かんがえごと 5年前

『さらざんまい』『青ブタ』に共通する「自己犠牲の重さ」とwowakaさんのこと

 ※この記事にはアニメ『さらざんまい』および映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』の一部ネタバレが含まれます。ご了承ください。 --------------------  テレビアニメ『さらざんまい』が先月最終回を迎えました。  『ウテナ』『ピンドラ』『ユリ熊嵐』の幾原邦彦監督の最新作、奇抜な演出と予測不能な展開、それでいて直球なメッセージ性と、様々な方面で話題になったアニメですが、  中でも過去の幾原作品へのアンチテーゼと思えるほどの「自己犠牲の否定」が描かれている点も注目を浴びていました。  特に「自己犠牲なんてダサい」というセリフが飛び出したことは、『輪るピングドラム』のラストを考えると、衝撃的ですらありました。

 リアルとファンタジーを常に行き来しながらも、最終回では主人公3人が現実世界で生きていく姿が提示され、死んだ人は帰ってこないし犯した罪も消えない現実に、残された者だけが残る、そういう地に足を着けたエンディングは、一見すると、愛する者のために世界を書き換えてしまう『ピングドラム』とは対照的のように感じられます。  ただ、さらざんまいで一稀が行おうとした自己犠牲が、ピンドラのそれとは全く違って、単なる現実逃避でしかない。それがなぜかと言えば、そもそも一稀は何かを諦めて他人の為に尽くそうとしているわけではないからではないでしょうか。  自己犠牲というのは、フィクションにおいて無条件に肯定、賛美されがちな行動です。  現実世界でそういう決断を下す機会はあまりない(自分が犠牲になることで他者がその分幸せになる、というシチュエーションがそもそも少ない)こともありますが、自分の不幸を顧みずに他者の幸福のために尽くす行為を他者から非難することが凄く難しい。  ただ、他人の為に自分が犠牲になるというのは、同時に、自分が被害者であり続ける絶対的な権利を得ることでもあります。  自己を犠牲にして死ぬ側はそれ以上何か考える機会もないけれど、犠牲になって生き残った側はその後悔を一生抱えて生きることになります。  『さらざんまい』における一稀と春河の関係も、ある種それに近いところがあって、下半身不随になりながらそれについて兄を責めない春河よりも、そうさせた罪をずっと背負って生きる一稀の方が苦しんでいる。  だからこそ一稀の自己犠牲願望がピンドラのそれと違って単なる逃避でしかない、ということでもあるのですが。  誰だって加害者より被害者でありたいし、自分の境遇が不幸であると思いたい。しかし、それは逃げでしかない。  「手放すな、欲望は君の命だ。」というフレーズも、後ろ向きな破滅願望ではなく、何がしたいかという前向きな希望を持たなくてはならないという意味にも取ることができるのではないでしょうか。 --------------------  『さらざんまい』の最終回と同じ頃に、映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』が公開されました。 https://www.youtube.com/watch?v=R_dtHtPOpTs  『ゆめみる少女』のテーマも自己犠牲でした。  特に、「自分が犠牲になれば相手が助かる」というシチュエーションで何をどう選択するか、ということが、『さらざんまい』よりもさらに明確な形でストーリーの核になっています。  しかも特筆すべきは、咲太、麻衣、翔子という主要な人物の全員が自己犠牲を望み、同時に犠牲になろうとする大切な人を止めるという構図になっているのです。  「相手の犠牲を受け入れて自分が生きていくことを選ぶ」というのは、ある意味では自分が犠牲になるよりよっぽど辛く過酷な決断であり、  同時に、自分が犠牲になるのは、そういう決断を周りの人に強制的にさせることでもあって、  それは本当に尊いことなのかと言われると疑問符が付きます。むしろ安易に楽な道に逃げ込んでいるだけではないかと。  『ゆめみる少女』が最終的にどういう結末に着地するかは映画で実際に観て頂きたいですが、とにかくそういう、本当に相手のためになる行為とは何なのかというのを考えさせられるストーリーでした。 --------------------  『さらざんまい』『青ブタ』からも自己犠牲の話からも一旦離れてしまうのですが、  最近、周りの人が急に死ぬ可能性を想像すること、それに対する無力さに絶望することが凄く増えていて。  自分が今何をどう選択しようと、大切な周りの人が事故だったり病気だったりで急に死んでしまうことがあって、それについては因果関係とか伏線とかも何もなかったりする、  不健康な生活を送ってても別に死なない人もたくさんいるし、健康的に生活してて急死する人ももちろんいるし、悪いことばかりしていてこいつ死んだ方が社会にとってプラスの影響大きいのにみたいな人に限ってしぶとく生きていたりする、  みたいな中で、自分がこの先の人生で起きる楽しいこととかよりも、そういう人が急に死んで二度と会えなくなることの辛さの方がよっぽど大きいと思うし、自分が生きてる理由って他人との別れを経験するためじゃないんだけどな、と思うと、凄く虚しくなるというか。  そういうことを考えるきっかけになったのは間違いなく4月にwowakaさんが亡くなったことで、  まあこのニュースも「そんなこともあったなあ」というレベルに落ち着いている人の方が多いだろうとは思いますけれど、個人的にはずっと引きずっていて、  というのは、訃報があった直後にも書いたことではありますが、自分にとって、一番大切なアーティストが亡くなったんですよ。そういう言い方が適切なのかわかりませんが。二番でも三番でもなく。  それまで、例えばニュースでの痛ましい事件だったり、遠い親戚の話だったりで、誰かが亡くなるという経験はありましたし、  有名人の中でも自分がファンであった相手……任天堂の岩田前社長くらいしかすぐには思いつきませんが、そういうことで悲しむ経験も多少はありましたが、  それが本当の意味で自分の身近な人も含めて誰にでも起こり得る可能性があることを今まではちゃんと理解できていなかったのだなと。  メンバーが若くして急逝したバンドとして、今回のニュースでベガスやフジファブリックの名前がよく引き合いに出されていましたが、  逆に言えば、本当に数えるほどしかいないわけで、  そういう、「起こるかもしれないけど基本起こらないと思っていても間違いがないと思われること」が起きてしまうと、やっぱり今後もそういう風にしか考えられないというか、  あえて乱暴な言葉を使いますけど、米津さんも数年のうちにいきなり死ぬんだろうなとか、そういうことを考えるわけです。  何でwowakaさんが死んで他の人が全員生きてるんだろうかと、数あるアーティストの中でヒトリエが一番好きですっていうファンの人以外は等価の喪失感を受けなくていられるのだなあと、  そういうの全部含めてもういろんなことに対するやる気がなくなってきていて。別に自分は不幸だっていうアピールがしたいわけではなく、そういうことが起きるのが特別なことではなく人生においてごく当たり前のことだとしたら別にこれ以上生きてる必要自体がないんじゃないかなと。  現状自分の中で、この人が死んだら困る……困るというか、受け入れがたいほど立ち直れないなと思うのは、wowakaさんを除くと、弟と母親と親友1人と飼い猫くらいしかいないんですよ。  それ以外の人の死は受け入れがたいほどではないというか、もちろん悲しいけどそれによってすぐに自分の生活に影響が出るわけではないなという。会社の同僚とか従兄弟とか同級生とか。でもそれは、本当の意味で、いないと困る人を失ったわけではないので。  あと、そうですね、自分が好きだったドラマに出てた俳優の訃報とか見ても悲しいは悲しいけど別に乗り越えられるでしょうし、  凄惨な事件とか事故で人が亡くなってニュースになる、例えば自分が高齢者の運転する車に轢かれて死んだら悲しむ人は増えるでしょうけど、それは一時的な感情の動きとしての悲しみなので。  正直言えば、昨年秋に祖母が亡くなった時も、ギリギリそっちだったなと思うんですよ。今めちゃくちゃ酷いことを言っていますけど、でももしその時に感じたものが本物の悲しみだったとしたらwowakaさんの訃報は初めてではないはずなので、あれは偽物だったんだなと思います。
 まあだからといってそれを引きずってるとかそういうことはなく……、むしろ、こんなにも自分は精神的ダメージを受けないものなんだなと、怖くなりました。親や兄弟や従兄弟が泣いてる中、自分だけ一滴も涙が出てこないのとか、ホラー。自分はあの告別式の場に居てはいけない人間なんじゃないかと思ってしまいました。  亡くなったことを聞いた時も、驚きはありましたが、取り戻せないこととして事実はすっと受け入れて、その後はずっと計算で動いていたような気がします。会社休めるなら休みたいなとか、夜行バスの中で小説書けるなとか、そういう打算的な部分をゼロにできない自分が本当に嫌だし、それを考えていること自体がサイコ。無理に平静を装っているとかじゃなくて、本当に平静だったような。 flexible, fruit, flow, fly
 だから今回のwowakaさんの訃報と同じくらい落ち込むとしたらその数人の誰かが死んだ時で、それ以外は大丈夫なんですけど、  でもそういう人たちが死ぬ時には順番があって、それであれば自分が最初だったらいいのになと。  逆に自分が死んで本当の意味で悲しむ人も多分その数人しかいないだろうし、その人のために何か長生きしようとかもあんまり思えなくて。  だから例えば自分が死ねば自分の家族が助かるみたいなシチュエーションだったら全然自分が死んだ方がいい、それは別に他人のためではなくて自分の利益だけを追求してそういう選択になると思うんですよ。  自分が死ぬのってそんなに嫌なことかなあとも思うし。死後の世界とかを信じているわけでもないので、自分が今死んだとしたら、米津さんの新譜が聴けないとか、Splatoon 3がプレイできないとか、オードリーのオールナイトニッポンが聴けないとか、それを悔しく思う機会もなくなるので。  むしろ自分がwowakaさんより先に死んでいたらこういう風にならずに済んだのに、生きているせいで悔しく思う機会を与えられてしまっているわけで、生きているのが失敗だったとしか言えないですよね。 --------------------  で、まあこういうことを考えるのが普通の人間かと言えば別にそんなことはないんだろうなと思うのは、さらざんまい全編を通して燕太が取る行動……自分の欲望のために他人を傷つけたりというのを平気でできることからも見て取れて、  そういう自分本位な人間が自分の命を投げ打って他者を助けることは確かに尊いと言って差し支えないのかなあと思うと、  自己犠牲のようなものに尊さが与えられる条件は、その人に欲望があるかどうか、もっと言えば、自分が生き続けることに価値を感じているかどうかになるのかなと。  正直そういう燕太の行動には1ミリも共感できなかったし何でああいう思考に至るのか全くわからなくて、サッカーゴールを自作自演で破壊するところとか意味不明だったのですが、ただ、そういう人間もいるんだろうなとも考えます。良い悪いとかそういう話ではなくて。  これもこのブログではずっと言っていることで申し訳ないんですが、安倍首相とか松本人志みたいな人の思考回路とか行動原理とか本当に理解できなくて、何であんなことを言ったりしたりできるのかわからないんですけど、たぶんそれは一生わからないし、違う人間だからという以外に理屈のつけようがない、  というよりも、この世界には自分と違う考え方をする人間がいるという事実を受け止めないと、正しくその人たちと同じになってしまうというか、社会の多様性を認めるっていうのはそういうことなので。  だから燕太についても、そういう人間もいる、ということはわからなければならないと思うし、幾原監督も「『ピンドラ』や『ユリ熊嵐』の結末は、あくまであの主人公たちにとっての正解パターンでしかない」ということを伝えたかったのかもしれないなと。 https://twitter.com/itoi_shigesato/status/619659284435959808  つまりwowakaさんが亡くなったことについても、  こういう風に引きずってる人ばかりではないのも当たり前だと思うし、悲しいことは悲しいこととして切り分けながら、楽しいことを楽しめる方が良いと思うのですが、  それこそ震災の時の不謹慎厨みたいなことを言うつもりはなく、ただ自分に対しては、そういう楽しい思いをするべきではない……というよりもそういう全部を含めて無駄な気がしてならないんですが、  そうは言いつつも私だって、wowakaさんが亡くなってから3ヶ月経った今も別に自殺とかもしてないし普通に社会生活を送っているし、テレビ観たりラジオ観たりして楽しいこともたくさんしているんですよね。  結局自分がこの3ヶ月していることが何かと言えば、人生に対して期待しない、世界の残酷さとか自分の無力さ、それらに対する憤りをずっと抱えていることも事実としてありながら、  ただ自分がそれについて何かできるわけでもないので、wowakaさんが亡くなったという事実に対して向き合うことを止める時間を増やして、考えても仕方ないことを考える代わりにラジオを聴いたりテレビを観たりしている、それは、  快楽に興じることを意図的に避ける行為によって自分を罰したところで、それで何か世界が変わるわけではない、別にwowakaさんの死の意味が変わったりもしない、という理屈によってしています。  それは別に悪いことじゃない、というのはもちろん当たり前です。私もわかっています。  が、それってまさにwowakaさんの死を克服して過去のものとして前に進む行為そのものであるように思うし、  だから私は他の方と同じようにwowakaさんの死を乗り越えた側の人間なんですよね。実際には。  ということは、結局これだけいろいろ書いておきながら、きっと自分は母親や兄弟や親友が死んだ時もそうやって数日後にはオードリーANNやテラスハウスで爆笑している人間だと思うんですよ。  だからここまで書いてきたことは全部嘘です。すみませんでした。 ...

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かんがえごと 6年前

ガールズトークとツッコミの必要性のこと

最近、家から少し遠いところなのですが、コンセントが使えるファミレスを発見しまして、昨日はそこで作業をしていたのですが、  隣に座ったのが女子高生の2人組でした。  最初の方は私も音楽聴きながら作業してたのであんまり話が耳に入ってきてなかったのですが、途中でAirPodsを充電するために耳から外したら、ちょうどその2人が彼氏の話をしていて。  もうそれが面白すぎて途中からもう完全にそれを聞くためだけにいる状態で、まあ作業自体はコーディングとかしてたんですけど、元々21時くらいには帰るつもりが23時半まで残ってました。  彼氏なのか元カレなのかわかりませんが、夜の土手で抱きついてきた、別れた後もLINEをしてくる、など、もう生々しい話の連発。  彼氏がノロケてくる気持ち悪いエピソードとか、裏でこういうガールズトークのネタにされてたんだろうなあっていうのはたぶん私自身の中高の時もそうだったんだろうなと思うくらいにめちゃくちゃ言ってて、家に遊びに行きたがったり名前呼びを求めてきたりとか。  でもガールズトークって本来そういうものだと思うし、自分の彼女はそういうことをしない方の人だっていう幻想を見ることが恋愛の正しい在り方なんだろうなとも思いました。  浮気だってバレなきゃ浮気じゃないわけで、「バレなければ良いというわけじゃない」と口では言っていても、それはバレた後の話であって、  「隠れてやっている」と「やっていない」は主観的には同じ現象なので。彼氏の陰口もたぶんそういうものなんだろうなと。もちろん彼女の陰口も同様に。  別にそれらの話自体は特別ぶっ飛んだエピソードというわけではなくて、よくツイッターで回ってくるような変なこともないし、  だから当然そういうのを馬鹿にしたいという気持ちも微塵もなくて。  ただもうその2人が本当に楽しそうに会話していて、話が尽きない。その雰囲気が楽しいし、それをお裾分けしてもらえただけでありがたかったです。 --------------------  合間に挟むちょっとしたボケみたいなものも、別に大して面白いわけではないのですが、そこにもう片方が「面白くない」みたいなツッコミを入れたりもしないし、  それが凄い心地よい関係に見えると同時に、  「これで面白いんだったらツッコミって必要なのかな」ということも考えました。  つまらないものでも演者が全員笑ってれば面白いものに見えるし、面白いものとつまらないものの違いってそこにしかないというか。  ボケとツッコミって漫才とかコントであればあっても良いけれど、いわゆるテレビバラエティでのそれが必要なのか? というと疑問があって、  例えば『ガキ使』であったり、往年の島田紳助の番組みたいなものが、今の時代にキツくなってきたのって、ツッコミとイジメの違いを誰も説明できないところにあるんじゃないかなと。  『アメトーク』や『ロンハー』で狩野英孝とか三四郎・小宮とかが的を射たコメントをすると変な空気になりますし、くだらないボケでスベったように処理されがちですが、  おそらくこれと同じ趣旨のコメントを有吉やザキヤマが言ってたら面白いものとして扱われるだろうなと思う場面も多々あって、  それはつまり「誰が何を言っても面白いものとして扱う空気」があれば面白くなるんじゃないか? と。そこにわざわざ「スベる」という役割を押し付けて、誰かが傷つく方向にもっていく必要があるのかなあと。  中学・高校のクラスで「スベリキャラ」を与えられた人が、何を言っても変な空気になって、それをいわゆる”陽キャ”が「スベった」ということで笑いになる、みたいなことは、自分の高校時代にもあったし、おそらくそれ以前も現在も存在する流れだと思いますけど、それが面白いのは否定できないけれどやっぱりイジメだよね、というところもあり。  日本という国は、「ボケ/ツッコミという上下関係の笑い」が最も面白い笑いだという思い込みがあるんじゃないかと。それがダウンタウン松本の功績なのか、もっと前からなのか、みたいなことは私はわからないので語りませんが。  例えば昨年放送されたバカリズム脚本のドラマ『住住』『架空OL日記』はおそらくそれにチャレンジして成功した作品だと思っていて、くだらないガールズトークがあんなに面白いんだから、パッケージ化してテレビでその面白さを再現することは十分に可能だと知らしめたわけです。  バラエティで言えば、地上波では『アイドリング』や『AKBINGO』のように、芸人がMCとして入ってその面白さを客観的に伝える必要がありますけど、例えばネット放送の『TRYAngle Harmony』について面白くないという人はそんなにいないし、中だけで回していても十分に面白くて、それをマスに紹介する必要はあるのか、と。  厳密に言えば、会話の中には「ツッコミ待ちのボケ」と「天然ボケ」があって、前者に対してツッコミがあるのは自然なんですよ。でも、後者は2人だけの会話であれば必要のないもので、つまりその会話を他者に伝える時に初めて必要になるものなんだろうなと。  個人的に3人以上の会話があまり得意ではないのも、そういうところにあって、2人だけの会話だったら大して引っ掛からないであろうところが広がってしまったりして、思い通りの話が全然できないことへのストレス。だから3人以上の会話には台本かリーダー(MC)が必要になって、そういうMCの役割を担える人にとっては合コンとか大人数の集まりは楽しいのかもしれませんが。 --------------------  そして一番印象に残ったのは、2人の会話が23時くらいまでずっと続いた後に、「こんなに2人だけで会話が尽きないのって凄いよね」「こんな話ができる相手が彼氏だったらいいのに」という会話になったこと。  まさしくそういう会話をしていた友人と2年前に突如絶縁した経験から言って、この2人も大学入って数年したら絶交してしまうんじゃないかなどと要らない心配をしてしまったこともあるのですが、  それ以上に新鮮だったのは、「女性の友達同士でもこういう会話をするんだな」という発見。  男と女ってまるで全く考え方も行動様式も違う生物であるかのように語られがちですが、実際そんなことはないんだなと思うし、  例えばアイドルのラジオとかで「まるで友達同士みたい」とか喋ってると「どうせ楽屋ではお互い無言なんだろ」と突っ込みたくもなりますが、意外とそうでもないのかもしれない、とも。  同時に、男性同士でも女性同士でもしている会話ってそんなに変わらないのに、何でここまで違う価値観があるかのように見えてしまうのかも考えてしまいました。  隣の人が聞いてる感が少しでも伝わったら話のトーンが落ちちゃうんじゃないかと思ってできるだけ邪魔しないようにしてたので顔すらほとんど見れてないし、どこの高校なのかもはっきりとはわかりませんでしたし、どっちみち高3なので来年には卒業してしまうのでしょうが、  もうあの2人組と一生会えないのが残念に思うほど楽しかった……。会計出してあげればよかった。 --------------------  ……なんかこの日記どうなんでしょう?  JKを変な目で見てる犯罪者予備軍みたいな雰囲気が出ていたら凄い嫌ですね。そんなことないです。  率直な感想として、生まれ変わったらああいう友達のいる女子高生になりたいなというのが強いです。  自分はもう高校生にも女性にもなり得ないので、そういうのも含めてあの空気を追体験できただけでありがたかったんですけど、  例えば自分もよく友達と2人でファミレスに行って話したりもしているのですが、そういうのってもし自分が女性だったら、自分が想像しているような関係性にはならないのかな? という気持ちもあるし。  さらに言えば、「女性に生まれたかった」っていう想像をする時に、もし女性に生まれていたら自分は今の自分のような思考や生き方に辿り着けているのか、というリアリティの問題もあって、例えば自分が女性だったら友達の輪に入れなくて中高時代もっと辛かったんじゃないかとか、プログラミングやブログに興味を持つこともないんじゃないかとか、  でも考えてみれば男性として生きている今だって別に友達が多かった時期はないし、女子同士でもああいう関係性を結ぶことが現実に起きるなら、全然あり得るなあ、なんて考えました。  だとすればそもそも女性を特別視しすぎているだけというか、生まれ変わる必然性もあんまりないんじゃないかと言われると詰まるのですが。  ただ、むしろ自分はガールズトーク的な会話がしたいんじゃないかと思うこともあって、そこの不一致が周りの友人を遠ざけてしまう一因になっている気もします。でも女性の友達を作るにはそれ相応のキッカケが必要で、そのキッカケって大学を実質卒業した今となっては、どこにもないんですよね。 ...

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かんがえごと 6年前

『アンナチュラル』3話と『anone』3話がどちらも度を超えて不快だったという感想

もうどちらも4話が放送されてしまったので今更ですが、どうしても我慢できなかったので、  アンナチュラルの3話とanoneの3話が本当に観ていて苦痛だったという話を書き残しておきます。  それぞれの話の概要などは説明しないので、観ていない方は調べるか公式有料配信サイトで観てください。  まず、現在放送中のドラマ『アンナチュラル』。  最新4話はまだ観ていませんが、先週放送された第3話は、私にとってはもう本当にひたすら不快な回でした。  何とか我慢して最後まで観ましたが、拷問のような1時間を過ごしました。  男女差別で酷い暴言を吐き、反論する石原さとみをヒステリーだとレッテル貼りして陥れる検察官の烏田。権力側の人間による陰湿な嫌がらせが続き、最後の最後で何とか逆転したとはいえ、観ている最中はもうその男を殴ってしまいたくなるような、スマホを投げ捨てたくなるようなストレスだけが溜まり、何であんなゴミのような人間を殴ったら手を出した方が悪くなってしまうんだろうと日本の司法制度にまで疑問を覚え、限界まで溜まったストレスに一度耐え切れなくなってTVerからホーム画面に戻るほど。  5分ほど他のことをして気持ちを落ち着けて、何とか視聴を再開しましたが、イライラは募るばかり。  何とか後半には中堂さんの活躍によって解決はもたらされましたが、  そのストレスは視聴後も決してゼロに戻ることはありませんでした。あまりにも強烈な不快感に見舞われ続けたので、いくら米津玄師のエンディングで良い話に見せかけられたとしても。  私自身、このような中盤で苦しめられた主人公が終盤でひっくり返す構成がドラマとして理想的であることに異論はありません。  おそらく、今後もこのような逆転劇の展開が続くのでしょうし、おそらく最終回の1つ前の話では、1時間かけてずっと暗い展開が続き、来週までピンチの解決が持ち越されることでしょう。アニメ『おそ松さん』1期の最終話1つ前のように。  最終的にハッピーエンドであったり幸せになるゴールを描くためには、その過程で不幸にならなければならないし、強大な敵に一度陥れられなければその敵の強大さを描けないことにもなる。  また、ドラマの場合は対人ゲームと異なり、快感と不快感のタイミングを自在に設定できるので、途中でどれだけ不快な状態を作っても、それを後で回収できるという見込みが立てられるのでしょう。  ただ、そうはいっても、観る人を不快にさせることを意図的に行うエンターテインメントって何なのだろう?というイライラが限界ギリギリまで来ていて、ちょっと4話以降を観るかどうかを躊躇ってしまうほどにきつい回でした。 --------------------  『アンナチュラル』3話を観終えても不快感を拭い去ることができなかったのにはもう一つ理由があって、  現実的な敵の設定に対して、その対処法が非現実的であるからです。  男女差別も検察という権力の横暴も、頭の回転が早いだけで他者を陥れることを厭わない人間が社会から評価され報われる構造も、現実世界に存在する問題ですが、  法廷でも当たり前のように暴言を吐いて敵を論破していくダークヒーローなんてのは現実世界に存在しないでしょう。  まるでスカっとジャパンのような陳腐さ。  私が今まで生きてきた中で一番観て不快だった番組がスカッとジャパンなのですが、それに近いメソッドだと感じられて、  あのストーリーを楽しめる人間というのはむしろ、現実世界で男女差別に加担している人間だとすら思っています。  架空の世界でしか起こり得ない勧善懲悪だから、現実世界での自分の悪が決して揺らがない。そこから得ている自身の快楽を奪われることがない。  そんな安心感のある物語が観たい人にとっては最高のストーリーでしょう。  でも、現実世界の男女差別や上下関係に苦しんでいる人間に対して、あのような現実に起こり得ない夢を見せることは、いったい何の救いになるのか。それはむしろ追い討ちではないのか。  解決もできないし救済もできない現実世界の悪を中途半端に物語に組み込んで、まるで解決可能な問題であるかのように見せかける物語の構築は、既存の価値観への挑戦に見せかけたむしろ保守的な価値観の強化でしょう。  例えば、「原発反対派のプロジェクトチームが代替エネルギーとなる革新的な発電技術を開発して電力問題を解決する」というドラマがあったとします、社会問題を主軸に置きつつ起承転結もあって面白いストーリーかもしれません、  でも、現実世界の原発問題は、ありもしない代替エネルギーの発明で全てが救済されることなんてあり得なくて、私たちがライフスタイルを変えて地道に電力消費を減らすこと、同時に利権としがらみに塗れた企業と政府のつながりを断ち切ること、これらでしか解決できないわけですから、  そのようなドラマは、「現状のまま、私たちが何もしなくても問題が解決する可能性」を見せてしまうことで、問題の深刻さを薄める、悪影響のある作品になるでしょう。  『アンナチュラル』が3話でやった、男女差別に対して現実世界には存在し得ないヒーローに解決してもらうという展開は、それとどう違うのか?と思わずにはいられません。  ラスト、石原さとみの「今回は法医学の勝利」という言葉でこのあたりの問いに対する回答を見せたように思えますが、  結局のところ今回の問題を解決したのは法医学ではなく中堂の現実離れしたディベート力の高さに尽きるわけで、それは「白を黒にする」烏田がしようとしたことと何がどう違うのか。  正しい方が勝つ、良い人が報われる、ではなく、ただ単に口の上手い方が正義であり勝者であるという構造をより明確にしただけでしょう。 --------------------  同様のことが『anone』3話にも言えました。ずっと不快でした。  1時間通して強く感じたこととして、いくら何でもあの西海の言動は醜悪以外の何物でもない。もう途中から西海に対する憎悪のみで支配される時間が続きました。  上司に苦しめられ、社会から迫害を受けていた人間であったとして、それが上司を射殺したところまでは同情の余地があったとしても、その後、拳銃を持って持本やハリカを脅し、阿部サダヲの顔に水をかけ、殴りつけるのは、まともな人の心を持った存在のすることではないし、あんなことができるのは人間ではない。観ながら「早く報いを受けろ」というストーリー展開を願い続け、3話の最後で自殺したことで「何とか間に合った」と安堵してしまった。  これで、持本の説得に応じて心を入れ替えるとか、受けた被害と行った加害をチャラとして手に入れた身代金で第二の人生を送るとか、あり得ない。死ぬべき人間が死んだのだ、と思いました。  同時に、そのような人間が死ぬ方法が自殺というのもやはり非現実的で、ハリカや持本や青羽が立ち向かって解決させられなかったのか、とも。例えば現実世界で西海のような人間に対峙させられた人間は、相手が死ぬのを祈るしかないのだな、というような。  そうまでして伝えたいメッセージがある、というのは簡単だし、ストーリーを最後まで追っていけばどうなるかわかりません。  『カルテット』と同じ方のドラマであることから考えても、必然性のある悪であることも想像はできます。  でも、私は不快になるためにドラマを観ているのか?とずっと自問しながら観ることになったし、  そう自問しながらドラマを観るという、そんな時間の過ごし方が本当に自分にとって必要なものなのかを考えてしまいました。 --------------------  話は変わりますが、最近、ゲーム『Splatoon2』をやっていると、プレイの中で「楽しい」と感じる時間よりも「つまらない、不快、クソゲー」だと感じる時間の方が圧倒的に長いです。  だいたい敵にローラーかボールドかスプラシューターかN-ZAPが2体以上いた時点で萎えるし、そいつらは全員イカニンジャ着けて潜り込んでスーパーチャクチ決めるだけの単純作業だし、まあ他にもたくさん。  で、だいたいプレイ中もプレイ後も嫌な気持ちになってムカムカしながら終わることの方が多いのですが、  なぜか1試合終わると「続ける」を選択してしまうし、次の日にはまた起動して遊んでいる。  これは何でだろう? と考えていて、最終的に私は、「人間は不快になりたい生物なんじゃないか」という結論に至りました。  つまり、「1時間遊んでいてずっと楽しいゲーム」と、「1時間遊んでいて50分つまらなくて10分だけ楽しいゲーム」だったら、後者の方が長い時間遊びたくなる引力を持つのではないか。  というか、その快感と不快さの波が、一般に「中毒性」と呼ばれるようなものなのではないかと。  不快と快楽の繰り返しによって惹きつける。原理としてはドラッグやDVと同じです。  と言ってしまうと何か良くないことのように思えますが、  人は完全に自分の思い通りになってくれる存在よりも、自分の予想外の行動を取ったり、期待と違うことをするような存在に惹かれるのではないか。多くの恋愛物語もそうなっているし、実際の恋愛でもそうなのでしょう(1)TERRACE HOUSE OPENING NEW DOOR 2nd Weekでのチュートリアル徳井さんの発言より。  『Splatoon2』も『アンナチュラル』も『anone』も観ていて不快になる、イライラする、ストレスが溜まる、ムカムカする、  でも、そんな作品がこれほどまでに世に溢れているということは、それが求められていることに他ならないのではないでしょうか。  アメとムチ、と表すと、非常に単純な、わざわざこんな記事で長々と書く必要のなさそうな話に着地してしまいますが、  例えばanoneの視聴率が苦戦しているのは、ムチの長さに対してアメが釣り合っていないのではないかと思うし、それがながら見前提となっている現代のテレビと相性が良くないのではないかと思います。  ちょっと不快な展開があればTwitterを開いて別の物語に逃げ込むことができるので。これが映画であればまた別だと思うのですが。  そういう意味で、『Splatoon2』が高い中毒性をキープしているのは、一度試合が始まってしまえば5分間は他のメディアに逃げ込むことのできない、ゲームというメディアの強さにあるのでしょう。 --------------------  『anone』の苦戦が示すように、今の時代のテレビは不快感を与えないことが求められすぎているのも事実だと思います。  例えば日テレのバラエティの強さは「大して面白くもないけど絶対に観る人を不快にさせない」作りにあって、『イッテQ』『有吉ゼミ』『ヒルナンデス』など挙げればキリがありません。  そのような没入感と対極にあるエンターテインメントの在り方は、現状維持、現状肯定のための物語なので、現実世界に不満を持っていない人たちに寄り添ったものであると言えると思います。  『ガキ使』の黒塗り問題で「何が悪いのか」と軽々しく言えてしまうような人間のための番組です。  快感と不快感のサイクル、どこでアメを与えるかというリズムの問題として考えると、  『anone』はそもそも1話通してもほとんどアメが貰えないのに対して、『アンナチュラル』はきっちりと1話の間に解決を持ち込んでいるので、それがわかりやすいし、ある程度予測がつく展開であるとも言えます。  不快感が大きければ大きいほど、それは一部のファンにとって「刺さる」ものになるのかもしれません。例えば『魔法少女まどか☆マギカ』や『結城友奈は勇者である』といったアニメが、1クールかけてひたすらファンを苦しめながら、最終回で圧倒的なカタルシスを生み出したように。  ただし、物語に没入感を与える方法は、『アンナチュラル』が行うような、  現実の問題を模倣した悪を設定して、それをおとぎ話のように非現実的に解決する、桃太郎のようなメソッドにしかないのでしょうか?  そうでない物語だってたくさんあるし、むしろそういうメソッドに頼らなかったことが『逃げ恥』が評価された一因ではないかとも思います。  現実社会で起きている問題に手を出すからには、それによって実際に被害を受けている人たちに何か救いになるようなものを与えられる作品であってほしいし、そうでないなら「この作品は100%創作の、現実とは何の関係もない話ですよ」という態度であるべきではないでしょうか。  『anone』は元々ターゲットをある程度絞って届けようとしているので、私のような安直で浅薄な感想を持つ人間に向けられていないこともわかるし、おそらくそういったステレオタイプ的な善悪の構造にも異を唱える物語に展開していくことも想像がつくので、まだ理解できますが、  まるで『逃げ恥』に続く価値観の転回を促してくれそうな雰囲気を見せながらも全くそうなっていない『アンナチュラル』はやはり不快な作品であると言わざるを得ません。  このような感想を払拭してくれる展開が4話以降で起きることを個人的には願っています。そうならない方が大多数の人にとっては良いのだろうと思いますが。 ...

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かんがえごと 6年前

コミュニケーションの義務と責任のこと

先週、卒業研究のゼミで授業後に飲み会がありました。懇親会。  授業後にそのまま集まるタイプの飲み会は、行くより断る方に理由が必要なので、消極的に行ってきたのですが……。  よく私は自分のことをコミュ障とか人見知りって言ったりしているのですが、それは「自分からコミュニケーションをスタートできない」というタイプであって、パッシブなコミュニケーションは取れるし、それに関してはちゃんと反応できている、と自分では思っています。  そこには、誰かに話を振られたりとか質問されたりとかしたらちゃんと答えるけど、自分から話に入っていったりというのができなくて、それは「自分の話によって他人の時間を消費させてしまっていいのかな」という申し訳なさがあるからなんですが、  裏を返せば「自分が今喋ってるのは話を振られたからですよ」っていう保険をかけたいからだなと。  でもそれは対人コミュニケーションについて「楽をしている」な、と、改めて思いました。  多様性を認めて、とか、自分ができる限りのことをしているから褒めて、みたいなことを、もちろんそれが自分以外の人についての話であれば積極的に主張しますが、  それを自覚している私自身がそうしているということは、結局自分に都合の良い言い訳を引きながらズルをしているだけで、  ああいう場で”コミュニケーション強者とされるタイプの人”が、基本的に黙っている私にも話を振ってくれることに甘えてそれを待っている状態は、結局その人に負担を強いているのだというのを認識してしまって。  その人が飲み会の最中に面倒臭そうな表情をしているのが見えたり、飲み会終わった後の帰り道に愚痴ってるのが聞こえたりすると、本当に自分はどうしようもない人間だなと。  飲み会、いや別にそれ以外であっても、ミーティングとか授業とかあらゆる多人数コミュニケーションの場についてですけど、そういう場に存在してしまった以上は、自分の発言をうまく割り込ませるということも一つの義務なのだろうと思うし、  「一切発言をしない」というのはゼロじゃなくてマイナスなんですよね。  どうしても「何もしていない」状態には責任が発生しないかのように錯覚しそうになるし、実際そうやって自分を擁護することも可能ではあるけど、  「何もしないで黙ってそこにいる」ということはその時点で一つのコミュニケーション、しかも「つまらなさそうに見える」という最悪の意思表示を(実際そう感じていないとしても)行ってしまっているわけで、  人見知りであるということを理由にそういう態度を取るのは、もちろんそれが受け入れられているコミュニティであれば良いのかもしれないけど、単なる逃げでしかないなあと思ったりしました。  別にこれはコミュニケーションに限らない私の悪い癖だと思っていて、何もできなかったんだから自分は悪くない、なんていう論理はもちろん通用しないのだから、何かをするという決断をすることに躊躇してはいけないなと思います。まあ、そう思ったところでやっぱりできるようにはなかなかならないのですけど……。  最終的な責任を負いたくないという感覚はこのブログにもあって、その責任を負える人は敬語ではなく言い切りの形を取れるんですよ。  「lyrical schoolは良い」っていうことを書くときに、それを断言して突っ込まれたくないから「lyrical schoolは良いです」と、こうするだけで1個挟まった感じが出る。「lyrical schoolは良いと思います」になればますます弱くなる。  それは以前書いた自虐ガードの話にも通じるところがあって、もうそれ自体が私の特質だと言ってしまえばそれまでなんですが。  必要なところで必要な責任とそれに伴う痛みを引き受けられる人間にならなければならない。……と思っています。 --------------------  わざわざ書くほどのことでもないのでこの記事に入れちゃうんですけど、スプラトゥーンずっとやってます。基本的には毎晩。  ガチヤグラだけ時々落ちたりしつつ、一応今は全部S+です。エリアだけS+3。他はS+0をキープ。  最近は「復活ペナルティアップ」というギアにハマってます。倒した敵の復活が遅くなる代わりに、倒されると自分も復活が遅くなるという呪いのギア。  いや正直このギア自体は今の性能だと明らかに弱いんですけど、「なるべく死なないように立ち回る」という気持ちを高められるので精神的に強くなれます。矯正ギプスみたいな。  あと倒した時に相手の画面に表示されるギアパワーで精神的にダメージを与えられて楽しい。  最近はサーモンランも時々やってるのですが、 image

 cosMo@暴走Pのサーモンラン部屋に混ざってしまう奇跡!しかも夫婦!!  足を引っ張らないようにするのめちゃ緊張しました。何とかクリアできて嬉しかった。こんなことあるんですねー。  ツイッターとかInstagramとか見ててもそうだけど、インターネットって本当にダイレクトに自分と他人が繋がってしまうので怖いなって思います。  私の感覚として有名ボカロPって全員「雲の上の人」なんですけど、でもその人たちと私を隔てるものって実は何もなくて、Twitterでこの写真送って「さっきはありがとうございました」って言うことも可能だったわけですよね。できないけど……。 --------------------  この前、10周年の記事でリニューアルを行うという話をしまして、  「更新頻度を上げる、タイトルをわかりやすくする、1つの記事の分量を少なくする」  という方針を掲げました。  で、先週前半、あんな感じで3日連続の更新となりましたが、どうでしょうか。  ブログの読者の需要は気にしていない、とは言いつつも、本当に気にしていなければわざわざリニューアルなんて行わないわけで、  この形になったことで読みやすくなったのか、というのはとても気になります。  私のブログに何を求められているかがわからないので、  例えば最近の話題に対する私の感想を楽しんで読んでる人にとっては、今回のリニューアルは良かったと思うし、更新頻度が上がったことでより良い楽しみを提供できていたら嬉しいのですが、  逆に「記事の最初と最後のポエムを楽しみにしてたのに」っていう人がいたら、今週の記事クソつまんねえな、ってことになるわけで。  そういうのを補うため、と同時に、私自身も、こんな劣化ニュースサイトみたいなことがしたいわけではないので、こういう、特定の話題に反応するわけではない記事を書いていければとも思います。  というか突き詰めて考えていくとこのリニューアルって何の意味があるのという話になって、Surface Book 2の感想が読みたい人がいて、Twitterで検索して私の更新通知記事が引っ掛かったとして、それでこのブログ読みに来るかっていうと怪しいですよね。いるとしたら「私が書いている」という枕詞で、ってことになると思うので、じゃあタイトルの付け方とか関係あるのかって話にもなるし……。  ほんと今悩んでるので読んでいる人コメントください。これでコメント来なかったらそれはそれで別に私のスタイルがどうであろうと関係ないので、雑に続けていきますし、飽きたら戻すかもしれません。 --------------------  そんなことを言いつつ先週後半に更新できなかったのは、台風だったり授業準備だったり、  あとは今週末に引っ越しをするのでその準備だったりしました。何で引っ越しをするのかはまあ10周年の記事を読んだ方は察してください笑  本とかいろいろ処分したりしてますが、もっと早くKindleで本を集めておくべきだったと思わなくもないです。ゲームも最近はダウンロード版メインだったのが功を奏した。  でも更新頻度にバラつきを作るのは本当によくないと思っていてそこは反省しています。せめて土日には更新しておくべきだった……。  余裕があるときに記事を作っておくとか、いろいろ調整していきたいです。 ...

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かんがえごと 6年前

ブログ10周年とこれからのこと

少しだけ気の早い話ですが、来週10月23日は私がブログを始めてちょうど10年になる日です。  なのですが、10/26に卒論の延期された発表があったり、他にもいろいろ立て込んでいてどうなるかわからないので、ちょっと早めに触れておこうと思います。  といっても、この10年の記事を振り返ったりはしません。単にこの機会に思うことをいろいろ書いていくだけです。  そもそも私がブログを始めて10年というだけで、このサイトの10周年ではないですし。(初期のブログはいろいろあって閉鎖し、このブログは2008ĺš´7月にスタート)  あと、昔の記事なんて黒歴史すぎて遡りたくないし……。 --------------------  さて、まず最初に、10周年を機に行うリニューアルについてです。  あくまで今の気分というか思いつきで新しいスタイルを試してみるという話であって、今後このままずっと行くという保証はありませんが。 1.キャッチコピーを変更しました。  元々の、「生きるってことは、罰なんだね。どうしてそれが、それがハッピー?」というキャッチコピーは、2011年の年末くらい?  に、その当時最高にハマっていた『輪るピングドラム』とwowakaさんのアンハッピーリフレインから取ったもので、  単に好きなものを組み合わせただけにしては自分の感覚と十分に一致していたので、そこからずっと残していたのですが  毎日のように学校の愚痴で埋め尽くしていた高校生の頃と違い、このブログはもはや自分語りメインになっていないんですよね。  で、例えばSurfaceのレビューを見に来ました、という人に対して、このキャッチコピーはちょっと攻撃力が高いというか、率直に中二っぽすぎるなというのは薄々感じていて、この機会に変えてしまいました。  “こころを動かされたものと、動いたこころのこと”  このコピーが実際のところしっくり来ているかといえばそんなことはなく、こんな何も言っていない内容であればむしろもうキャッチコピー自体要らないようにも思うのですが……。  まあ適度に変えていったりいかなかったりするつもりです。 2.プロフィールページを更新しました。  まあこれは時々やっているのですが、ちょっと大規模に。  プロフィールページへのリンクはPC版はページ左、スマホ版はページ下部の「About」にありますよ。  まず自己紹介、そのあとブログの説明、という構成にしました。  あとWebサイト製作のお仕事募集も一応してみました。来るわけないと思いますけど。お願いします。  基本的にはコーダーですが、デザイン担当したサイトもいくつかあるので(例えばこのブログとか)、ざっくりと「サイト作りたい」みたいなのでも暇なら対応します。  他の変更としては好きなものの欄を何となく体系化して、好きなラジオとか追加したことです。テレビ番組も入れようと思ったんですが、キングちゃんとスター名鑑が終わった今は水曜日のダウンタウンしか確実に毎週観てる番組がないので特に書けなかった。 3.タイトルの付け方を変更します。  これは前の記事がすでにそうなのですが、  特に何かの感想に触れるタイプの記事で、できるだけ記事の中身がわかるようなタイトルにします。  ……ごく当たり前のことにも思えるのですが、  この10年間、中身を表さないタイトルにずっと拘っていて、確かに個人的には中身がわからない記事の方が好きだったりもするのですが、  さすがにタイトルのネタが単純になくなってきたというのもあるし、SNSシェアを考えた時にタイトルがわかりづらいことはデメリットでしかないというのもあるし、  あと自分で見返す時に思い出しにくいとか、いろいろ。  ハッシュタグで補うのもちょっと限界があるかな、という感じで。 4.なるべく更新回数を多くします。  一つの記事をあまりに長くしすぎるのが良くないなと思って、まあ今回の記事みたいなのはワンテーマだから仕方ないんですけど、  普段の独り言カテゴリーであんまりコンテンツ何から何まで詰め込むのやめようっていう。  例えば昨日の記事で言えば本当はラジオの話以外にもSurfaceBook2と禁書19巻とカイジとパスピエ新曲といろいろ入れたかったんですけどもうさっさと上げちゃおうっていう。  まあこれはどこまでやれるかわからないところではあるんですけど……。  ちゃんとブログやる意味を作っていきたいな、というのもあって。それがどこまで行くかわからないし、しっくりこなくてやめるかもしれませんが、  更新頻度を増やして、1つの話題を混ぜずに、っていう方がたぶん読んでる方にとっては優しいと思うし、  あと更新頻度を上げること自体が一つの目標であり、なかなか達成できていない部分でもあるので。 --------------------  最近、中学の時にブログやってた同級生(当時)が、久々にブログやります、みたいなこと言ってるのをちょくちょく見かけてて、まあそれは良いことだなと思うし、Twitterの息苦しさをもう何年も訴えてきた私としてはやっと時代が追いついたのかなみたいなところもあるのですが、  小6の時に始めたので、その中学の同級生との付き合いよりもこのブログの方が長いっていうのは凄い話ですよね。  結局小中高でやっていたこと、小説書くとか作曲するとか動画作るとか、そんなのはだいたい辞めてしまったか仕事になってしまったかで、   その中で一つだけちゃんと続いていることがあるというのは嬉しいです。10年ともなれば結構長い方のサイトになるんじゃないでしょうか。……まあこのブログ自体はまだ9年なんですけど。  それこそ初音ミクがこの前10周年だったのですから、初音ミクと同じくらい続いているということになります。恐ろしい話です……。  この話も何回も書いてますけど、中学校の時の同級生のほとんどとあらゆる縁を途絶えさせた上で、それでも私にどうしても連絡を取りたくなった人がいた時にこのブログを通じて取れるっていう凄く傲慢な考えがこのブログを続ける意義の1つになっていて、  まあよく考えたら私に連絡を取りたいと思う同級生なんているわけがないのでそれもただの言い訳なんですけど、  ただ、中学校の時の友達がやってたブログを、10年ぶりに調べてみたらまだやってる!!っていうのは、  逆の立場だったらちょっと面白いじゃないですか、なのでその面白みのために続けています。  まあ、それ以外のちゃんとした理由を探すとするなら、  10年も続けているものはもう続けるよりも辞める方が大変なので、もはやそれ自体がブログをやるインセンティブになっているのでしょう。 --------------------  私、割と長いこと、「有名人と友人以外のブログを定期的に読むことが全くない」という状態だったので、  だから有名人でも友人でもない私のブログを読んでいる人たちのことが全然想像できなかったのですが、  ここ1年くらい結構ちゃんと楽しみにしているブログがあるのでここで紹介しますね。   ヨイ★ナガメ(K助さん) http://blog.livedoor.jp/k_sfv8540/  テレビやラジオ、主にお笑い番組のキャプチャ・書き起こしレビュー記事を上げている方で、正直今まで触れなかったのが恥ずかしいくらい、最近の文章に影響を受けている自覚があります。  番組名ごとに小見出しで整理するようになったこともそうだし、あとここ何ヶ月か、文章の最後に単芝wをつけることが多くなったと思います。  2chが廃れてからの何年か、wを使うのがしっくりこなくて使ってなかったんですけど、しっくりくるようになったのはこの人のブログの文章を気に入りすぎたからですw  この人が紹介しているので初めて知って観たテレビ番組もたくさんあります。プライムビデオの「ザ ワールド・チャネリング」や「千原〇ニアの○○-1グランプリ」、地上波だと「お笑い向上委員会」の面白そうな回とか。 名馬であれば馬のうち(nemanocさん) http://proxia.hateblo.jp/  ズートピアの時の記事(『ズートピア』におけるハードコア反復/伏線芸のすべて)でハマって以来。  この人はツイッターに更新通知してくれないのでたまに気づいたときに、となりますし、正直私の全く知らないし興味もない映画や本を紹介することが多いので、毎回読んでいるわけではないのですが、だからこそたまに普通の記事とかがあると面白いです。  最新記事はCupheadのことを語っていたりして楽しいです。   当たり判定ゼロ(りくぜん さん) http://siusiu.blog.shinobi.jp/  かつてはゲーム業界決算まとめという素晴らしい読み物を半年ごとに更新していて、私が知ったのもそれがきっかけですが、  それが終了した今でも時々上がるブログ記事はとても面白いので読み続けています。あとツイッターも面白いです。    センスの良い文章を書けるという能力は別にツイッターでも発揮されるので、ブログが面白い人はツイッターもまあまあ面白い、というのはある程度正しいのですが、  140字という制限の中でそのセンスが最大限に発揮されているわけでは全くないのでやっぱり自由に際限なく書けるブログをやってほしいですね。  他にもこんな感じのブログが他にあったらオススメを教えてください。  特に最近気に入ってるのはヨイナガメです、ほんと毎日更新チェックしてます。毎日ではなくてもほぼ毎日くらいのペースで更新してるのが嬉しい。  別に定期的に巡回しなくても、たまたま見つけたブログを最新10個くらい読み耽ったり、っていうこともあるし。  こうして自分がそういう立場になってみると、意外と他人の人生とか感性みたいなものって、読んでて面白いのかもしれない、と最近気づきました。  私のブログがそうであるかはわからないし、仮にそうであってもなくても私のやることは変わりません。 --------------------  よく、ミュージシャンだったら「あなたにとって『音楽』とは何ですか」みたいな、たぶん米津さんなら100回くらい聞かれてるであろう、クソつまらないし何の生産性もない質問があるじゃないですか、  ただブログはもう少しプライベートなものだからちゃんと答えられなきゃいけないはずで、もちろんAmazonアフィがかなりのペースで売れてるのでそのために続けてる部分も1ミリくらいはありますけど、  私にとってブログって何だろうって考えると、やっぱり一番近いのはリストカットだと思うんですよ。精神的なリストカット。  こうやって自分が弱い、自分が醜い、気持ち悪い、みたいなことを自分で書くこと、それを発信することが自分自身にとっての支えになっていて、そうすることで自分の弱い部分を擁護できてしまう。  自虐って最強の防御ですよね、卑怯だなあと思いながら自分もいつもやってしまうのですが、相手から責められる前に自分でそこを刺しとくことで、それ以上の追及を拒否するテクニック。  どこまで行っても私にとってのブログはそれをするための場所でしかないなと。そういうのは本当に弱いしダサいって自分でもわかってるんですけど……っていうこれも自虐ガードか。  昔は、リストカットのことを他人に心配してもらうための被害者アピールだと思ってたんですよ。でもたぶんそうではなくて、  自分はもう傷ついてますよ、他人から何かされるまでもなく自分自身を痛めつけてる可哀そうな人ですよ、っていうアピールだったんだなあと。  私自身が今ブログでこういうことを書いてるのはそういうアピールです。 --------------------  このあたりでいつも通りに読んでくださってありがとうございましたっていう感謝でしめてもいいし、実際に感謝はあるのですが、  今の自分のことで、どうしても書かずにいられないことがあるので、もう少しいろいろ書きますね。  私が一番嫌いなことが、「自分で思っていないことややっていないことを理由に嫌われること」で、要するに自分のことを誤解されたくないという思いが強いのですが、  その逆に、自分が実際に思ってることを理由に嫌われるのは全然嫌じゃないというか、もちろんどちらかといえば万人から好かれたいとは思いますが、  その本当に思っていること、本当に私がしていることを言って嫌われるとしたら、それは仕方ないと思っていて。  まして、このブログを読んでる人って今のところ現実世界での私とは何の繋がりもない人ばかりなので、  その人たちにどう思われようとどうでもいいっていうのもありますから、  じゃあ、このブログに書かない方がいいことって何だろうって、わからなくなるんですよね。  例えば、つい最近で言えば、  結局就活全部上手くいかなくてバイト先の会社に就職することになったとか、両親が離婚することになって今後の人生が経済的に苦しいとか、最近毎日自転車漕いでる時に父親のことを考えながら死ねとか殺すとか大声で叫んで精神を保たせてることとか、  まあ普通の人だったらブログに書かないだろうなってことはいっぱいあるんですよ。  上の話が3つとも本当なのか、3つとも嘘なのか、混ざってるのか、っていうのは、これまでのブログを読んできた方ならわかってくれると信じて委ねますけど笑、  それこそ去年の同窓会まで元カノの精神的ストーカーになってた例の話とかもそうだし、免許落ちた話とかもそうなのかな、   ...

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かんがえごと 8年前

『アスタリスク』と『キャバルリィ』の違い、"俺TUEEE"作品の定義について

前回(『デモナータ』と『ハリポタ』と『禁書目録』、ファンタジーにおける「日常」の終わり)に続いて、物語に関する考察第2弾です。  12月に入り、今期のアニメも続々と最終回を迎えていますが、私がなかなか楽しんで最後まで観た2つのアニメがありまして、  『落第騎士の英雄譚(キャバルリィ)』と『学戦都市アスタリスク』です。  (※アスタリスクは1話有料なのでPVを載せています。)  この2つはラノベアニメのテンプレをなぞりすぎたがために、ストーリー展開の何もかもがそっくりだとして当初から話題になっていました。  具体的にどこが似ているのかは、ネット上のゲスい話題にタダ乗りしてそれっぽくニュース記事の体裁を整えることでPVを稼ぐサイトでお馴染み、ねとらぼさんでまとめられています。  ねとらぼレビュー:あれ、昨日も見た……? 内容かぶりすぎな秋アニメ「学戦都市アスタリスク」と「落第騎士の英雄譚」の見分け方を考える ? ねとらぼ

・学園物である ・主人公がヒロインの着替えシーンにバッタリ遭遇してしまうところから始まる ・着替えを見たことでヒロインの怒りを買い主人公と決闘することになるが、主人公が勝つ ・ヒロインが髪の赤いお姫様で、剣使いで炎を操り、ツンデレ的な性格でめっちゃ強い ・主人公が弱そうに見えて実は強い ・ヒロインがマッチョな斧使いに勝つシーンがある
 ……まあ確かにこの通りです。  ほかにも、3話で敵に襲撃される、4話で強敵と戦って勝った後に主人公とヒロインがいい雰囲気になってED、などなど、展開の被り方は尋常ではありません。  ……しかし、です。  『キャバルリィ』と『アスタリスク』が、完全に同じ内容、またはよく似た内容のアニメなのか?と言われると、そうは思えないのです。  その根拠として……いや根拠というほどでもないのですが、それぞれのアニメをずっとニコニコで観ていると、  開始1分ほどでどちらの動画にも「面白い方」「つまらない方」というコメントが付いている。  もしこの2つが同じ系統の作品で、同じ種類の魅力があるのであれば、「両方好き」という人ばかりになるのが自然です。  それこそ『ごちうさ』と『きんモザ』のどちらも好きだという人が多いように。  しかしこの2つの作品の評価は割れていて、片方が好きで、もう片方が嫌い、という人がたくさんいるのです。  どうしてこの差が生まれるのか?この2つの作品はそれぞれどういう特徴があるのか?  というのを視聴しながらぼんやり考えていたのですが、私なりの結論として、  『アスタリスク』は「最近のラノベテンプレ」、『キャバルリィ』は「一昔前のラノベテンプレもしくは少年漫画テンプレ」ではないかという主張をしてみたいと思います。 --------------------  『落第騎士の英雄譚』と『学戦都市アスタリスク』は、どちらも「ラノベアニメのテンプレ」と評され、場合によっては「クソアニメ」と表現されます。  なぜクソかといえば、あまりに既視感のある世界観・設定だからでしょう。  ファンタジーバトルが展開される学園を舞台に、主人公が次々と強敵を倒していく……。  実によくある展開です。主人公無双、いわゆる俺TUEEE状態。これでは「ラノベアニメはみんな同じ」と言われるのも仕方ない……。  ……いや、ちょっと待ってください。  そもそも、そんな書き方をしたら、どんなアニメも大筋は同じ。王道とはそういうものです。  主人公が毎回ボロクソに負けるアニメなんて、それ自体がコンセプトである変化球アニメ以外に存在するでしょうか。ラノベに限らず漫画だってゲームだってそれは同じです。  主人公が勝つのは当たり前なのです。主人公だから。  だとすれば、差別化ポイントは「勝ち方」にあるのではないでしょうか? --------------------  キャバルリィとアスタリスクの主人公は、1話で最強と称されるヒロインに勝ち、そこからアニメでは連戦連勝……という流れで被っています。  しかし、この2つを「主人公が無双する話」で括ることはできないのです。なぜかといえば、  アスタリスクは「最強の転入生が才能で敵を倒していく話」で、  キャバルリィは「最弱の落第生が工夫で敵を倒していく話」なのです。  2つの作品の設定を素で混同している人も多いと思うのでこのあたりが混乱されがちなのですが、そもそもアスタリスクの主人公は弱くないし、弱いと思っている人もいません。特待生です。  さすがに無双するわけにもいかないので一定の制限がかかっているとはいえ、基本的には強いです。  なのでアスタリスクの主人公は戦いにおいても特に戦略を練ったりすることはなく、力押しで勝っていきます。  アニメ後半で始まるトーナメントでは、タッグ戦にも関わらず1人だけで瞬殺することでタッグ技を見せないという、モブキャラとの圧倒的な力の差を見せつける戦法で勝利していきます。  一方のキャバルリィはといえば、主人公はFランク、学校の最底辺・ワーストワンです。  才能のない主人公が努力で手に入れた唯一の武器が「一刀修羅」です。  ストーリーの都合として、一刀修羅使えば勝てるじゃん最強じゃん!  みたいに思えてしまいますが、  いや、1日1回、しかも1分しか使えない力って冷静に考えて弱いですよ。弱くはないにしても最強ではない。  そういうわけで、アスタリスクとキャバルリィは基本設定からして全く違うのですが、  どちらも王道展開であるがゆえにストーリーは似通ってしまうのです。 --------------------  まず「キャバルリィ」のテンプレがどこから来ているのかという話なのですが、  上で触れたように一昔前のラノベ、または少年漫画テンプレだろうと考えます。  といっても私は少年漫画は一切読んだことないのでラノベで話しますが、  この手のストーリーで最もメジャーなのは『とある魔術の禁書目録』でしょう。  主人公・上条当麻は公式には超能力の使えない「無能力者(レベル0)」ですが、イレギュラーな能力「幻想殺し」を持っており、それを駆使して超能力者や魔術師たちと渡り合っていく。  まさに落第超能力者の英雄譚です。  この手の、「主人公は基本的に弱いが、癖のある武器を持っており、その使い方を工夫すれば実力差をひっくり返せる」という話は、物語の基本です。  主人公がどうしようもなく弱かったら話にならないし、めちゃくちゃ強かったら感情移入できません。  弱い人が頑張って勝つ、頑張れば勝てる、というところにロマンとカタルシスがあるのです。  いわゆる「友情・努力・勝利」の後半2つです。  ちなみに、この記事で言う努力というのは「たくさんトレーニングした」みたいな話ではなくて、  「必死に頭を使って戦う」「苦戦しながらなんとか突破口を見出す」という戦闘そのものでの話です。  別に上条さんも鍛えているわけではないですしね。逆にキャバルリィとアスタリスクの主人公はどっちも鍛えてますし。  ところで「友情」部分なのですが、キャバルリィの主人公が独特なのは、その生い立ちゆえに ...

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かんがえごと 8年前

『デモナータ』と『ハリポタ』と『禁書目録』、ファンタジーにおける「日常」の終わり

長い記事タイトルですみません。てんこ盛りですね。  私は趣味がそんなに多くない人間なのですが、  小学生のころから続いている数少ない趣味の1つが読書です。  といっても、好きなシリーズを追いかける程度なので、趣味というほどでもない気はしますが……。  ともかく、今はライトノベルくらいしか読んでいないのですが、小学校の時に死ぬほどハマったファンタジー小説があって、  それが『ハリー・ポッター』『ダレン・シャン』『デモナータ』です。  他に『デルトラクエスト』『ナルニア国物語』あたりも全巻読んだのですが、特に印象に残っているのがこの3つです。  小学校の頃、特に6年生になる前の私は友達が絶望的にいなかったし、PCにも触れていなかったし、ゲームも1日1時間を律儀に守っていたので、本当に読書くらいしかすることがなくて、ハリポタやダレンシャンは何周も読みました。  最初にハマったのがダレン・シャンで、小学3年生のクリスマス、ニンテンドーDSが欲しくてクリスマスツリーに「DS」と書いたカードを飾っておいたら「Darren Shan」が届いたという愉快な出会いを果たした私は、  1巻を読み終わるとすぐに2巻を親に買ってもらい、3巻、4巻……と、気づけば12巻が揃っていました。  その後、同作者の新作である『デモナータ』シリーズも買い求め、たまたま家に3巻まで置いてあった『ハリー・ポッター』も続刊を親に買ってもらって読みまくりました。どちらも完結したのは中学校に入ってからでしたが。  で、それから数年して、小学生の弟に『ハリー・ポッター』『ダレン・シャン』を勧めたら全巻読んでくれたものの、『デモナータ』は中学生の頃に私が1巻を紛失していたせいでなかなか読めませんでした。  しかし、読む本がないままだと、うちの弟は延々とiPodでパズドラとマイクラとログレスをするだけのダメ人間になってしまうので、デモナータ1巻を買い直すことにしました。文庫版が出ていて買いやすくなっていたので。 [amazon_link asins='4092301812' template='Original']  で、弟が読んでいるのを見ると、ついつい読み直したくなるもので、先週1巻を読み、一昨日の夜に2巻を読んだのですが、  2巻まで読んだあたりで私の読書エンジンが久々にかかりはじめ、一昨日の夜の間に2巻から7巻の半分まで一気に読み、昨日の夜に最終10巻を再び読み終えました。  そして、改めて読んでみていろいろと考えたことがあったのでちょっと書いてみます。  『デモナータ』の話のネタバレを含むので、興味がある人は一応ご注意を。  さすがに最終巻の結末とかは書きませんが、1巻冒頭から予想を裏切る展開が多い物語なので、前情報一切なしで読む方が楽しめるかもしれません。  あと『ハリー・ポッター』『禁書目録』のネタバレも多少含みます。こちらは割と知っている方も多いと思いますが……。  それから、『禁書目録』の作者・鎌池和馬さんがデビュー10周年記念に書いたWeb連載講座「鎌池和馬の一〇年分の構造」を読むと、より一層理解しやすくなるかもしれません。  それなりに量のある連載で、私がこれを読んだのもだいぶ前なのでドンピシャな引用をするわけではありませんが、  「禁書のような作品(ストーリー、世界観)がどうやって生まれるのか」という方法論が、作者自身によって完全に文章化されている貴重な連載なので、興味のある方はどうぞ。 3438 ...

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かんがえごと 8年前

ライブであること、アマチュアであること

10月もそろそろ終わりかけていて、  ほんの少し前まで暑かったような気がするのが、いつの間にか涼しいを通り越して寒くなっているのですが、  そんな時に限ってマフラーを紛失するという不運。いや私のミスなんですが。  元々私は落とし物とか結構多くて、手袋とか1シーズンに2~3回落とすんですけど、まさか冬を迎える前にマフラーを落とすとは……。切ない。誰か買って下さい。  今月は本当に不幸が重なってて気が滅入る日々です。別にマフラーに限ったことではないというか、この件が一番些細なんですけど。他にもいろいろ。いろいろと!イライラする!!  早く11月になれ……。いや11月になったら突然運気が向上する保障もないんですが。 --------------------  最近、とある知り合いから演劇に関する話をされて、そこから何となく、「ライブ的なもの」について考えていたのですが。  別にアーティストやアイドルのライブに限らず、コンサート、演劇、などのライブイベント全般について。  私がどうしてもライブをイマイチ好きになれない理由として、「それが完成形ではない」ということがあります。  ă€€ă•ă‚‰ăŤč¨€ăˆă°ă€ă€Œĺ‰ľä˝œč€…ă€ă¨ă€ŒčĄ¨çžč€…ă€ăŒă„ă‚‹ä¸–ç•Œă§ă€ăăŽďź’ă¤ăŒĺŒç­‰ă ă¨ă„ă†ć„čŚ‹ăŤç§ăŻçľśĺŻžăŤç´ĺž—ă§ăăŞă„ă€‚  無から有を生み出すものと、有を発展させるものであれば、やっぱり前者の方が難しいし、価値があると思う。  ゲームクリエイターとゲーム実況者、作曲者と歌手、脚本家と俳優、もちろんそれぞれに特有の価値とスキルが必要とされるので単純比較はできないけれど、  でも後者は替えが利くよね?と思わずにはいられない。  ヒトリエのあのメンバーのうち、wowakaさん以外の誰かが交代してもそれはヒトリエとして存続できるんじゃないか、とか。  ライブであれば楽譜。演劇であれば台本。という、「創作者が明確なイメージを持って作った指示書」があって、  演者がその演劇のテーマを伝えた気になったとしても、それはあくまで代弁者で、借り物のメッセージが身体を通っていくだけに過ぎない。  で、例えば、「指示を外れたことをする」、つまり、アドリブや独自解釈を行うのであれば、それは創作者の意図を少なからず否定する形になるし、そもそも、独自解釈を行うことにライブ性は必須ではない。  脚本では静かに語るシーンで声を張り上げる、とか、音源時にはないギターリフのアレンジを加える、とかも、その方が良いのであればそれを脚本・音源に取り入れれば済む話であって。  で、例えばこれが、アイドルやアーティストのライブであれば、それはエンターテインメントとしてまだ受け入れられるのですが、  コンサートや演劇のような「芸術」に及ぶと、それをこの人たちがやる意味は何なのだろう、となるわけで。  観ている側はまだしも、演じている側は何を思ってそれをするのだろう。  創造性も主体性もないロールプレイをしていて楽しいのだろうか。  ……こういう考えになるのは、私自身がずっとコンピューター、DTMという、デジタルに制御でき、かつ一人で全てをコントロールできるタイプの創作にずっと親しんできたからなのかな、とも思うのですが。 --------------------  そんなことを考えながら先ほど、うちの大学の学祭で、知り合いの所属している軽音サークルのライブを見てきました。  で、まあ何となくわかったのは、演奏とか演劇とか、やってて楽しい人は楽しいんだろうな、という。  そもそもロールプレイって「頭を使わずに達成感を得られるもの」ですよね。ドラクエとかポケモンみたいなRPGも含めて。  いや、ロールプレイでも頭を使うことは使うでしょうけど、それは「決められた枠組みに沿って何をするか」みたいなことで、シナリオや世界観を考えているディレクターの方が頭を使っているのは間違いないじゃないですか。  演劇もそれと同じで、「この通りに演じてくれれば気持ちよくなれるよ、観客も感動してくれるよ」という体で用意された筋書きだとすれば納得がいくというか。  で、まあ、演者も観客もそれで満足しているんだから、その構造であるとか、その存在に対して異を唱えるわけではないのですけど、  私自身がその構造の中で踊りたいかと言われると、別に…という感じです。 --------------------  なぜ「ライブであること」が現代で売り物になるかと言えば、  「情報化社会では、ライブであるもの以外はいくらでも複製できて、価値が下がっていく」からかなぁと。  CDから着うた、iTunes、そしてYouTubeと、曲の音源としての金銭価値はどんどん下がっているけれど、ライブの価値は全く下がっていない。  売上が拡大しているのは、消費者が「ライブでないもの」にお金を出し渋るようになったことの裏返しかなあと。  で、問題は、「ライブ感が売り物になることを演者が自覚した時点で、それはライブではないのではないか」というところで。  私がアイマス(ミリオン)のライブにハマれない理由が多分そこにあって、結局あれは「"新人声優のライブ感"を売り物にしたいバンナムと、それを消費したい観客(プロデューサー)」の構図がチラつくんですよ。  どんなにぴょん吉がつたないながらも頑張って司会をしても、りえしょんが泣き出しても、もちょが訳わからないこと言っても、そうなることをライブ運営と観客(P)から期待されている時点でそれは予定調和でしかなくて。 --------------------  で。それと同様の構造が「学生の出し物」にも見え隠れしていて、  しかもそちらは、特に高校や大学になると、運営と演者がほぼ一体化しているから尚タチが悪いんですよね。  「学生が少ない時間をやりくりして作り上げた、その必死の努力」が見世物になっている。  それは最近話題になっている小学校の組体操もそうだし、夏の高校野球もそうだし。  そういうものを見て感動したい人たちがいて、それに沿って"生の感動"とされるものが作られている。  で、大学生にもなるとそれはさらに意識的で、薄汚れたものになって。  「大人・プロではない僕たちが必死にやっています」ということ自体が売り物になり、本人たちがそれを狙って作り上げる。  そしてその構造そのものにあまつさえメッセージ性なんてものを付加しようとする、その感覚がとても薄汚い。  結果だけを見てもらおうという顔をしながらも、過程がなければ成立しないものを、しかも意図的に過程を見せることで、そのアマチュアさが売り物になる。  学祭なんていうのはまさにその集大成で、本当はとてもお金を取れるレベルではない演劇や食事や物販が、ライブ感と未熟さ、という付加価値がつけられることで成り立っている。  それを真っ正直に、一生懸命やっているのであれば、もちろん文句はないのですが、  でも、大学生、20歳にもなって、「一生懸命やっている僕たち」の視点を一度も持たないなんて、あり得ますかね? --------------------  私は去年、学祭委員を一時期やっていたことがあって、  まあ学祭を一度も迎えずに夏休み明けに辞めたのですが。  去年の春に、この記事と似たような話をブログに書いたことがあって。  → ă‚ăžăˆă‚‹ | Our Story's Diary  この記事の中身を簡単に要約すると、  うちの大学では、学祭のパンフレットに大学周辺の店の広告を載せることで運営費の一部を稼ぐのが毎年の恒例なのですが、  その広告の取り方が、周辺の店に片っ端からアポなし突撃、しかもマニュアルに『正しい敬語は使わなくていいから必死さをアピールすること』なんて書いてあったのです。  もう、まさに、アマチュアであることを売りにして、お情けをかけてもらってますよね。  で、大人たちの一部は、実際に、お情けをかけたい、と思っているし、子どもたちの必死さにお金を出したい、とも思っている。  だから、Win-Winだ、と言ってしまえば、それまでなのだけど。  でも、そういう構造を知ってしまった上で、純粋な気持ちで楽しむ、というのは、私には無理です。 --------------------  結局、ライブ・演劇・コンサート、その他もろもろ…を楽しめるかどうか、というのは、  「出てきたものに対して『ライブであること』『アマチュアであること』に基づく補正をどれだけかけられるか」に依存しているのではないかなあと。  補正はつまり自己暗示とも言えるかもしれない。  もちろんプロのライブというものはありますが、でも、単純なクオリティだけでいうならCDの方が上なのは間違いないわけで。  私の場合は、その補正をほとんどかけられない、特に後者にほとんど価値を見出せないので、ライブ、特にアマチュアのライブを全然楽しめないし、  例えばそこに伝えたいことがあったとしても、「その前に伝え方を工夫しろよ」などと思ってしまうのだろうなーと。  もうみんな忘れると思いますけど、この夏に大活躍した「SEALDs」の主張に賛同できたかどうか、も、ここの差があるのかなあ、と。彼らの活動をネットで見たかリアルで見たかで感じ方が変わる、という面も含めて。  ただ、そこに求めるバランスというのが人によって違って、たぶんそれは単なる合計では測れないんだろうなあと。  声優やアイドルが「歌がへたくそ」だと叩かれるけど、「ちょっと声が震えてる」くらいだとむしろ好感持たれる、みたいな。  学生が「多少不自然な演技」だと共感を持たれるけど、「あまりに上手すぎる」と感情移入できない、みたいな。  そのあたりのバランスが、人気が出るかどうかを決めるとすれば、でも、とてもシビアなビジネスだなあ…なんて思ってしまうのです。 --------------------  インターネットでは、そのコミュニティが成熟していくごとに、「ライブであること」「アマチュアであること」に価値が置かれなくなっていきます。  たとえば、初期のボカロ界隈と、現在のボカロ界隈のトップを比べれば一目瞭然かと。  逆に初期であれば、制作者がお金儲けをすることに抵抗が起こったりします。  で、どうしてそれが起きるかと言えば、「視聴者と制作者の層の乖離」で。  コミュニティが大きくなっていくごとに、視聴者は制作者の顔を想像せずにコンテンツを消費するようになり、やがて「視聴者様」になる。  たとえばアイドルでも、AKBなんかはあまりに大きくなりすぎて、少しの問題で不必要なほどに叩かれたりする。  だとすれば、高校や大学の部活・サークルが、その「アマチュアであること」を売りにできるのは、その観客たちが「彼らはアマチュアだ」と思ってくれているからですよね。  高校野球で負けたチームを野次る人はまずいないと思うけど、プロ野球では起きる。大学野球はどうでしょう?私はよく知りませんが。  インターネットは相手の顔が見えないからこそ、平気で暴言をぶつけたり、暴言でなくても冷酷な批評を下したり、が容易にできる。   ...

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かんがえごと 9年前

国会前デモに行ってみて、SEALDsに感動したこと、そして意見したいこと

少し前の話になってしまいますが、8月30日の国会前デモと、9月4日の国会前抗議活動に行ってきました。  その中でいろいろと気づかされたことや、思うことがあったので、それを文章にしてみたいと思います。  あくまで個人的な主観ですので、間違っている点や的外れな点も多々あると思いますがご容赦ください。 --------------------  8/30の安保法案反対デモは、その規模からニュースでもそれなりに取り上げられたので、知っている方も多いと思います。  主催者発表は12万人、警察発表は3万人とのことですが、実際に行った感覚としてはちょうどその間くらいかな、と。 航空写真を元にした計算で10万人はあり得ない、というような考察もされていましたが、実は国会前にいた人が全てではなく、人が多いことを理由に途中の交差点で警察が通行規制かけたりしてたし、もともと日比谷公園に集まっていた人もいたのです。そのへんは計算に入れたのかな?と疑問に思います。  年齢層としては、SEALDsの影響か若い人もちょこちょこ見かけましたが、基本的には年配の方が多かったです。  私自身はデモに参加するのは初めてだったのですが、その熱気は凄いものがありましたし、現実における行動として大勢の個人が一丸となって意見を主張するのは、民主主義の1つのピースとして確かに価値のあるものだな、と改めて思いました。  もちろん、完全に賛成できたわけではなく、違和感を覚えるシーンもあったのですが、それは後で書きます。 --------------------  「SEALDsのデモは新しい」、という話は前々から耳にしていたのですが、8月30日の国会前デモは様々な団体が一つになっている関係でその感じがあまり見えなかったので、9月4日、毎週金曜に行われている国会前抗議行動にも行ってみました。  確かにSEALDsのデモは新鮮でした。  ラップ調で英語交じりのテンポの良いコールは、今までのデモにはなかったものです。  "Tell me what democracy looks like!"  "This is what democracy looks like!"  という英語の掛け合いなんて特にクールとしか言いようのない光景で、8.30ではコールを入れることにあまり乗り気じゃなかった私も思わずノリノリでコール入れてました。  コールとメンバーのスピーチを交互に入れるスタイルも新鮮で、SEALDs側も参加者も過度に疲れずに済み、イベント自体にも緩急がつく、素晴らしい発明だと思います。 8.30は1時間ほどいたところで飽き始めてしまったのですが、9.4は気づいたら2時間経ってました。 このあたりはアーティストのライブイベントでMCを入れることにも近いものを感じます。  デモに参加して何になるのか、ということを、SEALDsデモに参加する前の私はいまいちわからずにいました。  しかし、9.4のデモに行ってみて、何よりも驚いたのは、  そんな難しいことを考えるまでもなく、SEALDsのデモは、楽しい ということです。  他の団体の、なんだか暗くて、傍目にも異様な雰囲気を醸し出している抗議行動と違って。  義務感や正義感に駆られてイヤイヤ行く必要もなく、日常の延長線上に確かにデモがあるのです。  好きなアイドルのライブに行ったり、好きなバンドのコンサートに行ったり、前から気になっていたレストランに行く、そういう感覚でデモに行くことができるのが、凄いな、と思いました。  それは、ともすれば、「不真面目な若者の集まり」だと思われるかもしれないけれど、日本でデモを当たり前のものにするためには、これが必要なのだと気づかされました。 --------------------  さて、SEALDsのデモを実際に目の当たりにした上で、SEALDsに対して意見したいところが6点あります。…多いですね。  1.コール・スピーチともに理論的な根拠が弱い。  2.「反自民・反安倍」を前面に押し出しすぎている。  3.他の左派団体に同調しすぎている。  4.インターネットでの無関心層への情報発信が弱い。  5.SEALDsへの批判・指摘に反論しきれておらず、間違った理解が広まっているのを見過ごしている。  6.Twitterのツイートがなんか感じ悪い。  順に説明したいと思います。  重ねて言いますが私はSEALDsの活動理念やその方向性は素晴らしいと思っていて、応援したいし、今後も参加したいのですが、だからこそ、あえて苦言も呈したい、ということです。 --------------------

1.コール・スピーチともに理論的な根拠が弱い。

 前述したような「This is what democracy looks like」というコピーのキャッチーさは言うまでもなく、 その日本語版である「民主主義ってなんだ?」「これだ!」も同様にハイセンスです。  しかし、これらのコールには特に主張が入っているわけではありません。  「戦争反対」「絶対廃案」という意思表示も同様に伝わるのですが、「なぜ戦争反対なのか」という部分が弱く、合間のメンバーのスピーチでも、感情的な主張がメインで、その論拠に触れることはあまりありませんでした。  もちろん、感情面の話、個人的なエピソードを話すのが悪いわけではありません。  9月4日(金)の抗議行動で紅子さんの行ったスピーチ、私も生で聞きましたが、共感できる部分も多くありましたし、しっかりと意志が伝わる、素晴らしいスピーチだったと思います。
【スピーチ全文掲載】「従順さと物分かりの良さがファシズムに加担しないために、私は学ぶことをやめません」ーー8.30国会前大行動直後の金曜日 SEALDs紅子さんスピーチ  特に私と同世代の大学生にとって、耳の痛い、しかし筋の通った内容であると思うので、ぜひ一度全文に目を通してほしいのですが、しかし、あえて指摘したいのは、最後の部分。
 ゆとり世代と呼ばれた私たちの、考えないでいられるというゆとりを壊すために。従順さと物分かりの良さがこれ以上ファシズムに加担しないために、母の言葉に感謝しながらこれからも私は学ぶことをやめません。  そして、ここまで学んできて現在、欠陥だらけの安保法案の廃案と安倍政権の即刻退陣を求めます」
 なぜ「安保法案は欠陥だらけ」であることを前提として流してしまうのでしょうか。  「わかりやすい言葉でのコール・スピーチ」を心掛けるというSEALDsの姿勢は素晴らしいのですが、それは「難しい部分を省いて感情面の説明に終始する」とイコールでなくても良いのではないでしょうか。  

2.「反自民・反安倍」を前面に押し出しすぎている。

 1とも関連することなのですが、SEALDsのコールは「絶対廃案」「戦争反対」など、安保法案にフォーカスしたものも多いですが、同時に「安倍はやめろ」「どうでもいいなら総理をやめろ」「国会サボる総理はいらない」など、安倍首相への個人攻撃という趣旨のコールも多いです。  また、「なんか自民党感じ悪いよね」という石破氏の発言をパロディにしたコールも取り入れられています。  しかし、本来、SEALDsの目的は「安保法案を止めること」であって、だとすれば、反自民にこだわる必要はないのではないはずです。  これは私の主観ですが、有権者の多くは、「安保法案に喜んで賛成するわけではないけど、自民党以外の選択肢がほぼないし、アベノミクスも一応成功してるらしいから、まだ自民党が一番マシかな」という感覚を持っているように思えます。  そういった層に対して本気で説得したいのであれば、SEALDsは「自民でも民主でも共産でもいいけど安保法制は廃案にすべきだよね」というアプローチをすべきだし、そういう形で支持基盤の切り崩しをされることが自民党にとっては一番痛いのではないでしょうか。   もちろん、安倍首相である限り安保法案は通そうとするので辞めさせなくてはならない…ということもわかるのですが、あまりに「安倍やめろ」という主張が先行しすぎて、特定政党の支持をする団体、というイメージを持たれて敬遠されている部分があると思うのです。  トレンド入りさせるべきハッシュタグは「#国会サボる総理はいらない」ではなくて「#本当に止める」でしょう。  安倍首相を呼び捨てにすることも含めて、過度に攻撃的な態度を取ることは、むしろ一般の人を引かせてしまうように思えます。  

3.他の左派団体に同調しすぎている。

 2とも関連する話なのですが、SEALDsはどこに向けたアピールとしてデモをしているのか?という疑問があります。  SEALDsは日本の政治運動に久々に現れたフレッシュでセンセーショナルな存在です。高齢化・先鋭化して「デモは一部のおかしな人がするもの」というイメージすらあった日本において、若い人をデモに呼べて、しかもそれをカッコよく演出することに成功している唯一の存在です。  だからこそ、自民党を快く思わない人たちは、団体も個人もSEALDsを絶賛して持ち上げます。左派運動に燦然と登場したカリスマだから当たり前です。  しかし、SEALDsがそれらの団体に方向性を寄せることは、結果的に「なんだ、SEALDsも結局他の団体と同じか」と思われることに繋がらないでしょうか。  少し話が逸れますが、私は、2011年の震災後に起こった反原発デモが、東電の起こした問題の圧倒的な深刻さにも関わらず、あまり一般人に受け入れられなかったのは、その主張があまりに行き過ぎていたから、だと考えています。  原発の廃炉後の処理や事故が起きた場合の損失、40年しか稼働できない故の長期的なコスト面の損失、クリーンエネルギーなどの代替案も含めて適切な主張ができていれば、一般の人も反原発に傾いた可能性もあるのに、安全面や感情論ばかりを喧伝した結果、「放射脳」のレッテルを貼られ、「原発は必要悪」という聞こえのいいキャンペーンに押し負ける形となりました。  安保法案に対する反対運動も、同じ結果を辿ろうとはしていないでしょうか。 SEALDs以外の団体のデモは、もはや政治活動に興味のない一般人が参加する余地はあまりなく、それに向けたアプローチもできていません。外部に発信することをメインにしていない、どちらかといえば内向きのデモだという印象を受けました。  SEALDsにはまだそうならない可能性があります。自民党を応援する必要は特にありませんが、反自民・反安倍色を薄めて、「安保法案への反対」「民主主義の危機」にフォーカスした方がもっと多くの層を取り込めるように思えます。  

4.インターネットでの無関心層への情報発信が弱い。

 さらに3から派生して。  SEALDsはパンフレットを作ったり勉強会を開いたりと、無関心層や、少しだけ関心はあるような層を引き付ける活動も行っています。  しかし、インターネットではその動きがあまり見られず、Twitterの情報発信はデモの実況や感想がほとんどです。  せっかくデジタルネイティブ世代が先導している運動なのだから、もっとネットを活用してもいいのではないでしょうか。 SEALDsサイト上のコンテンツは「SEALDsを知ってくれている人にだけ見てもらう」という感じになっており、外部に発信する活動は、割と他のサイトやメディアに頼っている部分がありそうなので、もう少しそちらの強化もしてほしいなと思います。  訂正)SEALDsの奥田君達に会って来た  このような内容を、SEALDs自身で発信することはできないのでしょうか。   ...

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かんがえごと 9年前

宗教について思うこと

昨日まで、忙しすぎてブログ更新する暇がないーってレベルではあったのですが、  暇になったからと言って書くことがあるわけでもないという罠。  いや、厳密には暇になったわけではなくて、明日は会計学の期末試験で結構、というか相当ヤバいのですが、それはそれとして、  これだけでブログを切り上げるわけにもいかないので、何となく考え事でもしてみようと思います。  …「考え事をしてみます」って切り口から始まるブログって何だ…? --------------------  宗教を信じるということについて。  宗教、というと、たとえば、キリスト教とか、仏教とか、イスラム教とか、そのあたりが浮かぶと思うのですが、  とりあえず私としては基本的にキリスト教をイメージしてここから話をします。  元々、日本には宗教というものがあまり根付いておらず、私も特定の宗教を信仰しているわけではありません。  なので、世界史や倫理の授業でキリスト教の概要について学んだのが、その理解の第一歩だったのですが、  その時、どうしても納得いかなかったのは、どうしてキリスト教が未だに世界中で信仰されているのか、ということで。  キリスト教ができた当時のことはわかるのですよ。  腐敗しつつあったユダヤ教に疑問を呈したイエス・キリストがより普遍的な思想を掲げ、イエスの死後、パウロやその弟子たちが教えを体系化し、イエスの復活などのセンセーショナルなエピソードとともに世界的に普及させた…。という。  ……ええと、このあたりの歴史の理解が全く正確でないことは承知しているのでスルーでお願いします。ここでしたいのは歴史の話ではなくてですね。  ともかく、「キリスト教に世界宗教となるポテンシャルがあった」ことの納得は行くんですよ。  ただ、それは、その時代に、例えば旧約・新約聖書の内容の真偽がどうであったか?とか、誰がどのような意図で作ったものであるか?とか、そういうことを知らない人に、それを疑うことができない社会下で受け入れられたのであって、  今の時代に、そこに疑いの余地を挟むことのできる人間が、  その上でキリスト教の内容、たとえば神の存在であったり、イエスの復活であったり、そういうものを信仰する、ということが、どうしても理解できなくて。  そして、これはおそらく誤りだと今は思っているのですが、私はそれまで、「宗教を最初に広めた側の人間は宗教を信仰していなかった」と考えていたのです。  たとえばインドのカーストや、宗教改革が起きた時期の教会などを見るとわかるように、宗教を支配する特権階級は、宗教を利用している人間であって、  その人たちは宗教を信じていない、どころか、宗教を信じている人間を下に見ていたんじゃないかと思っていました。    …だったんですけど、大学に入って、今までは想像でしか知らなかった、実際のキリスト教徒の方と話す機会が少し出てきまして。  そこで、まず驚いたのは、「イエスの復活そのものを信じている人が意外と少ない」ということ。  いや、少ないというのは語弊があるかもしれませんが。  私のイメージとして、キリスト教徒の人に、神はいないんじゃないか、とか、イエスの復活は作り話じゃないか、とか、そういうことを言ったら本気で怒られるのだろうと思っていたのですが、  実際には、(もちろん授業の一環だったこともあって、ですが)タブー視などは一切せず、極めて建設的な議論に参加してくれて、むしろ教徒の方であっても「イエスの復活は精神的なもの」だとか、「聖書を全て鵜呑みにするわけではないけど教義には同意している」みたいなスタンスの場合があったのです。    で、そこで、ふと思ったのです。  日本における宗教信仰のイメージが、むしろ過度になりすぎているのではないか、と。  一般的に、日本人は無宗教だとか、そういう風に語られているけれど、  元旦に初詣に行くし、寺社では背筋がピンとなるし、困った時は神頼みもするし、悪いことをしたら罰が当たる、  そういう考え方をする時点で、無宗教では決してないのではないかと。あまりに生活様式に溶け込みすぎて、社会常識と区別がつかなくなっているだけではないのかな、と。  最近はそんなことを思い始めています。    で、キリスト教についてなのですけど、  「宗教を信仰する=狂信者になる」みたいなイメージが払拭されたので、  最近はだいぶ宗教を信仰する人の気持ちが理解できるようになってきました。  ただ、それでも私自身が宗教を信仰する、ということは想像できなかったのですが、    私がつい先日読んで感銘を受けた「WORLD END ECONOMiCA」という小説に出てきた一文が、実は私の宗教観をもう一歩揺さぶってくれました。  この話は読んだ当初からしたかったものの、あまりに狭い話で触れる機会がなかったのですが、ようやくできます。  ……と思ったのですが、ちょうどWEE1巻を友人に貸し出している最中で、手元にないので引用できない不具合。  仕方ないので2巻にある、近いニュアンスの一節を引用します。  神が俺を救ってくれることはあるのか?と問いかける主人公のハルに対する、シスター・リサの台詞です。

「神はいないと思っていれば、たとえ神が目の前に現れたって、これは神ではない、と思うでしょうね。そういう意味で、世界はその人の願う形になるものなのよ。信じる者は救われる。これが、その言葉の意味。(中略)」  -WORLD END ECONOMiCA (2) 199ページ 1行目
 同じく、確か1巻だったと思うのですが、リサの台詞で、  「どうしようもない状況下で、奇跡としか言いようがないこと、神様がいるのだと考えないと説明がつかないようなことが起きたとしたら、その人にとって神様はいるのだと思える」  というような言葉が出てきます…もちろん小説本編ではもっと上手い表現がされているのですが。すみません…。    で、このエピソードというか、考え方は私にとってはかなりの衝撃だったのですが、どの程度共有できるでしょうか…。  つまり、神を信じるかどうか、というのは、世界で起こっていることの原因をその外部に求める、ということで、  宗教を信仰することは、外部に精神的な支柱を求めることなのではないか、という解釈を得ました。  だとすれば、神の存在証明などというのは物凄くどうでもいい話であって、  その本質は「信じるか、信じないか」という二択にある。  その根拠というか、各個人にとっての転換点みたいなものはあるかもしれませんが、それを他人に対して証明する必要は一切ない。主観的な世界の見方に神がいるかどうか、という話。    ……というのが、私がこれまで生きてきた中で得た宗教に対する解釈です。  これを読んだ皆さんが、この記事に対して、または宗教そのものに対して、何か思うところがあればそれ以上のことはありません。そういうスタンスです。  ちなみに私は、今のところ、特定の宗教に対する信仰を持っているという自覚はないのですが、上記のように、だいぶ宗教、特にキリスト教に対する理解と興味が、ここ1、2年で深まっているので、もしかしたらキリスト教徒になることがあるかもしれません。ないかもしれません。 ...

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