メディア・カルチャー 3年前
森本あんり『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』──良心に反しないためのグレーゾーンの必要性
先日、『不寛容論 - アメリカが生んだ「共存」の哲学 -』という本を読みました。 [amazon_link asins='B08QMYGW4D' template='Original'] 作家の朝井リョウさんが「心が救われた本」として紹介していたことをきっかけに購入したのですが、この本があまりにも良かった、というか、自分がここ数年悩んでいたことや考えていたことに対しての明確な答え……とまでは行かないにしても、大きな示唆を与えてくれるものであったため、覚え書きも兼ねてちゃんと記事にしようと思いました。 なので、「この本を読んだ私が、その内容をどう解釈し、どのように自分の生き方に適用しようとしているか」という部分が主題であり、本の内容だけでなく、そこから派生して飛躍した私自身の感想が多分に含まれています。 本の内容がこの記事に書かれているテーマと一致しているという意味では全くなく、かなり個人的な意見・解釈が入っていると思うので、 くれぐれも著者の主張を正しく理解したい方は必ず元の本を読んでください。というか本当に良い本なのでぜひ読んでください。 (別にネタバレとかそういうジャンルではないので後で読んでも良いと思いますが、私の変な解釈を前提に読んでほしくない気持ちもあるので) --------------------
「わたしはあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」――こんなユートピア的な寛容社会は本当に実現可能なのか。不寛容がまかり通る植民地時代のアメリカで、異なる価値観を持つ人びとが暮らす多様性社会を築いた偏屈なピューリタンの苦闘から、その「キレイごとぬきの政治倫理」を読み解く。
この本は、良くも悪くも最近のトレンドワードとなっている、「寛容」「多様性」という言葉を巡る歴史について、植民地時代のアメリカで活躍したロジャー・ウィリアムズという人物と、彼の宗教観・他宗教との関わりを通して問い直すものとなっています。 ここで、「多様性という言葉には関心があるが宗教には興味がない」と思う方もいるかもしれませんが、現代の社会、特にアメリカという国について理解する上で宗教は不可分のものであるということは、この本を読むとしっくりくるはずです。 ただし、逆にそれについて説明するとこの本の大部分を引っ張ってくる必要があるので、なぜ宗教の理解が寛容について考える助けになるかについて、ここで一から説明することはしません。 宗教という視点を通して書かれているだけで、内容はそれ以外のあらゆる価値観や思想に置き換えて受け取ることもできる普遍的な教訓であると感じたので、この記事では現代の社会の話を中心に書いていきます。 --------------------現代的寛容のパラドックス
そもそも、「今の社会が寛容である」と思っている人は、あまり多くないと思います。それは今回のオリンピックを巡る様々な問題にも象徴されますが、 本来であれば多様性を尊重する方向に進み、民族差別も性差別も昔より明らかに減ってきているはずなのに、どうしてそうなってしまうのか。 この『不寛容論』の中で何度か登場するキーワードでもある、「寛容のパラドックス」は、それを考える1つの手がかりになります。 冒頭で引用される有名なフレーズにもある通り、「寛容な社会/人間は、不寛容なものに対して寛容であるべきか」という問いは代表的なパラドックスの1つですが、実はそれがすべてではなく、 「自分たちに危害を加えるわけではないが不快であるものに対して寛容であるべきか」という問いもあります。 直感的には、前者(寛容な社会を危険に晒す、他者の自由を奪うもの)は否定されるべきで、後者については肯定されるべき、とすれば収まりが良いように見えますが、実態はそこまで明快に分けられるものではありません。 今の社会が理想として目指しているのは「肯定的寛容」と呼ばれる現代的な寛容で、つまり「相手のことを理解し、敬意を持って尊重しよう」という態度です。 その理念に異を唱える人はいないと思います。全ての人間が、相手のことを自分と同等の存在だとして尊重することができれば間違いなく社会は良くなるはずです。 でも、現実世界でそれを実践しようとした時に、例えば私たちはチベットや香港に迫害を続ける中国や、まさに現在進行形の問題であるタリバンなどのことを、理解し、敬意を持って、尊重することができるのか。 人権や倫理というものが明確に善悪を分けられるわけではないし、それを相手に押し付けようとする時点で相手のことを尊重しているとは言い難い。かといって、「被害者がいるわけではないから個々の自由として容認しても良い」と言えるような状況でないのも事実です。国や民族としての自己決定権と、そこに属する全員が同意しているかどうかはどのように区別すれば良いのか。 もう少し身近な範囲で考えてみた時に、例えばヘイトスピーチの規制に対して異を唱える人はあまりいないと思います。もちろん適用範囲についての検討や恣意的な運用を避ける必要はありますが、ヘイトスピーチそれ自体は他者の権利を明確に侵害しているからです。 では、河村市長や森元首相の行った女性蔑視的な言動についてはどうか。 河村市長のあの行為自体は、端的に言って「訴えられなかっただけのセクハラ」なので、本来で言えば罰せられるべきだし、それが許されてしまうことで今後の社会への影響があるとも言えます。 ただ、「訴えられなかっただけのセクハラ」が日常的に行われている会社なんて山ほどあるだろうし、セクハラといっても程度によって様々です。全く同じ発言であっても、TPO、または相手との関係性によって許される場合もあるし、人によっては許されないと思う人もいるでしょう。 DaiGoについてはどうでしょう。生活保護受給者の生命を軽んじる発言を行い非難されましたが、あそこまで過激でなかっただけでいわゆる優生思想的な発言を行った芸能人は他にもいます。例えば、松本人志は2年前に犯罪者のことを「生まれついての不良品」と表現しています。 古市憲寿が今回の件と死刑制度の是非を関連付けたことで批判されたというニュースもありましたが、実際、根底のところで共通する問題としてはあって、つまり、DaiGoの発言や思想が罪であり悪であるとするのであれば、死刑制度を肯定している全員が罪でも悪でもないという論理はどこから導くことができるのか。 現代的寛容、他者を尊重するというのは、このような簡単に割り切れない問題を複数抱えています。 まず自分がこの本を読んで最初に気づかされたのは、この「現代的寛容とは実践の難しいものである」ということそのものです。 多様性の尊重というのは言葉としては単純明快であるが故に、それをわかった上で実践できていないのは単に精神的に未熟、または努力が足りていないと、それを追い求める人ほど思ってしまいがちな面があると思います。少なくとも私はそうでした。 自分に対して危害を加えるものに対して寛容に接しようと思ってもなかなかできないし、危害を加えられなかったとしてもどうしても理解できないものはあるし、そういったものに反射的・生理的・本能的に不愉快さを感じてしまう。自分がそうなってしまうのは、自分の心が狭くて意志が弱いからであって、本当に多様性の尊重を実践している人はこのような困難にぶつかることはないのだと。 しかし実際には、そもそもの思想自体がパラドックスを孕んでいて、この本でフィーチャーされているロジャー・ウィリアムズがそうであったように、どんなに意志の強い優れた人であってもそれを追求する段階で必ず、そう簡単に割り切れない難題に直面するわけです。寛容は嫌いなものに対してのみ可能である
そもそも、「寛容」という言葉自体が、自分が嫌いなものや悪しきものに対してしか成立しない、ということを筆者は指摘しています。 ここには、研究者たちが「寛容のパラドックス」と呼ぶものの一つが潜んでいる。寛容であるためには、相手を嫌いでなければならない。なぜなら、寛容とは嫌いなものや悪しきものに対してのみ可能だからである。誰も、「自分はアイスクリームに寛容である」とか「お年玉をもらうのに寛容である」などと言って威張る人はいないだろう。(No.853-857)
正直に言って、私はこの文章を見た時、頭をガツンと殴られるくらいの大きな衝撃、価値観の揺さぶりを受けました。考えてみれば当たり前のことなのですが、考えたこともなかったなと。 つまり、本当に「他者のことを理解して受け入れる」ということがあらゆる他者に対して徹底できている人間しかいない社会では、「寛容」というものは存在しないはずです。 他者に対して間違っている、悪であるという気持ちがある時点で、そもそも他者のことを尊重できていないのだから、この世界には正しいもの、善いものしかないので、「寛容に接しなければ」なんて考える必要もない。 逆に、間違っていて悪であると見なせる相手がいるとすれば、それは例えば殺人犯のように明らかに他者の権利を侵害している存在であるので、寛容に接する必要がない。 そして、多様性を追っているはずの今の社会が明らかに寛容さを失っているように見えるのも、これで説明が付きます。 リベラルは、多様性を尊重しようとしているので、「悪ではない」と考える範囲はおそらく保守より広いが、一方で「悪であるが罰しなくて良い」という領域については何も触れていないし、正しくないものを許容しようとは考えていない。 それは「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」という言葉にも象徴されています。 だから結果として、ヘイトスピーチから女性蔑視まで、その全てに対して目を光らせ、問題があれば全て正そうとし、結果的に、リベラルが発信力や影響力を強めるほど、社会が息苦しくなっていくような感覚を与えてしまっている。 政治の世界では、こうした感情的動員への反動が「リベラル疲れ」となって表現されている。ルイジアナ州に住むティーパーティ支持者の一人は、事実ではなく意見ばかり押しつけてくるCNNテレビにうんざりする、とこぼしている。客観的なニュース報道を見ようとしてチャンネルを合わせるのに、アフリカの病気の子どもを映し出しては、視聴者の同情に訴えかけ、「この子をかわいそうだと思わないなら、あんたは人でなしだ」と言わんばかりだからである。(No.3752-3758)
これはアメリカでの事象ですが、日本でもマスメディアに対してこのような不満を持っている層は少なくないでしょうし、そういう人たちが反動としてYouTuberの過激な配信に流れていくのも反動の1つと言えます。中世的寛容とは何か
そのようなジレンマを抱えている現代的な寛容論に対して、『不寛容論』が大部分を割いて取り上げているのは「中世的寛容」です。 宗教と政治が現代のように分離されておらず、当たり前のように国教として紐づいていた時代に、異教徒や、「教義を厳密に適用すると悪とされてしまうが社会的になくすことのできないもの」を取り込む手段として用いられていたのが、元々の「寛容」という概念でした。 現代的な寛容との違いの中で大きなものは次の2点です。 ここからして、中世の人びとがもっていた寛容理解の二つの特徴が明らかになる。 第一に、寛容とはあくまでも悪に対する態度のことである。(中略)寛容の対象になるものは、悪であり続け、その悪が是認されたり割り引かれたりすることはない。ただ罰せられずにいるだけである。(中略) 第二に、寛容とは「より大きな悪」を防ぐための便法である。(中略)複数の取り得る道をあれこれと比べてみた上で、いちばん害の少ない道を選ぶのである。(No.804-818)
この本で大きくクローズアップされるロジャー・ウィリアムズもそうですが、中世の人々の根底には強固な宗教観があり、それが正しいこと自体には疑いを持っていないので、神の教えに(異教徒も含めて)全員が従うのが自然だと考えています。とはいえ、異教徒全員を殺したり社会から排除したりすることはできないし、改宗を強制することも基本的にはできない。 だからこそ、それを「罪ではあるが罰しない」ための論理として「寛容」という概念があり、それは「罰する方がより大きな悪になるから」避けるというものです。この場合、寛容に接するかどうかの基準は「寛容に扱うことでより大きな悪を避けられるかどうか」になります。 この考え方の是非は置いておいて、「寛容」の本来の意味はこのような、利己的で計算高いものでした。 このような中世的寛容がそのまま現代に通用するかと言えばそんなことはなく、特に、国や政府、社会全体としてこのような考え方を持つというのは、「自分たちの利益に適う場合のみ存在しても良い」というような、強権的な支配になってしまうでしょう。 裏を返せば、今の自民党はリベラルよりよほど「寛容」であるとは言えるかもしれません。主義主張としては完全に右派だし、差別的な発言もたびたび飛び出していますが、一方で明確な不正と言えば自分の身内を厚遇したり私腹を肥やしたりする程度で、権利を制限するような行為や迫害をしているかと言えば別にそこまででもない。今より良くしようという方向もあまり見えませんが、今以上に差別を強化した例もあまりない。 ……今の日本が中世ヨーロッパと同じ政治状況だと考えるとそれはそれですごくやるせない気持ちにはなりますが、まあ、そんなに外れていないような気もしますが、 ともかく、国や社会レベルの行動規範としてどうしていくべきかということについてはそう簡単に答えが出るはずもないし、正直、私がここで何か言ったところで大した意味もないので、一旦棚上げして、 この記事の主題である、個人レベルの行動規範の話に移ります。中世的寛容と現代的寛容のマージ
冒頭で引用したあらすじでは、中世的寛容について「キレイごとぬきの政治倫理」という言葉が使われていますが、 おそらく、「多様性」という理想に対する反論として最もよく使われるのがこの「キレイごと」という言葉ではないでしょうか。 「他者に対して寛容である」「多様性を認める」という趣旨の言葉を聞いたことがないという方はいないと思いますが、実際のところ、その言葉が空虚で胡散臭いもの、特定の誰かに利するものに聞こえることが多いと思いますし、 そして、私がここ数年何となく考えていた、「多様性を認めることは本当に正しいのか」「他者の考え方を全て受け入れることはできるのか」という悩みも、一方でそれと同じ発想の延長線上にあるものだと思います。 、 個人レベルの行動規範として考えても、寛容であろうとする、多様性を尊重しようとする、というアクションはあまりにも困難が多く、そう簡単に割り切れない問題がたくさん立ちはだかっている。 「全ての他者を理解して尊重する」という現代的寛容は、「どうしても理解できなかったものに対してどう接するか」「自分に危害を加える相手も尊重すべきか」ということについて何も教えてくれません。 その帰結として、現代的寛容の側に立とうとする人々は、結果的に自分と違う考えの相手に対する不寛容を強めていくようになってしまっているようにも見えます。 多様性を愚直に追求しようとすると、この世界には毎日数えきれないほどの不正や悪や不愉快、多様性を否定するものが蔓延しています。その全てに対して異を唱え続け、 自分自身も含めて、それを100%常に実践し続けられるわけではない社会に生きているのも事実で、それを常に「これは正しい、これは正しくない」と綺麗に分けられるのか。 このような終わりのない問いを避けるために、中世的寛容をそのまま適用して、「自分の思想と異なる他者は間違ってはいるが、自分に害を為すわけではないので存在しても良い」という態度で生きるのは、もちろんあり得ないでしょう。あまりにも失礼だし、現代で受け入れられる価値観ではない。 私自身としても、現代的寛容、他者の尊重が重要だという考えは変わっていないし、それを諦めるつもりもありません。 ただ、うまく両者をマージすることはできるのではないかと思います。 つまり、「基本的には他者を尊重するし理解しようと努める」が、「自分の価値観と照らし合わせてどうしても認められない悪であっても、それを完全に否定することでより大きな悪が生まれるのであれば、そのままにしておいても良い」ということです。グレーゾーンとしての寛容の実践
自分が不寛容な人間だとは認めたくないものである。すると、残る選択肢は「相手に非があるからしかたがない」という正当化である。昨今の社会問題では、何かと窮屈な正義をふりかざす人が目立つようになったが、それは結局のところ、自分が不寛容だという事実に目をつぶりたいからなのかもしれない。普段なら、本来なら、自分はもっと心の寛い大らかな人間なのだが、相手があまりにひどいから、やむなく社会正義のために批判するのだ、という自己解釈である。(No.3725-3729)
今までは、例えば多様性を否定する何かを見た時に取れる手段が、「その考え方を理解して肯定する」か「考え方を理解できないものとして否定する」かという、白か黒の2パターンしかなかったのですが、 そこに、「理解できないが容認する」というグレーゾーンを選択肢に加えるということになります。 例えば、DaiGoの発言自体は、悪であり、誤りで、許されるものではない。ただ、DaiGoが今すぐ全ての仕事を失って社会から排除すべきかというと、それは、社会として「より大きな不寛容」を生み出すことになると思います。 だから寛容に認める。ただ、そうしたからといって、その発言自体を正しいと思っているわけではない。明らかに悪で、誤っている。誤りだと主張し続けることと、でも存在していいと許容し続けることは、矛盾していない。 逆に、自分の中で以前から許していたもの、例えば「このご時世にパーティーをする人」、「夜中に街で大騒ぎしている酔っ払い」あたりも、厳格に自分の中の論理で言えばあり得ないし、自分に対する害が全くないわけでもない。 「浮気・不倫をする芸能人」なんかは、私自身への害はなかったとしても、被害者もいるので、「正しい」とは到底言えない。 ただ、それを厳密に責めることは社会の、そして自分自身の息苦しさに繋がると思っているし、当事者間での問題であって社会的制裁が必要なほどの悪ではないので、容認する。有村昆もアンジャッシュ渡部も東出昌大もさらば東ブクロも鈴木達央も、正しくはないけど、活動を続けていてもいい。 害という側面だけ言えば、例えば「何となく喋り方や態度が不快な同僚」とかも、嫌ではあるけれど、あえて争いを起こすほどの問題が起きているわけではないので、それはそれとして付き合う。嫌いだという気持ちそのものを消そうというところまでは行かない。 ……こうして考えると、私自身は意外とこの本を読む前から寛容を実践できていたような気もしますが、 ここ数年、こういう本来許されるべきではない社会悪を許している自分はその悪に加担しているのでは、という罪悪感がずっとあったので、それだけではないという論理的な土台を持つことは自分の生きづらさを軽減してくれるように思います。 もちろん、この考えが全てを解決してくれるわけではありません。結局どこかで黒とグレーゾーンの線引きはしなくてはならないからです。芸能人が女性問題で謹慎する必要はないと思っているけれど、だいぶ昔の事件ですけどTOKIO山口達也はちょっと同列視しにくいな、とか。でも一生表舞台に出るべきでないとまでは言えない気もする。DVとかパワハラはどうだろう。 あらゆる差別に関して「自分には関係ないから」という理由で関与しないというのはそれこそ差別への加担になってしまう。全てに対して声をあげることを止めてしまったらやっぱり社会は変わっていかない。 「自分の害にならないから悪を許容する」というだけだとあまりに都合の良い身勝手な論理になってしまうので、そうではなく、「より大きな悪を避けるために許容する」というポリシーが必要だけど、きっと現実世界にあるのはちょうどその中間に属するものばかりでしょう。この部分はずっと考え続けていかなくてはいけないテーマだと思います。 ただ、少なくとも善悪に二分するしかないと考えるよりは、柔軟に物事を捉えやすくなるのは確かだと思います。 そして、そういう割り切った寛容さを持った人が増えてくることで、今のこの息苦しさに包まれた社会が多少は生きやすくなるのではないか、と思うし、特にリベラルとされている集団の中に増えれば、もう少し社会における多様性の受容もされやすくなるのだろうなと。そういう意味で、これは間違いなく今もっとたくさんの人に読まれるべき本だと思いました。 少なくとも自分自身では、これからの行動規範として、自分の周りの人や社会との関わりではそのような実践を目指そうと考えています。そういった新たな視座を与えてくれたこの本に出会えてよかったです。 -------------------- 余談ですが、この記事を書きながら面白いなと思ったのは、この記事を通して考えていることって、全て現実的なアクションの話ではなくて、「自分のこの心のモヤモヤの落としどころをどこに置くか」という話でしかなかったりします。 例えば、今までは「松本人志は悪だから罰を受けるべき」だと思っていたのが、「松本人志は悪だが罰を受けるほどではない」という風に考えが変わったとして、別に現実的には何も変わらないわけです。罰する権利も権力もないので。許さないと決めたとしても、別にそれで署名集めたりタウンワークにクレーム入れたりはしませんし。 つまりこれは自分がそういう「許せないが現状維持にしておくしかないもの」を見た時に、どう考えれば自分の価値観に背いたことにならずにいられるか、という、悪く言えば後づけの論理です。 そして、この『不寛容論』の中でも、「寛容」というのはそういった後づけの論理だということが示されています。 ... メディア・カルチャー 7年前
空気を読めない人間は道徳的に悪であるという『しくじり先生』の欺瞞
5/14の『しくじり先生』に茂木健一郎さんが出演していました。 その回があまりにも酷すぎたので、思うことを書いていきます。
概要
まずどんな回だったかと言えば、 茂木健一郎が「日本のお笑いはオワコン」という例のTwitter発言を反省する回でした。前半がそれで、後半は別の企画。 とても不快なのでオススメはしませんが、TVerで見逃し配信もしています。 私はあらすじをまとめるのがとても苦手なので、お笑いナタリーさんの記事を引用します。 銀シャリ橋本ら、お笑い界批判の「しくじり先生」茂木健一郎を質問攻めに 5月14日(日)に放送される「しくじり先生 俺みたいになるな!!」(テレビ朝日・ABC系)で脳科学者・茂木健一郎が「日本のお笑いは終わってる発言で大炎上しちゃった先生」として授業を行い、銀シャリ橋本らが生徒として受講する。 今年2017年3月にTwitterに投稿した日本のお笑い界への批判が“炎上”し、大きな話題となった茂木がこのたび展開するのは「妙な正義感を振りかざして、嫌われないための授業」。自らのしくじりについて学者らしく研究発表する。教室の芸人たちは、そんな茂木を質問攻めに。果たして茂木と芸人が繰り広げる激論の行方は。 http://natalie.mu/owarai/news/232270
「茂木と芸人が繰り広げる激論」という書き方をしているし、 こういう時に批判一辺倒にならなさそうなオードリー若林さんがMCだし、ということで、 この記事を読む限りでは、それなりに建設的な議論が起こるのだろうと期待するじゃないですか。普通は。 ところが、番組のコンセプト上、茂木健一郎が「しくじったことを全面的に反省している」というスタンスで出てこざるを得ないので、 茂木さんが完全に自分の非を認める形になって、それを芸人たちが弄り倒すという、完全な集団リンチ回だったのです。 そもそも喋りの上手い芸人がよってたかって集中攻撃してくる場で、学者が一人で喋りで応戦できるほど頭の回転早いわけがないし。(頭の良い悪いではなく、トークの瞬発力なので学者に求められるのとは別の能力) しかも東国原さんや銀シャリ橋本さんのような、特に日本のお笑いに自信を持っている古い価値観の芸人を多めに集めていたこともあって、 全員で一方的に殴り続けるだけのいじめが展開されてしまうという最悪な状態が30分ずっと垂れ流される回でした。 しくじり先生がオワコンになった
オリラジ中田、茂木健一郎の「お笑いオワコン論」支持! - オリエンタルラジオ 中田 公式ブログ <見所がある番組とはどれか> 茂木さんの言う「大御所が空気を読ませる番組」ではない見所のある番組をご紹介します。 それは「しくじり先生」(テレビ朝日)です。 この番組は「構造的にものすごく革命的なことをやっている」のに、なんだか魔女裁判的な、内容のスキャンダラスさだけを受け止めている人もいるようなので、はっきりどこがすごいのか言いたい思います。 「弱い立場の人間がルールを作り主導権を持って喋る」 という点です。しくじったとされるゲストが主導権を握ってたった一人で熱弁する。聞き手であるしくじってないMCとレギュラーたちは受動的に話を聞いていく。これは、茂木さんの言う「立場の強いMCが主導権を握って立場の弱いゲストとレギュラーの話を進めるタイプの番組」と真逆の構図です。常在するMC的な立場の人はレギュラーと同格に置かれていて、通常に比べ権限はとても弱い。VTRもほぼ全く流さずに、ゲスト話者の熱量に賭けている。 オリラジ中田、茂木健一郎の「お笑いオワコン論」支持! - オリエンタルラジオ 中田 公式ブログ
せっかくここまで書いてもらったのに、まさに今回の件をテーマに魔女裁判そのものでしかない構図を作って放送してしまった番組スタッフは恥ずかしくないんでしょうか。 茂木さんの方に熱量が足りなかったということもあるのかもしれませんが、それだってそもそも喋りたくない人をわざわざ引っ張り出して矢面に立たせたスタッフ側の問題になるわけで、 茂木さんが何か言うたびに揚げ足を取って笑いものにする、 こんなの、まさしく茂木さんが番組内でも指摘していた「弱い者いじめ」の構図そのものじゃないですか。 今年に入ってからいろいろな問題があった中で、一番叩いても問題のない人を選んで集中砲火を浴びせること自体が、権力批判のできないテレビの縮図だと言えます。 私がオードリー好きだから好意的に見てしまいがちだというのを差し引いて、 今回の生徒側の中でほぼ唯一、本来こういう攻撃に加わらなさそうなMCのオードリー若林さんは、 茂木さんの言い分を引き出すために問題の切り分けに入ったり、ある程度バランスを取ろうと頑張っていたようにも見えます。 (ハライチ澤部さんや関根勤さんのようなバランサーがいつも以上に少なかったことがそもそも問題だと思うのですが) しかし、そもそも茂木さんが一切反論をしないモードに入っちゃっているので、反論が生まれず、 一方で芸人たちは言いたいことを全部吐き出すので、そのコメントがひとつ残らず一方的な暴力になってしまう。 若林さんもあの状況ならもっと茂木さんのフォローに回った方が良かったと思いますが、やはり芸人としてあの発言を擁護はしづらいし、番組の趣旨としても「茂木健一郎を笑いものにする」というレールが引かれていたのでしょう。 茂木さんがその場で即座に反論できる人間でないことは『ワイドナショー』などでもわかっていたはずで、 だとすれば、しくじり先生のコンセプトから外れたとしても、この回に関してはそれこそ中田さんのように、ある程度喋れて茂木さんの擁護に回れる人間を呼んで議論の体裁を整えるべきだったし、 そうできなかった時点でこの回を放送してはいけなかったと思います。 なんでお蔵入りにしなかったのかもわからないし、 あれを見て面白いと思える人はちょっと頭がおかしいとしか思えない、そういう内容でした。 私個人としては、今後はしくじり先生自体見ることもないと思いますが。 多数派視点、少数派視点
さて、その放送と前後して、ある意味でその内容を補完するような記事がネットに上がっていました。 吉田豪インタビュー企画:ウーマンラッシュアワー村本大輔「ベッキーの時も少し多めに殴ってない?と感じていた」(1) 吉田豪インタビュー企画:ウーマンラッシュアワー村本大輔「自分は人間関係も器用なキンコン西野とは違う」(2) 吉田豪インタビュー企画:ウーマンラッシュアワー村本大輔「全員から嫌われても変えられないものがある」(3) 吉田豪さんがウーマンラッシュアワー村本さんにインタビューを敢行した記事なのですが、とにかく全編素晴らしかったのでぜひ読んでください。 個人的に印象的なポイントをいくつかピックアップ。 ──(略)茂木さんの件は番組でも企画にしてましたけど、ああいうことにスイッチ入りやすいですよね。 村本 1対全員みたいなのは嫌ですね。 ──茂木さんが吊るし上げられてると感じると。 村本 はい。ベッキーのときもそうですけど、「ちょっと多めに殴ってない?」みたいな感じがしたときに……強い人は弱い人の話を聞いてあげてほしいというか。でも、強い人がみんなで聞く耳持たずでボコボコにするじゃないですか。それを見てる芸人とか芸能人も、もうちょっとバランスよくしゃべれるはずなのに、一斉にそこはリーダーの話に乗っかるから。 (略) http://dailynewsonline.jp/article/1309358/?page=3
村本 僕、ひとりでしゃべる『ウーマンラッシュアワー村本の大演説』っていうライブをやってて、でも海外は1人で6万人ぐらい集めたりするんですよ。僕は淳さんとか博士みたいにはなろうとしてもなれないですけど、僕がこのモヤモヤを解消できるのはネタかな、と。海外の強い権力が政治だとしたら、日本ってお笑い界、芸能界みたいなところがあって。何かちょっと言おうとしただけで、「いや、それヤバいんじゃない?」とか「これちょっと怒られるんじゃない?」とか言われて。 ──自分にとってタブーはそっちだって実感がある。 村本 そんな感じがするんですよ。何を怖がってんの? と思って、すごい気持ち悪い感じがして。視聴者がそれを言い出してるから気持ち悪いなと思うんですよ。「あの先輩の話はやめたほうがいいんじゃない?」とか「大丈夫?」とか。そこは映画とか観る感覚で楽しんでくれたらいいのに、怖い存在みたいに言われるのが気持ち悪くて。だから、スタンダップコメディやりたいですね。 http://dailynewsonline.jp/article/1309358/?page=2
このあたりの記述、一言一句違わず同意できて、 私は、多数が一人を攻撃する構図の時に、必ず攻撃されている側の目線で見てしまうんですよね。 オードリー若林さんも、年初の『ご本、出しときますね?新春スペシャル』で同様の話をしていましたが、 例え責めている側が正義であろうと、それを理由に他者を攻撃していいとはどうしても思えなくて。 だから、ベッキーの不倫とかも、私自身は不倫なんて絶対しないし、する人の気持ちも全くわからないんですけど、 それでも叩く側には絶対付けないし、付いてはいけないと思っています。 「いじめられること」は「救い」?
一方、今回のような構図も、結果的に笑いになっているのだからそれでいい、パッケージとしてエンターテイメントになっている、という考え方があります。 村本
... メディア・カルチャー 7年前
面白くない情報は価値がない? 地下室の転売NO記事の話
前置き:別にまた炎上したくてわざわざ首を突っ込むわけではないです。ちょっと気になっただけです。
転売NO、でも複数買いは推奨?
少し前に、PCデポ騒動でヨッピー氏がおもしろライターから社会派ライターにジョブチェンジを図ろうとしていましたが、 今度は地下室TIMESさんが社会派な問題に切り込みしたようです。 で?"チケット #転売NO "はファンたちに何を求めているの?本当に偉い人にインタビューしてきた。 ここまでくるともう普通にネットメディアですね。 そのうちアーティストとの対談記事とか上げるんじゃないでしょうか。今オファーすればフットワークの軽いバンドは喜んで受けてくれそうだし、米津さん×石左さんとか普通に面白そう。SMEは断りそうだけど。 このままネットメディアのブランドとして成長していって、そのうち「音楽地下室TIMES」「コミック地下室TIMES」「お笑い地下室TIMES」みたいに派生していって……あ、これ言うと叩かれるやつですね。止めます。 内容は普通にわかりやすかったし、気になってたところも説明されてて良かったです。文句とかはありません。 ただ、「需要が供給上回ってるんだから価格上げろ」に対して「チケット価格を上げることで中高生が楽しめなくなるのが困る」という主張をするなら、 転売サイト運営の「じゃあCD先行抽選商法とかやるなよ」っていうツッコミがますます説得力を持ってしまう問題が。 あの記事のオチにこれを持ってこられると「なるほどこの人正しいこと言ってるじゃん」と思ったんですが、この矛盾は次回の記事で解消してくれるのかどうか。 実際、私も普段はバンドのCDはアルバムしか買わない(シングルはiTunesでDL購入する)のに、今回はライブ行きたくて『LOSER/ナンバーナイン』買っちゃったんですけど、 これ、チケット代1000円値上げするのと何がどう違うんですかね……。 このへんの矛盾について、バンドじゃないけどアイドルのSTEREO JAPANのプロデューサーの話が結構面白いです。 STEREO JAPAN緊急連続企画ーー5月4日リリースのシングルが1万枚売れたら解散!? リリパまでの約2ヶ月間を追う!! その11 吉田豪による水江文人(STEREO JAPANプロデューサー)・インタヴュー ※STEREO JAPANは今年6月、「CD発売・リリイベ・インストアイベント卒業」を宣言しました。その時のインタビューから抜粋。 発表時のライブが特殊な会場を押さえたために場所を借りるだけでお金がかかったものの、売上は悪くなかった、という話からの流れです。 ーーVIP席とかの価格設定が成功して。 水江P : そうですね。普通アイドル・イベントって2,500円とか3,000円くらいのライヴ・チケットだと思うんですけど、そもそも1番安いチケットが4,000円、その上が1万円、1万5000円、2万5000円ってしたら、高額なチケットが全部完売したので。この先、CDを出さないとかリリイベやらないみたいな話もそうなんですけど、あれって結局CDを作ると、作ったお金に見合うように、もっとプラスして稼がなきゃいけないから、毎週リリイベやって、女の子たちも疲れ果てて、観てる側も飽きるみたいなのがあるかなって思って。 ーー今オリコン・チャートでベスト10に入ってもどれぐらいの宣伝になるのかって考えだしたらキリがないですからね。 水江P : ほんとですよ! 火曜発売とか発売日をズラして。 ーーそれで「ついにベスト10に入りました!」なんて大騒ぎして、どんな意味があるのかなって。 水江P : ぜんっぜん意味ないと思います(笑)。おんなじ業界の人とかと話してて、たまにそういう人いるんですよ。オリコン3位だったんでとか、具体例出すわけじゃないですけど(笑)。それがどうにもならないっていうのは数多のアイドルが証明してることじゃないですか。いまは収入源としてCDを出してリリイベがあって、僕らはお金が入るっていうのはあるなと思うんですけど、でもそれは紐解いていくと、お客さんはおんなじようなセトリのおんなじようなインストアでいっぱいCDを買わされてるわけで、もっと気持ちよくお金を払える方法ってないかなっていうのをずっと思ってて。同じお金を払うにしても。
まあ、バンドはアイドルよりは複数買いするファンは少なくない……と思いますが、でも初回限定盤ABとかはやってるバンド割と多いですよね。 リリイベとかインストアもないけど、ライブ限定グッズの価格設定は同じようなものですし。 ファンのため、という理想は、それが達成さていれなければ意味がなくて、その理想に反してファンのためになっていない現実があるなら、やはりやり方が間違っているのでしょう。 現実問題として、高額転売にお金を出せるファンがいるわけで、それなら最初からお金のあるファン向けのVIPチケットを別に作るとか、 中高生に来てほしいと思うなら、チケットの値段上げる代わりに入場時に学生証提示でキャッシュバックする(ドリンク無料とか)システムとか、いろいろ考えようはあると思うんですよね。 そういう工夫をせずに「音楽業界の人たちは音楽好きだから!」って理想論を語って、その理想を悪い人に食い物にされてますっていう敗北宣言に、何の意味があるんだろう、とは思います。 まあ、それは元の記事でも最初に「その中で今やれること」みたいに言ってるので、いろいろな問題があって実現できないのかもしれませんが……。 面白くないと読まれない、でいいのか
で、まあ内容はそんな感じとして、ここからは転売話から離れます。 記事の中で何度も何度も、「いい話なんだけどどうせみんな読まないよね?」って繰り返してて、まあ実際その通りだとは思うものの、 その風潮が加速していくのってどうなのだろう、というのがちょっと気になりました。 地下室TIMESもそうだし、ヨッピーの書いてる記事(「Microsoftが変わった」って言われてるけど本当なの?よくわかんないから直接聞いてきたとか )もそうだし、極端な話はちまJINハム速などのアフィブログがやってることもそうなんですけど、 「ニュースを面白おかしくわかりやすく伝える」ことが至上命題になりすぎてないか、と。 コンテンツが供給過多な現代インターネットにおいて、ユーザーは自分の好きなものだけを消費しますから、当然、面白くない固いニュースなんて読みたくない・見たくないし、自分と価値観の違う意見なんて目に入れたくないと思うんですが、 本当は、この社会で、茶化しちゃいけないこととか、真面目に考えなきゃいけないことって、少なくないと思うんですよ。 それなのに、将来を左右する政治の話題も、差別や格差などの社会問題も、何もかもを面白コンテンツとして消費して、そうでないものは切り捨てて、 真面目に何かを論ずることはダサい、ちょっと斜に構えた態度で茶々を入れることがカッコいい、みたいになっていくのは本当に良いことなんでしょうか。 いや、別に「長くて真面目な記事は読みたくない」って個人的に思うのは自由だし良いと思うんですけど、「長くて真面目な記事なんて読みたくなくて当たり前」「まだ真面目なニュースサイトなんか追って消耗してるの?」みたいな態度を大っぴらにすることが是とされるのはおかしいというか、 乱暴に言えば自分たちが馬鹿であることを堂々と偉そうに掲げるのをやめろってことです。 今話題になってるキーワードだと反知性主義ですかね。トランプ氏が支持されてるアレです。 白黒はっきりつけてほしい願望
結局、社会にはびこる問題なんて、わかりにくくて複雑で、0か1かで語れないグレーゾーンがほとんどで、長々とした論理と理屈と、それを語るために生まれた専門用語を抜きには語れないに決まってる。 0か1であってほしい、明確な結論を出してすっきりさせてほしい、という欲求を持ちたくなる気持ちはよくわかるのですが。 チケット転売問題でも貧困JK問題でも豊洲移転問題でもなんでもいいけど、これは100%こっちサイドのあいつが悪い!死ね! みたいに白黒はっきりつけられるほど現実の物事は単純じゃない。 「転売屋は暴利を貪る悪だ!禁止しろ!」で済めばいいけど、その本人確認システム整備の方がお金がかかるかもしれないし、法律的にはむしろ禁止する方が問題だし、そもそも「転売屋」という特定の集団があるわけではないし。 貧困JK問題で言えば、「社会の最底辺クラスではないけど定義上は間違いなく貧困」というグレーな結論では盛り上がらないから「NHKの捏造!JKは嘘つき!住所特定自宅凸で懲らしめよう!」となったわけで。 そういう、現実世界に蔓延する複雑でわかりにくい問題を、 簡潔に140字でまとめました! ユーモアたっぷりの4コマ漫画にしました! などという人たちによって翻訳されたものは、 必ず事実のどこかが削ぎ落とされて歪められている。 それは絶対に言い切れます。大小の差はあっても、意味の変わらない翻訳・言い換えなんてどこにもありません。 「馬鹿な皆さんのためにわかりやすくシンプルに言い換えましょう。これをすれば社会は良くなります!」などと言う政治家は嘘つきに決まってます。それをやって支持されてるのがトランプ氏とか安倍首相とかなんですが。 で、それは馬鹿な私たち一般人にとって良い傾向のように見えて、実際には、頭の良い人たちに都合の良いように事実を歪めることができていて、当たり前のように煙に巻かれてしまう。 そうならないために、ああいう「全ての情報をエンタメ化しないと気が済まないサイト」を過剰にもてはやさない方がいいと思うんですよ。って、まあ、ここのブログを読みに来る人に言っても仕方ないと思うんですけど。 最後に
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