『ズートピア』感想。「偏見の普遍性」と「自己決定に拘ること」
ズートピアはすごい。いや、すごいなんてもんじゃない。 ディズニー映画最新作『ズートピア』を観てきました。 『シュガー・ラッシュ』を劇場で観た時に、その完成度……緻密すぎるストーリーと魅力的なキャラクターに度肝を抜かれ、「ディズニーを子ども向けアニメとして侮ってはいけない」と痛感させられてから数年。同じリッチ・ムーア監督の新作とあって、大いに期待していきました。 そして……期待を大きく上回る、圧倒的なパワーにまたも圧倒されました。 何が凄いって、1つの映画にあそこまで詰め込めるのか、という。 普通、子ども向けの映画は大人には単純すぎて、大人向けの映画は子どもにはわかりにくかったりするし、 テーマやメッセージ性の込められた話は退屈で説教臭く、エンタメに寄った作品は薄っぺらくなったりしがちなところを、 ズートピアは全てのベクトルを完璧に満たしている。誰が見ても納得できるし、考察の余地がたっぷりあって、でも考察しなくても楽しめるという、まさに懐の深さと広さを両立した傑作です。 で、当然ながらズートピアのストーリーについてもいろいろ語りたいことはあるんですけど、正直突っ込みどころがなさすぎて「ここが良かった」「ここが素晴らしかった」みたいな話しかできないし、それは思いっきりネタバレだし、そもそも観た後に一緒に観た友人とだいたい語り終えて満足しましたし。 あと、伏線というか丁寧なフリの回収に関しては既にまとめ上げた先駆者がいらっしゃるのでそちらを参照していただければ。 『ズートピア』におけるハードコア反復/伏線芸のすべて - 名馬であれば馬のうち というわけでこの記事はテーマ性の話をします。ネタバレも多々あります。ストーリーの結末までは書きませんが、でも映画を観てから読んだ方が絶対にいいと思います。あの映画は先入観なしで観る方が絶対面白い。 あと関連して『シュガー・ラッシュ』の話も若干します。こちらもまだ観てない方で初見で楽しみたいと思う方はご遠慮ください。 -------------------- 『ズートピア』はアメリカ社会の比喩になっていて、「差別・偏見」を描いた映画である、みたいなことは、ツイッターの感想とかで結構頻繁に見るので、たぶん知っている方も多いと思います。 しかし、この映画が真に凄いのは、単に「差別」や「偏見」を取り上げて、その問題を指摘して、「だから差別はいけないことですよ」とかそれらしく語るだけの凡庸な映画とは一線を画している点です。 映画の始まり、幼少時代のエピソードを挟んで、ジュディは田舎から警察官を目指してズートピアに来ます。しかし、「ウサギのような小動物・草食獣は警察になれない」「どうせ役に立たない」「駐禁を取り締まるくらいしかできない」などというレッテルを貼られ、周りからバカにされてしまいます。 ……という導入を観ながら私は、「あ、なるほど。みんなから馬鹿にされているジュディが活躍して周りを見返す話なのかな?」なんて想像をしていました。 ところが。この映画は、ディズニーはそんなところではもちろん終わらない。 予想通り、ジュディは相棒のニックとともに大活躍、ズートピアで起こっている事件を見事解決しますが、その後のヒーローインタビュー的な会見で肉食獣への差別を助長する発言をしてしまい、ズートピアで肉食獣の立場が悪くなるきっかけを作り、ニックからも見放されます。 そしてジュディは自分の間違いに気付き、ニックに真摯に謝りに行きます。 この、一連のストーリーの流れが、見事としか言いようがないなと。 ただ単に「差別は良くないよ」と呼びかけるだけなら、”社会的弱者”のジュディが活躍するサクセスストーリーでもよかった。 でも、それでは、”差別の普遍性”を観客に訴えられない。つまり、「ああ、差別は良くないね(私はしてないけど)」という感想で終わってしまう可能性がある。 そこで、ディズニーの制作陣は、そこにもう一段深みを与え、 「差別されていたジュディも同時に差別する側であった」という仕掛けを用意した。 差別、偏見は、「差別する側・差別される側」という単純な善悪の構造ではない。全員が差別意識をどこかに持っている。 差別意識、というと強い言葉になりすぎてしまうけれど、 バイアス、偏見、ステレオタイプ、先入観。これらは人間であれば持っていて当然のもので、そもそも人間は過去の経験や知識を基にすることでよりよいジャッジをできるようになる生物だから。予備知識があるからこそ、私たちは毒キノコを食べないし、そのへんのスズメバチに石を投げないし。 ただ、予備知識と差別の違いは紙一重であって、誰もが意識しないうちに差別の加害者になってしまうし、それに気づかないことすらあり得る。 それを最も的確に伝える方法として、それまで偏見を持たれる側であり、同時に観客が感情移入する対象にもなるジュディが、一転して偏見を振るう側に変わる、という演出が素晴らしい。 そこまで丁寧に描いてきた、ジュディの正しさ、善性、そういったものが全て伏線として機能して、「そんな正しいジュディでさえも偏見を持って接していた」というところに持っていく。見事としか言いようがありません。 そして、そこに対して、問題に真正面から向き合って「謝る」、という解決を持ってきたのがまた、素晴らしい。 バディが考えのすれ違いから一時的に不仲になる、というのはお約束ではあるのですが、それに対して、「特に謝るとかではなく、なし崩し的に仲直りする」みたいなケースも結構あるような気がします。……あんまり具体例出せなくて申し訳ないんですが。 ズートピアの設定で言えば、ニックと一度別れた後でジュディが事件の解決のカギを見つけて、ニックのところに飛んで行って、「一刻を争う事態だから早く来て!」みたいなことを言って有無を言わせずに連れていく、みたいな。それはそれで、展開としてはありそうじゃないですか。 例えばこれが、「勘違いだった」「ニックにも悪いところがあった」みたいな話だったら、その展開でも十分だった。 でも、この件では、100%ジュディに問題があって、だから、ちゃんと謝る。 「実は理由があって」とか言わないし、「記者にそそのかれて」とか言い訳しないし、「幼少期のトラウマが」なんて話もしない。それらは1つの要因ではあるかもしれないけど、ジュディがニックに対して持っていた根源的な恐怖そのものは、やっぱり他の誰かに押し付けることのできない、ジュディの問題だから、逃げられない。 -------------------- もう1つ。この映画が素晴らしいなと思ったのは、「社会を変える」という強い意志を感じたところです。 今作の主人公ジュディは、強気で、ちょっと生意気で、世間知らず。スペックは高いが理想も高くて、そのために周りからは「邪魔な奴だな」とか思われる。日本でいう意識高い系ですね。 で、こういう、一般的な社会常識から少しずれた価値観と、そこに対する問題意識を持った少年少女が、それを許容しない社会・コミュニティに対してどう折り合いをつけていくか……みたいなのは、割とよくあるテーマで。 ただ、だいたいの映画は、「周りからどう思われてもいい、自分は自分」とか、「今いる場所もそれなりに幸せ」みたいなところに落ち着いていたと思うんですよ。 実際、『シュガー・ラッシュ』はかなりそれに近い話で、悪役だからという理由で同じゲームのコミュニティに受け入れてもらえなかった主人公ラルフが、主役にはなれないけれど自分なりの居場所を手に入れて、悪役としての仕事にも価値を見出す、というようなエンディングでした。 また、『アナと雪の女王』も、氷の力によってアナと距離ができてしまったエルサを、アナが受け入れる、というような話でした。 それらは確かに現実に即した結末で、「人生つらいことばっかりじゃないよ」とか、「どんな環境であっても考え方次第で幸せになれるよ」とか、そういう励ましのメッセージではあるかもしれませんが、 一方で、「人は自分が何になるかを自分で決めることはできない」という敗北を促すメッセージでもありました。 『ズートピア』が凄いのは、この当たり前の構造を否定したこと。 「各個人にとっての幸せは自分自身で決める権利がある」。 この映画の感想で、「駐車違反取り締まりが価値の低い仕事として扱われているのがおかしい」という批判をよく目にしましたが、私はこれも意図的なものだと思っていて、もちろん無意識的な差別を気づかせるためにあえて残したのかもしれませんが、 それ以上に、「駐車の取り締まりが価値ある仕事かどうかは本人(ジュディ)が決めるべき」ではないかと。 これが、ジュディが駐車違反の取り締まりにやりがいを見出す……みたいな話だったら、それはもういつも通りの、被支配階級が役割を強制される、ありふれた物語です。それは、強制された役割を演じることを受け入れたニックとの対比にも見られます。 そうではなくて、ジュディが、自分のしたい仕事に拘ってこそ、ズートピアの「ここでは誰でも何にでもなれる」というメッセージが明確になるのです。 -------------------- 『シュガー・ラッシュ』において、序盤でラルフに対して酷いことをしたいじわるじいさんも、それ以外のラルフを仲間外れにしていたゲームの人々も、最後までラルフに対して謝ることはしませんでした。 ラルフは確かに変わったのだけど、他の人たちは最初からそのまま。これは、ともすれば「差別する側に立つ方が安全かつハッピー」「マジョリティは変わる必要がない」という教訓をも内包してしまっています。 つまり、『シュガー・ラッシュ』におけるメッセージは、 ポジティブに捉えれば「社会は変えられないけど、自分自身は変えられる」というもので、 ネガティブに捉えれば「自分自身は変えられても社会は変えられない」というメッセージと表裏一体だったのです。そして、このメッセージは古今東西あらゆる物語で使われたテーマでもあります。 『ズートピア』は、このポイントでも、1つ上の次元に達しています。 「社会は変えられないっていうけど、そもそもその社会って私たち一人一人の集合体なんだから、私たち全員が変われば社会も変わるでしょ?」 という、本来なら当たり前のことを示したのです。 「社会に適応しているマジョリティ」「社会に合わせて変わらなくてはならないマイノリティ」という二元論なんて本当はどこにもなくて、 みんながみんな、ある問題ではマジョリティでも、ある問題ではマイノリティだし、ある空間、ある時間の中では強者にある人が、別の時間・空間では弱者になったりする。 その中で、「弱者は弱者なりに、強者に逆らわず、工夫して生きていこう」というのではなく、「弱者じゃない人なんていないんだからもっとお互いを認め合っていくべき」という考え方。 「世界をよりよくする」というジュディの口癖でもある理想は、この問題と確実に対応しています。 映画を通してこのフレーズは登場しますが、ジュディのその言葉に対する考え方は確実に変化していきます。 序盤のジュディにとって何が間違っていたのか。それは、「世界をよりよくする」の「世界」にジュディ自身も含まれていることを無視していたことです。 自分 - それ以外の世界、という分け方は間違っていて、それが明確に浮かび上がるのがやはりジュディが会見で差別に加担してしまうシーン。 「社会に差別されている私」から「社会の差別を構成している私」にジュディの立場が一変する。 でも、『ズートピア』という話は、そこでジュディが自分の理想を諦めたりしない。平穏な暮らし、ちっぽけな幸せに落ち着きました、めでたしめでたし、とは、しない。 自分自身も差別や偏見の中にいて、決して崇高な善人なんかじゃないことを受け止めて、 その上で、それでもよりよい自分になろうとする。自分の間違いを認め、ニックに謝りに行く。 「世界をよりよくする」という理想の傲慢さに気づいて、それでもそれを追いかける。 この、理想の挫折と、そこからの理想の修正を描いたことこそが、『ズートピア』の真に称賛されるべき点ではないかと思いました。 -------------------- この記事の途中で「ジュディが意識高い系」という表現を使いましたが、 今の世界(特に日本社会)では、意識高い系が現実に妥協して意識を低くすることが是とされすぎているように思います。 それは、和を尊ぶ文化の結果といえばそれまでかもしれないけれど。 そのゴールに辿りつかせるためのプロセスが間違っていたからといって、ゴールまで諦めさせる、否定する必要はどこにもないんじゃないかと。 ...