分で若女将を選んだんだから」みたいなことを言って追い詰めたりもしないし、おっこがお客様と喧嘩してしまうシーンでさえも、おっこのことを立場を理由に怒鳴りつけて、答えを強制することはしない。  そしておっこもまた、経緯は半ば成り行きであっても、若おかみの仕事を純粋に楽しんでいる。  

乗り越えるべきものは自分の中に

 倒すべき悪や乗り越えるべき壁が出てこない、ということが、平坦で盛り上がりに欠ける物語を意味すると考える人もいるかもしれないが、当然そんなことはない。  春の屋でおっこに訪れる出会いと別れは、その1つ1つに意味があり、おっこを成長させていく。それぞれのエピソードにはピンチとカタルシスがあって、もちろん物語としても面白い。  むしろあらゆる登場人物が敵意や悪意を他人に向けないことは、おっこが、乗り越えるべき自分の弱さを自力で発見していく物語であることを、より強固にしている。  自分の未熟さや失敗は、他者から責められたり追い詰められたりするのではなく、おっこ自身が自発的に気づく。  そして、他者から無暗に攻撃されないおっこもまた、他者を攻撃しない。  全員が優しい世界だからこそ、おっこも、そして観客もそうあるべきだということに説得力が生まれる。    それは他のキャラクターも同じだ。  真月もクラスで浮いてはいるが、周りの子を見下したりはしないし、よくあるライバルキャラクターのようにおっこの足を引っ張ったりしない。  同時にクラスメイトも真月を本気で嫌ったりしていない。努力家な部分はきちんと周囲から認められているし、奇抜な服装もそれを理由にいじめられたりはしない。  「何でもかんでも頑張らなきゃいけないって考え、僕、嫌いだね」と言っておっこを怒らせるあかねでさえも、その考えを改心するような何か酷い罰を受けたり、また明確に自分の考えを改めるシーンが出てくるわけではない。  おっこも、真月も、旅館に来る客も、誰も間違っていないし、だから誰も他人を責めない。誰かを否定する権利は誰にもない。  

王道を更新する映画

 「主人公が悪い奴に苦しめられるが、主人公が我慢できる/受け入れられるようになる(成長する)」  という物語は、映画に限らずあらゆるエンタメで用いられる王道だ。  いわゆるスポ根漫画なんかを想像してもらえたらわかりやすいと思うし、現実世界でもそういう「苦労人のサクセスストーリー」はもてはやされる。  だが私はこのテンプレをなぞる物語が大嫌いだ。  何故ならこのストーリーは、「悪いのは悪い奴の方」なのに「主人公が我慢することが正しい」というメッセージを打ち出してしまうからだ。    主人公に振りかかるあらゆる困難の原因は主人公自身にあると考えることを求めながら、主人公に困難を与える存在たちにはその自己犠牲が求められないという矛盾。  「社会にはどうしようもなく悪い奴がいて、その人たちが改心することは絶対にないから、主人公(観客)が我慢して一方的に不利益を被ろうね」という教訓は、  それがたとえ現代社会を生き抜くための現時点での最適解であったとしても、  フィクションが描く世界の在り方としてあまりにも後ろ向きで、絶望に満ちているし、  実は「善人と悪人はそもそも違う人種である(そして主人公や観客は善人である)」という、差別的で醜悪な考え方を無意識下で前提としている。  主人公は善人だから、悪人から悪意を向けられても慈愛の心で返すべき、という自己犠牲の強要。    例えばディズニー映画が『シュガー・ラッシュ』『ズートピア』といった近年の作品で、そのように善悪を二分する世界の見方に異を唱え、アップデートを目指していることに反して、  このストーリーモデルは(私にとっては残念なことに)現代日本で未だに強く支持される"王道パターン"だ。  しかし、この『若おかみは小学生!』という映画は、このパターンを、正面から明確に否定している。  だからこの映画は全く王道ではないと思う。少なくとも王道として一般的に想起されるストーリーとは全く異なるものになっているはずだ。    安易な悪役なんか出さなくても、面白い物語は作れる。  苦労や苦難、辛い経験をしなくても、人間は成長できる。  それは現実世界で例えるなら、「青春を捨てて部活に励まないと生徒は成長できない」「炎天下の甲子園で野球をしている姿でないと観客は感動できない」と(自覚的でないとしても)主張して高校野球やその他の懲罰的な学校活動を擁護する大人たちとは明らかに一線を画しているし、  子どもが夢見るフィクションの世界だからこそ、子どもにある種の「呪い」を押し付けるような作品には絶対にしない、という、作り手の強いこだわりを感じられる。    この映画が「ポスト宮崎駿」だというのも、正直あり得ないと思う。  価値観が大きく多様化し、「こうすれば正解」という万人に当てはまるモデルケースが存在しない、  人生における幸せの形も成功の定義も、そこへ続く道も、一人ひとりが違う方法で探さなくてはならなくなった、  新しい時代の子どもに向けた映画としてこの作品はあり、  「自己を犠牲にして我慢し続ければいつか報われる」などという古臭い道徳を押し付けるこれまでの王道をはっきり否定し、アップデートしている。  

理想の自分を支える"信仰"

 その世界に暮らす全員が、他者に敵意を向けないからこそ、それぞれが、他者からの強制ではない形で自分の中の弱さに向き合う世界。  では、その前提が崩れた時、つまり、誰かが明確に他者を傷つけたことで、傷つけられた人もまた外の世界に対して敵意を向けてしまう、その連鎖を止めるのは何か?    他者を許す、他者を受け入れるという行為は、人間にとってそう簡単にできるものではなく、誰もが自分の力でそれを乗り越えることは難しい。  そして、それを他の誰かが助けるのも難しい。  女将だろうと親だろうと教師だろうと、その誰もが一人の人間で、感情を持っていて、だから説得力がない。何かを棚上げし、自分の弱さを取り繕って嘘をつかないと、他者に怒りの感情を否定することができない。  だからこの映画は、おっこのそういった怒りや悲しみや恐怖を、直接否定し、無理に乗り越えさせようとする人物が出てこない。みんながおっこの感情に寄り添おうとし、それでもおっこは常に自分自身の決断としてそれを乗り越えていく。  劇中の最後の客との関わりの中で、その強さが、それでも限界を迎えてしまう、その時におっこを支えるのが「信仰」だ。
花の湯温泉のお湯は、誰も拒まない。すべてを受け入れて、癒してくれるんだって
 映画を観た人であれば理解できるだろうが、  この一見するとただの言い伝え、迷信のように思える言葉が、おっこの精神的な支えとなる。  それはまるで(日本でよく使われる批判的な意味ではなく、正しい意味での)宗教、信仰だ。  
監督: 高坂希太郎氏コメント (前略) この映画の要諦は「自分探し」という、自我が肥大化した挙句の迷妄期の話では無く、その先にある「滅私」或いは仏教の「人の形成は五蘊の関係性に依る」、マルクスの言う「上部構造は(人の意識)は下部構造(その時の社会)が創る」を如何に描くかにある。 キャスト・スタッフコメント|映画「若おかみは小学生!」公式サイト
 より善く生きていこうとする強さを持った人に、最後の最後で拠り所にできるものがあること、信仰、倫理、宗教、それらの意味はここにあるのではないか。     ...

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映画・音楽・小説の感想 6年前

加藤千恵『ラジオラジオラジオ!』──自分勝手であるという自覚を持つこと

加藤千恵さんの小説『ラジオラジオラジオ!』を購入しました。 [amazon_link asins='B01H4TA6VC' template='Original']  刊行されたのは2016年。『朝井リョウ・加藤千恵のオールナイトニッポン0』に触れたこともあって、その存在は以前から知っていたものの、Kindle版の価格の高さなどもあって手が出せずにいました。  今回、「女子高生のラジオ」というテーマにちょっと興味を持ったこともあって、読んでみたのですが、当然と言えば当然ながら、もっと普遍的な、表現活動全般に関することが書かれていて、とても面白かったです。  あらすじを説明したり良いところを紹介したりするのは得意ではないし、そんなのは公式HPやAmazonレビューを読めばいいと思うので、  この本を読んで個人的に考えたことを、メモのようにだらだらと書いていきます。  映画『勝手にふるえてろ』感想──自意識過剰な自己否定を肯定する物語  先月書いたこの記事とリンクする部分があるかもしれません。観た方は併せてお願いします。 --------------------

ラジオとインターネットという自分本位なメディア

 今の双方向化したインターネット、FaceBookやTwitterなどはもはや全くの別物になってしまったが、  前時代の静的なウェブサイト、つまり「ホームページ」や「ブログ」は、ラジオと近いところがあると思う。  書いている最中、喋っている最中に、その相手の姿は見えない。  明確に「発信者」と「受信者」という差があって、距離があり、発信者の権限が強く、かつ、発信者が個人であることが多い。情報番組ではないトークラジオの場合、パーソナリティー以外の人間の意志が入ることもほとんどない。  だからカナがラジオをやると同時に自分のホームページを更新しているのもよくわかる。自分のことを一方的に語りたい、自分のことを知ってほしいという欲求が強いのだろう。  高校生の時にラジオをやったことのある人間は少ないと思うが、中学生や高校生の間に「発信者」という立場を経験した人は、インターネットによって爆発的に増えたし、今後も増える。  私自身はこのブログや2chやニコニコ生放送などでそういう恥ずかしい失敗をした経験が何度もあるし、おそらくもう少し下の世代であればTwitterやLINE、ツイキャスやインスタライブなどで似たような経験をしているはずだ。  そういう経験をしてきた人がこの小説を読むと、まるで自分のことが書かれているかのように痛々しく、そして強い共感を覚えると思う。

自分以外の人間は、自分が考えるように考えない

 主人公のカナは、東京の大学に進学することを夢見ていて、つまらない地方都市を早く離れたくて、ホームページを面白くしたいと思っていて、ホームページやラジオを通して自己表現することに抵抗がない、  そして、自分以外の人間もそう思うのが普通だと信じていて、だから地元の大学に進学するトモや、地元に帰ってきたなつねえさんの気持ちがわからない。  他者の気持ちになることはできないのだから、他者の気持ちがわからないのは当然で、  あとはどれだけ「自分と違う考え方をする人間がいる」ことの想像力を身に着けられるか、という違いになってくるのだと思う。  それは言葉にするとごく簡単で当たり前の常識のようでいて、実感覚として手に入れるのは難しい。  例えば、イヤホンをして大音量で音楽を聴いている時の鼻歌は誰にも聞こえていないんじゃないかという錯覚に陥ることは決して珍しくないと思うし、  大人になってからもVRゴーグルをかけていてついつい声が漏れてしまって怒られる人がいるように。(2018/2/3放送『オードリーのオールナイトニッポン』、春日のフリートーク)。
 わたしはわたしの水槽の中にいる。  なつねえさんの東京での生活について教えてもらおうとするのは、自分が東京に住みたいからだし、本やCDも、自分が好きなものを見つけたいから。なつねえさんに質問するふりをして、自分のことを話していた。  何か大きなニュースに触れるたびイメージしていた水槽の中には、最初からわたししかいなかったのだ。中にあるように感じられていたものも、全部錯覚。いたのは、わたしたった一人。なつねえさんも、智香でさえもいない。
 自分と他人は違う。他人とは「自分と同じ感覚を持っているが、見ている世界が違う人」ではなく、「自分と違う感覚を持っていて、同じものを見ても違う世界に見える人」なのだ。  そのようなことを、他者から教えられたり、授業で学んだりするだけでは意味がなくて、自分が実際に気づかなければならない。『ラジオラジオラジオ!』は、カナがそれに気づく瞬間を切り取った小説だと言える。  それに気づくのは容易ではなく、痛みとセットでなければならない。だから、作中後半でカナに起こる出来事は一つ一つが痛く、鋭い。読んでいるこちらまで胸を抉られるような痛みがあって、でもそれこそが高校生が大人になっていくために必要なステップなのだとも思う。

自分の人生の主語は常に自分である

 カナはその自分本位さゆえに、他人を傷つけてしまう。それはおそらくいずれ起こるはずだった避けようのない未来で、それをどう乗り越えるかという物語だったと言える。  そういう失敗をしてもなおラジオを続けるしホームページも続けるところにカナの自意識の強さが見えるが、それは決して悪いことではないと思う。重要なのは自分の身勝手さに気づくことなのだ。  そして同時に思う、本当に、他者を思いやっている、他者に興味がある、という人間が、この世にどれだけいるのだろうか。  例えば、友達と会って話を聞くのは、その話が面白いからで、自分が面白がりたいからだろうし、  他人の辛い話を聞くのも、それを慰めることで自分が優位に立ちたいからであったりするし、  「他人の力になりたい」というのは、「他人の力になることで、幸せになっている他人を見て自分が幸せになりたい」からではないだろうか。  本能的に、人は傷ついてる他者を見たくないし、他人が喜んでいるのを見るのはそもそも嬉しいことなので、  他人を喜ばせることも自分のための活動でしかないと換言できる。  善と偽善の違いはそれが見え透いているかいないか程度にしかないのだろうし、それが悪いとは全く思わない。  『高橋みなみ・朝井リョウ ヨブンのこと』の2018年2月4日の放送回で、結婚観に関してこのような話があった。  結婚することで、「あなたのために料理を作った」「あなたのために稼いできた」という思いを持ってしまうと、「あなたのために○○してきたのに」と、「のに」という言葉がくっついてしまうという話から、  朝井リョウは「自分の人生の主語を自分にすることが大切だ」という。
人に何かをする時に、主語を自分にすることが凄い大切だなと思って。 料理を作るんだったら、「自分があなたのことを大切に思っている気持ちを表すために」料理を作った、ってなると、 その後なにか裏切られるようなことがあったとしても、例えば、浮気されちゃったとか、裏切られるようなことがあったとしても、 自分の気持ちを表現するために料理を作ったんだから、そこで気持ちがねじれることがないのかなと思っていて
 身勝手でない人間はこの世にいない。身勝手でない、他人本位であるかのように振る舞う人間ほど、後々、他人から裏切られたときに一気にその不満が噴出してしまう。  自分が身勝手であると気づいている人間と気づいていない人間に分かれるだけではないだろうか。

無関心も面白くないことも悪くない

 この話が自分に誰も聞いていないしお便りも送られてこないラジオを続けているカナの姿が、今のこの誰も見ていないブログを続けている自分とシンクロした。  無関心よりは嫌いの方が良い、という考え方を、例えばキングコング西野のような芸能人がよく主張しているが、ビジネスとしてはともかく、趣味活動に関して言うなら私は絶対にそんなことはないと思っていて、  嫌いなことをわざわざ伝えてくるくらいなら無関心でいてほしいし、無関心であることを伝えてくる必要もないし、知らないで良いことは知らないままでいいし、  何の反応もないのとネガティブな反応が来るのであれば、絶対に前者の方が続けていられると思う。  カナの友人も、なつねえさんも、実はそこまで熱心にカナのラジオを聞いていなかったという事実は、強く刺さる一方で、それを知るまでは常に心地よい想像で補えていたわけで、その興味がなかったという事実をカナ本人が知ることに、どれほどの意味があったのだろうか。  よく、「面白くない」という言葉がまるで絶対的な正義であるようにして価値判断をする人たちが、匿名のインターネットやそれ以外の世界でもたくさん存在するけれど、  では人間には面白くない話をする権利はないのだろうか。そして、他人からそれを取り上げる権利だけが人間にあるのか。どちらもノーだと思う。  「好き嫌い」という軸で語るのは誰にも止められないが、「面白くない」というのを客観事実として語る力は誰にもないと思う。それを面白いと思う人が一人でもいるなら、そして、仮に一人もいなかったとしても、それを話している本人が面白いと思っているなら、それだけで存在を肯定されていい。 --------------------  思ったよりも短くて物足りない部分もあったし、カナがこのあとどうなっていくのかを読んでみたい気持ちもありますが、それ以上に、個人的に共感できる部分が多すぎて、物語というよりもエッセイに近いような感覚で読めて、一部の人には強く訴えかけるもののある作品だと思います。  一部の時間は回線が遅い、などといった2000年代のインターネットの雰囲気も、当時を知る人にとってはあるあるなのかもしれません。  私自身はもう少し後に触れた世代で、キリ番や右クリック禁止をギリギリ目にしたことはあるけどそういうコミュニティに参加したことはない……という状態なので、あまりピンとは来ないのですが、当時の雰囲気を想像するだけでも面白いです。  あ、内容と関係ないところで不満を言うと、目次がなくて章立てが一切されていないのでKindleで読みづらすぎたのだけどうにかしてほしかったです。  後半に挿入されている短編もちょっと出来すぎているというか、ストレートに本を持ち上げすぎている感覚がありましたが……。ただ本編が面白かったので十分に満足です。 ...

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映画・音楽・小説の感想 6年前

映画『勝手にふるえてろ』感想──自意識過剰な自己否定を肯定する物語

映画『勝手にふるえてろ』を観ました。2018年の初映画。

   元々原作読者というわけではなく、公開前はどんな映画かすら知りませんでしたが、  このような絶賛を目にして、その内容もいわゆる非リア的価値観にフォーカスしたものだと知って、とても観てみたくなりました。  卒論初稿提出までは何とか気持ちを抑えつつ、提出翌日にレイトショーで観に行き、そして、この映画の素晴らしさに震えました。  この映画を観て何を感じたかということを、個人的なメモとして書いていきます。  
あらすじ:初恋相手のイチを忘れられない24歳の会社員ヨシカ(松岡茉優)は、ある日職場の同期のニから交際を申し込まれる。人生初の告白に舞い上がるも、暑苦しいニとの関係に気乗りしないヨシカは、同窓会を計画し片思いの相手イチと再会。脳内の片思いと、現実の恋愛とのはざまで悩むヨシカは……。 映画『勝手にふるえてろ』 - シネマトゥデイ
 

前置き

 前提として私は非リア女子ではなく22歳男子なので、おそらくこの映画が描いていることの全てを正しく受け止められていないと思うし、  今から書くことはそんな映画を自分と接続させた感想なので、それが「男女問わず普遍的に当てはまること」であればいいけれど、「女子向けのメッセージを無理に男性目線で捻じ曲げている」可能性も十分あり、その2つを私には区別できないので、引っ掛かったらスルーするかコメントで指摘してください。  

新しい「非リア」像の構築

 とにかく松岡茉優の非リア演技が完璧すぎる。公式やインタビューでは「オタク女子」「サブカル女子」と表現されているが、それはこの映画で描かれている像を正しく捉えていないので、  この記事ではもう少し広く括るために「非リア」という表現を使う。そもそも私は女子ではないし。    あまりにも完璧すぎて、まるで私は松岡茉優なんじゃないか? とたびたび錯覚させられてしまうほどの圧倒的なリアリティ。  それは「もし自分がこんなに可愛い女の子に生まれていたら」みたいな話では決してないし、そして、こんな可愛い女優が非リアを演じるのはおかしい、みたいなことも起きていない。  だって、非リアとかいじめられっ子にも可愛い子なんてたくさんいるし、逆に学校内ヒエラルキーの上位にいる女子が可愛くないということも全然ある。  だからビジュアルの話じゃない。「この性格でこの言動だったら、例え美人だったとしてもクラスでも浮くだろうな」という説得力がある。

本物の非リアは飲み会に出る

 同時に、それ以前の脚本・演出レベルでも「ステレオタイプ的な非リア像の否定」が行われている。  まず、SNSを馬鹿にしている。「誰にも求められていない言葉をネットに吐き出して恥ずかしくないんですか」と見下している。  これは声を大にして言いたい、SNSでわーきゃー騒ぎながらガチャの爆死スクショを貼ったりPeingでボケてみたり、という人たちは、非リアではなくリア充オタクだ。  インターネットが暗い人間のためのものだった、なんていうのは10年前の話。それはヨシカが、Facebookらしき実名制SNSに登録さえしていなかったことからも明らかだ。  もはや現実社会とネットの二項対立なんて存在しない。人間の集まるコミュニティに馴染める人と馴染めない人の二通りが存在するだけ。    さらに言えば、「飲み会には出る」「友達はいる」という点も新鮮に感じた。  一般的なイメージであれば飲み会を断る素振りを見せそうなものだが、わざわざ飲み会を断れるのはその時点で自分の軸をしっかり持ったコミュニケーション強者なわけで、  真のコミュ障は誘われたら断れずに場違いに出席してしまって愛想笑い。もっと言えばトイレに立つことすらできずに端の席でスマホ(1)私ぎ3ヶ月前の実体験です。  そんなヨシカの使うスマホはAndroid。背面に電源ボタン。ダサい。  結局iPhoneの高校生所持率が高いのも、周りから馬鹿にされない、コミュニティで変に浮かないために持つからであって、それを気にしないオタクの方がAndroid率高いはずなのだ。iPhone + Macbookでドヤ顔しているのもその時点で勝ち組でしかない。  これら一つ一つが、単なるステレオタイプやイメージに頼っていない、きちんと現実に存在する人たちの方を向いている映画であることを証明している。  

「陰キャ」という言葉が示す次世代スクールカースト

 ちょっと『勝手にふるえてろ』から離れた余談になるが、  オタク=ダサい、みたいな価値観を一応でも持っているのはたぶん今の20代までで、現代の中高生にはおそらくそういう感覚すらないと思う。    今の中高生はみんなスマホを持っていて、Twitterを使っていて、まとめブログも見ている。ソシャゲを遊んで深夜アニメを観ているのも少数派ではない。  それはもちろん2010年代に起きたゲームやアニメの地位向上の結果だから良い変化ではあるのだけど、ともかく今の時代は「オタク」はもはや侮蔑にならないし、  だから今は、「陰キャ・陽キャ」という言葉が新たに使われ出している。この新しい区分はつまり、  「陽キャは深夜アニメ観ててもデレステ遊んでてもTwitterでなんJ語使っててもキモくないけど、陰キャはサッカーやってようが恋人がいようがキモい」時代になったということ。  後天的に手に入る属性ではなく、先天的に性格(character)が陰。暗いやつは何をしてても暗い。    だからこの映画は主に20䝣ポ30代のための映画だ。それこそ今のヨシカと同い年の、大学生か社会人なりたての人たち。  ひょっとしたら今の中高生はこの映画を見ても「タモリ倶楽部」というワードでピンと来ないのではないか(2)そもそも「タモリ=昼の顔」というイメージも昔の話だから、タモリ倶楽部の相対的なサブカル感は薄れているのではないか。  

理由があれば行動的にもなれる

 ヨシカの暗い部分に過剰な感情移入をしてしまうと、逆に後半の同窓会を企画するあたりからの行動力に若干引いてしまう人もいるかもしれないが、  これも考えれば納得がいく。  ヨシカは単純な行動を取ったり恋愛願望の強い周りの人間を「本能に流される野蛮な人間」だと蔑んでいる。  これはつまりヨシカが、事前にあれこれ考えてからでないと動けないタイプだということを示しているが、それと頭が良いことはイコールではない。  よって周りからは「よくこんな大胆なことできるな、馬鹿じゃないかな」と思いそうな行動でも、本人の中できちんとした理由付けがされていれば行動できてしまう。  それが顕著に出ていたのが、実名SNSに別のクラスメートを騙ったアカウントを作って同窓会を開く一連の流れだが、あの行動には、「最悪バレてもアカウントごと消せば自分だとはバレない」っていう心理的なセーフティーネットがあったはずだ。  俯瞰的に世界を見ているつもりの人間にとって、最悪のケースでも致命傷にならない、というのは重要なことだ。  だから、「ボヤ騒ぎを起こして死にかけてから、このまま死ぬよりは何とか今のイチに会いたい」という理由付けが必要だった。このまま会えずに死ぬのが最悪のケースだから、行動した結果で何が起きてもそれよりはマシだ、という、自分を納得させる理由。  それは言い換えれば、野蛮な自分の欲望を理性的な自分に呑ませる論理。それは野蛮な自分の欲望を元にした結論ありきの論理なので、往々にして間違っているが、本人は頭が良くないので気づかない。  私自身にもそういう経験があるので(3)現在別の彼氏がいる元カノに告白したことがあります。その顛末を書いた記事⇒同窓会と成人式と伏線回収、だからヨシカがああいう行動をしたのも腑に落ちた。  

自己否定は自意識過剰の裏返しである

 物語の後半で明かされる、いろいろな話を聞いてもらっていた話し相手が、実は全てヨシカの脳内会話で、実際は話したことがなかった。  正直この展開は割と早い段階で読めた(4)この種明かしシーンを観ながら、実はアパートの隣のオカリナさんや来留美との会話も全部妄想だった……という更なる展開を一瞬予想して怖くなったが、さすがにそこまでホラーではなかった。ヨシカのような人間に、バスで隣り合った相手に話しかけるなんてできるわけがない。  ヨシカが欲しがっているのは自分の想定通りの返答をしてくれる相手だ、という、上の理論先行型な性格とも通底していると思う。  自分の考えが世界で一番正しいと思っているので、自分のシミュレーションの通りに動かない他人は間違っている。だからイライラする。    ヨシカの性格は、自己評価が高すぎる、自己評価が高すぎることを自覚しているがプライドを捨てられないという捻じくれすぎた自意識を体現している。それを「自己評価が低い」と「自意識過剰」のどちらかに分類することしかできていなかった旧来の映画にノーを突き付けたから、この映画が、松岡茉優が、新たな代弁者としてもてはやされているのだと思う。 ...

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映画・音楽・小説の感想 6年前

2017年の好きだった作品・番組いろいろ

音楽やゲームほどではないけど気に入ったものを羅列。  しかし音楽と違ってテレビとかラジオは忘れちゃうので良くないですね……ちゃんとメモしておくべきだったなあと思いました。ブログに残っているものもあるけど残っていないものも。  正直無理にまとめただけで文章としてはかなり精度が低い。ので読まなくていいです。

テレビ

水曜日のダウンタウン、ゴッドタン、キングちゃん

 水ダウは多少の差はあっても本当に毎回面白かった。1年通してちゃんと毎週観たのは本当にこれだけかもしれません。  印象に残っている説は……2時間SPの通し企画は別格として、それ以外だと早弁先生とかかなあ……意外と思い出せない。オードリー春日の伝説の記録も今年かな? 驚いたけど別に面白い! っていう方面の印象ではないですしね。  キングちゃんが『ハートブレイク』『冷やし漫才』などの名企画連発で毎回面白かったのに比べると、ゴッドタンはマンネリっぽくなってるものもあるし、週ごとに当たり外れが大きい印象。ただ一貫してハライチ岩井が出ている回は最高だったので来年の新春マジ歌が楽しみ。キングちゃんも復活しますし。

クイズ☆スター名鑑、人生のパイセンTV

 終わってしまった番組たち。  スター名鑑は最後の特別編が一番面白かった。新年早々、正式に最終回を行う猶予すらなく打ち切りとなってしまったスター名鑑。残念でしたが、特別編でしっかり次回への布石を打って回収。さすがの演出力。特番ででも復活してほしいなあ……。『正解は一年後』が実質それですが。  人生のパイセンTVも最高だった。最後にベッキーを迎えてトークする最高の時間。ベッキーに対してああいう踏み込み方ができるのはなかなかいないけど、それこそが今の時代に求められているものだと思うし、それを安心して観ていられるのがオードリーというコンビの持つ安心感だなあと。  オードリー×ベッキーの組み合わせは最高なのでパイセンTV復活してほしいなと思っていたら、Netflixで配信されたオードリー×ベッキーMCの「あいのり」が地上波でも始まるようです。ベストではないけれどベター。楽しみ。  他には『久保みねヒャダ』も残念だった。『モロモロのハナシ』は……別にいいかな……。

ラジオ

高橋みなみ・朝井リョウ ヨブンのこと

 『ヨブンのこと』は毎回安定して面白かったけど神回を1つ選ぶなら間違いなく8/27(スペシャルウィーク)。30分かけた壮大なコント。『脱力タイムズ』のような。  前半を全てフリにしたラストの歌は衝撃。ヨブンのことは毎週面白いんですがこの回が特に素晴らしかった。  朝井リョウさんは他にもいくつかのラジオにゲスト出演した回も全部面白かったなー。ミュージックソンにもぜひ出てほしかった。

アルピーD.C.GARAGE、ハライチのターン

 『D.C.GARAGE』は、私が聞いてるラジオでは珍しくリスナーの投稿メールの方が面白いラジオ。ラノベのコーナー、LIFEのコーナー、ラップのコーナー、そしてふつおたまで、リスナーがここまでセンスあるのは凄い。  アルピーのトークも好きだけど、最近ちょっと平子さんのプライドの高さが引っ掛かるシーンが多い……『勇者ああああ』も含めて。  腹がよじれるくらい笑った回もたくさんあったけど、具体的に訊かれるとなかなか思い出せない。直近でピカチュウカー弄りが最高だった。  『ハライチのターン』は……爆笑するほど面白いわけではないのが逆にちょうどいいみたいなところもあります。安定してそこそこ面白い。ハライチ岩井が逆に意外とラジオだと攻めていないのが良い。あ、ただけもフレがたつき監督の問題で炎上した次の日にニコ生のけもフレ特番に出演した話は面白かったw

オードリーのANN

 最高。こちらも毎週楽しかったのですが、特に良かったのは10.21の柳原可奈子さんゲスト回。若林さんと柳原さんの相性が完璧でした。  今の時代、安易に他人の逆を行って人と違う視点を持っていますアピールする人がインターネットに増えすぎて、増えすぎたそいつらと同じことをするのが「人と違う」なのか、という問題があって、つまり今「インスタやってるやつは自意識の塊」とか「海外一人旅なんかしても何も変えられない」とかいうことが「わかってる」アピールなのか。  多数派に対して違う視点を提供して多様性を確保することが役割であるとするなら、そこで「インスタしたって別にいいじゃん」っていう方向に行くのがナナメなのではないか? というような。  そういう部分でオードリー若林さんの洞察力は一つ先に進んでいてハッとさせられるし、今の地上波バラエティやインターネットに蔓延しているレベルの低い揚げ足取りやステレオタイプ的なレッテル貼りをしないという安心感を持って聴いていられるのがありがたいです。

書籍:桐島、部活やめるってよ / カバーニャ要塞の野良犬

 なんかもうこのへんは出た時に感想書いたからわざわざ書き直すものもない……でも桐島は今更衝撃受けました。  結局感想書こうと思ってお蔵入りにしたままPCのデータ飛んだんですが、要は「中高の時の自分って明らかにカースト最下位だったのに、そのことに気づかずにカースト上位に突っかかったり絡んだりしててめちゃくちゃイタいやつだったな」というのと、「もし桐島を中学の頃に読んでたら高校でそういう行動取らなかったから確実に人生が変わってたな」ということでした。それがなかったからこそ今の大学を受けたとも思うので、  カバーニャ要塞も良かった。上のANNと合わせて、個人的にはオードリー若林さんの大活躍が目立った年でした。さすがに全部は観られていませんが……。『しくじり先生』では明らかにそこの齟齬が見え隠れしていたし、『セブンルール』『激レアさんを連れてきた』も良い。 [amazon_link asins='4040693167' template='Original'] [amazon_link asins='B00A773H60' template='Original']

漫画・ラノベ

 『ろこどる』『禁書』『ヘヴィーオブジェクト』の新刊を買った。そのくらい。相変わらず面白い、としか言えないです。ところで『青春ブタ野郎』の続きはまだですか??

映画:特になし

 今年はほとんど映画観なかった。去年はたくさん観たのに。モアナとポケモンだけかな?  『キミにきめた』も別に絶賛するほどは面白くなかった……。評判良いけど個人的には去年のマギアナを完全に下回ってたと思います。あれ観るならマギアナ観てほしいですよ。  あ、『勝手にふるえてろ』凄い観たいけど卒論がひと段落したら年明けに観ます……。  Prime Videoで『ガールズステップ』とかいう映画観たのはちょっと面白かった。

アニメ:Just Because!

 最高。観ていない人は損している。高校生の複雑な人間関係に胸が痛くなる……。もう早いところでは最終回終わってるのかな?まだ? ネタバレを避けつつPrime Videoでゆっくり追ってます。残り2話。楽しみ。  他に観たアニメは本当にゼロなんじゃないかな? ツインエンジェルとかおそ松さんとか結局観なかったな。バンドリもアプリ配信始まってから途中まで観たけど面白くはなかったし。でもたぶん去年はゼロなので今年の方が多いですw [amazon_link asins='B076CWRCGT' template='Original']

アイドル:Pyxis、リリスク、ブクガ

 リリスクにハマってから(あとその時期に声オタの友達と絶縁したこともあって)アイドル声優は基本的に全然興味なくなったんですが、Pyxisだけは追ってる。といいつつソロラジは時間なくて追えてなくて、ガルパ情報目当てにハロハピ放送局を毎回観てるのと、『Pyxisのキラキラ大作戦』を時々観ています。キラピクは何が悪いって水曜日のダウンタウンの真裏なのが悪い。でもプレミアム会員以外はタイムシフト予約しないといけないから、ついつい忘れちゃうんですよね……。  Pyxisのあの関係性は本当に素晴らしい。リリスクもそうだけど、別にアイドルと付き合えるとか仲良くなれるとかそういう夢は見たくないし見せてくれなくていいので、ただアイドル同士が仲良くしている世界を覗き見させてほしい、美しい関係をおすそ分けさせてほしい。そういう点でPyxisは100点です。TrySailとかあそこまで行っちゃうとビジネスっぽいんですよねえ……単に好き嫌いでしかないと思いますが。  Pyxisの良さが一番出てるのは実は『鷲崎健のヨルナイト×ヨルナイト』のゲスト回だと思うので、気になる方は調べてみてください。やっぱりバラエティとしての面白さを求めるなら「わかってる」MCがいる方が良いんですよねー。  リリスクとブクガの話はもう散々したのでしません。 --------------------  上半期のこと忘れてると思うんでいくつか書き漏らしがあるかも。というか絶対ある。来年はもう少しちゃんと書き残しておくべきだなって思いました。終わり。 ...

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映画・音楽・小説の感想 6年前

2017年個人的ベストソング30曲

毎年やっている、現在のインターネットにおける最も権威のない音楽ランキング。この企画も早いもので……8年目?らしいです。もはやホラー。  過去記事はこちらのタグから⇒タグ:今年のベストソング  今年はちょっと発表方法を変えて、「まず順位と曲名だけを先に全部発表して、その後に改めてコメント付きで1位から解説」という構成にします。  以前は「30位からコメント付きでカウントアップ」でしたが、30位から先に解説していくと、  下位では本来「この曲を好きな理由」に加えて「この曲がなぜ上位じゃないのか」を説明しないといけないのに、その時点では上位はまだ発表していないから不自然だし、「それより上に○○が入っているから」という理由を話せなくなってしまうんですよね。  かといっていきなり1位から発表していくとワクワク感がないので、先にランキングだけ見てもらった上で、書いていこうと思います。  ルールはいつも通り、2017年に発売または公開された音源、CD、ゲーム。  一応今年は「同アーティスト3曲まで」という縛りを設けていますが、結局ランキングを作るとなるとどうしても見映えとバランスを意識してしまうので、仮に縛りがなくても大体こんな感じになったかなあ……という印象です。

順位

30. インフルエンサー / 乃木坂46 29. HOLY GRAiL / ヤなことそっとミュート 28. Behind / 夏目美緒(cv.礒部花凜)、森川葉月(cv.芳野由奈)、小宮恵那(cv.Lynn) 27. 雨とペトラ / バルーン 26. W-KEYAKIZAKAの詩 / 欅坂46 / 真っ白なものは汚したくなる 25. ラブって♡ジュエリー♪えんじぇる☆ブレイク!! / あべにゅうぷろじぇくと feat. 天月めぐる (CV:M・A・O) & 如月すみれ (CV:茅野愛衣) 24. エゴサーチ&デストロイ / ドレスコーズ / 平凡 23. わがまま新生Hominina / ぜんぶ君のせいだ。 22. CALL ME TIGHT / lyrical school 21. TOKYOチューインガム / RHYMEBERRY 20. 正しいままではいられない / パスピエ / OTONARIさん 19. FairyTaleじゃいられない / フェアリースターズ [最上静香 (CV.田所あずさ)、白石 紬 (CV.南 早紀)、所 恵美 (CV.藤井ゆきよ)、ジュリア (CV.愛美)、北沢志保 (CV.雨宮 天)] / アイドルマスター ミリオンライブ! シアターデイズ 18. (dis)communication / パスピエ / OTONARIさん 17. 銀河鉄道のペンギン / Yunomi feat. Nicamoq / ゆのもきゅ 16. 宙ぶらりん / ライターイチキューゼロイー ...

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