アニメ・ゲームのこと 6年前

『ボルケニオンと機巧のマギアナ』におけるテーマ性の検証 – 嘘と偏見に向き合った”日本的ズートピア”

2016年のポケモン映画『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、  「ポケモン映画は薄っぺらい、中身がない、子ども向け」という従来の定説に反旗を覆すべく制作された映画だ。  それは、ストーリーが十分に面白く、そして感動的である、というだけにとどまらない。  信じられないかもしれないが、今年のポケモン映画は明らかにテーマ性とメッセージを帯びている。  では、果たしてこの映画は何を描き、何を伝えようとしたのか? ということを考えていきたい。    注)以下の内容は、『ボルケニオンと機巧のマギアナ』を既に視聴済みであることを前提にネタバレ込みで考察しています。  ストーリー部分の重要な結末は白文字に反転させており、それを読まなくても一応内容はわかるようになっていますが、それでもネタバレになってしまう部分が少なからずあるので、できれば一度映画を観てから読んでいただければと思います。  ネタバレのないレビューは先日書きましたこちらをどうぞ。  ・【感想】『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、ここ数年のポケモン映画への不満を解消した傑作  ・『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は例年の #ポケモン映画 とどう違うのか。そして、ポケモンはディズニーを目指すのか  また同時に、比較対象としてディズニー映画『ズートピア』についても触れています。こちらも重要なネタバレは避けていますが、なるべく情報を入れたくないという方はご注意ください。もうすぐBlu-rayが出るので未見の方はぜひ買いましょう。 -------------------- ボルケニオンの人間不信  この映画は、ボルケニオンとサトシが不思議な鎖で繋がれてしまい、離れられなくなるところから始まる。  ボルケニオンはマギアナを守ろうとするが、そのために手を貸そうとするサトシやセレナたちを一切信用しない。  その理由としてボルケニオンはこう答える。  「人間は信用ならねえ。人間は嘘をつくからだ」  これにはちゃんと根拠がある。ボルケニオンは、かつてトレーナーに捨てられるなどの辛い過去を持ったポケモンたちが集まって暮らすネーベル高原に数百年いて、しかもそのポケモンたちを捕まえて売り捌こうとするポケモンハンターから守り続けてきた。  人間のポケモンに対する酷い仕打ちを数えきれないほど目にしてきたボルケニオンが、人間の全てに対して憎悪と疑心を持つのは、当然のことだろう。  サトシたちのマギアナやその他のポケモンたちに対する好意的な態度を見ても、ボルケニオンはなかなかサトシたちを信用しない。  一方で、サトシたちも、ボルケニオンの「これ以上関わるな」という命令には、決して首を縦に振らない。  ピカチュウやサトシのポケモンたち、そしてもちろんサトシも、これに反論しようとする。  「人間はそんなやつらばっかりじゃない」「サトシは嘘をついたりしない」。  このサトシとボルケニオンの意見の相違……厳密に言えば、ボルケニオンのサトシたちに対する敵意が、氷解していくその過程は、この映画の1つの軸である。  「人間は嘘をつくから信用できない、仲良くしてはならない」というボルケニオンの主張は、実は複数の前提の上に成り立っている。 「嘘をつく人たちを信用してはいけない」  「嘘をつくのは悪いことである」  「人間は全員嘘をつく」  という3つの点だ。  このうち最初の2点はほとんど被っていて、「嘘をつく」「信じる」ことの是非・善悪についてだ。まずはその点を見ていく。  

信じることは悪いこと?

 嘘をつく相手を信用するのは悪いことなのか。  徹底的に他人を信用するサトシと、徹底的に他者(人間)を信用しないボルケニオンの対比はもちろん1つの軸だが、  実は、サトシ一行とは別の軸でこの問題を引き受けている人物がいる。  アゾット王国の王子・王女である、キミア・ラケル姉弟だ。  ラケルが「ジャービスを疑わない悪役」、キミアが「ジャービスを疑う味方役」と、2人は対照的な役回りになっている。  ジャービスという人物が徹底的に救いようのない悪役として最初から描かれているため、キミアが絶対的に正しいように見えるが、本当にそうなのか?  そこでキーとなるのが、途中、ジャービスの企みに気づいた後の、「改心したラケルの扱い」だった。  ラケルもいくら騙されていたとはいえ、ネーベル高原を強襲してポケモンたちを痛めつけるのを平然と眺めていたりとなかなか酷いことをしていて、そう簡単に許されていい人物でもない気がするが、  そのことを謝るラケルに対して、サトシの答えは、「ポケモンと旅に出てみたらいいよ」という一言。  この潔い対応に、サトシの他者に対する絶対的な信頼が集約されている。  

嘘をつくのは悪いこと?

 そもそも、「嘘をつく」というのは100%悪い行為なのか。  中盤に、こんなシーンがある。  ネーベル高原で、サトシとボルケニオンを縛り付けていた鎖を破壊するのをゴクリンが手伝ってくれる。  ところが、サトシが感謝の意を伝えるためにゴクリンを抱きしめると、ゴクリンは怯えて逃げ出す。  ボルケニオンは、「ゴクリンはトレーナーから捨てられた過去があり、捨てられる直前にトレーナーがゴクリンを抱きしめたことから、抱きしめられることにトラウマがある」ということをサトシに伝える。  そこからボルケニオンは「人間は嘘つきで、身勝手だ」という考えを改めて主張する……。  ボルケニオン含むネーベル高原のポケモンたちのトラウマの根深さを示す重要なシーン……なのだが、このエピソード、人間の目線で見直すと、ちょっとした引っ掛かりを覚えないだろうか。  人間の事情でポケモンを捨てるのは確かに身勝手だ。しかし、トレーナーが「ゴクリンを抱きしめてから逃がした」のは、「ゴクリンに嘘をついた」エピソードなのだろうか? 何か、もっと別の感情があったように思えないだろうか?  この時点で、ボルケニオンの考え方の偏りが垣間見える。  もちろん、そのトレーナーがどのような意図からその行為をしたかは定かではないが、  ボルケニオンは、「良い嘘と悪い嘘がある」という人間ならではの感性を理解できておらず、  「人間は嘘をつくから悪い」「ポケモンは嘘をつかないから善い」という単純な構図を信じていた。    そんなボルケニオンの視点のズレは、物語のラストシーンにおいて、見事に覆される。  (※以下ネタバレにつき反転)  ネーベル高原に墜落しようとする空中要塞から脱出する最中、ボルケニオンは「自分1人がここ(要塞の中心部)に残って内部から爆破させる」という提案をし、サトシたちから「それだとボルケニオンの命が危ない。脱出して外から爆破すればいい」と否定される。  それに一度は同意を示したが、ボルケニオンはサトシたちを要塞から追い出してから、1人で要塞の中央部に戻る。  サトシは爆発する空中要塞を見ながら、「嘘つき」だと小さく呟く。  (※ネタバレここまで)  ボルケニオンはサトシたちとネーベル高原のポケモンたちを確実に守るために、1つの嘘をついた。  ストーリーのクライマックスと、メッセージのクライマックスが完全に一致した、見事としか言いようのないシーンである。  そしてここで、「ポケモンは嘘をつかない」というボルケニオンの考えが、その本人の行動によって否定される。それは、「嘘も方便」などという簡単な言葉にとどまらず、もう1つの重要な意味を持っている。  

種族の壁、偏見の壁

 そもそも、「人間とポケモン」という二元論は正しいのか。  ボルケニオンが人間をひとまとめに扱うことにサトシが反発する流れは、物語中に何度も繰り返される。  「(サトシとボルケニオンを縛り付けている)鎖を作ったのはお前らだろ」「だから俺じゃないって」という口論もその1つ。  ボルケニオンは人間の根底にある悪意を信じて疑わない。  そして、実はこのバイアスは、最後まで否定されないのである。  映画の最後、ボルケニオンは、サトシたちにこう告げる。  「お前らみんな……ネーベル高原名誉ポケモンにしてやる」  これはWikipediaのサトシの項目にも載っているからネタバレではない。はず。  このセリフは、ボルケニオンがサトシたちに対してようやく受容を示す、綺麗なエンディングに見える。  しかし一方で、この結末は残酷だ。  ボルケニオンはどうして、「人間の中にも良いやつはいる」という結論を出さなかったのだろうか?  

『ズートピア』と「もう1つのズートピア」

 ここで話を一度『ズートピア』に移そう。なぜズートピアかって、あの作品もまた「種族の壁」と「バイアス」をテーマに描き、そして真正面から描き切った映画だからだ。あと、私が大ファンだからです。  『ズートピア』では、肉食動物と草食動物という大きな種族/カテゴリーの共存と衝突が描かれていた。  中盤、肉食動物が凶悪犯罪を起こす事件が多発したことで、肉食動物の生物学的、遺伝子的な危険さが問題視され、隔離すべきだという意見が草食動物の側から上がる。草食動物の方が数は圧倒的に多いため、社会の流れもそちらに傾く……。  最終的に主人公ペアであるニックとジュディの活躍によって、肉食動物と草食動物の違いは生物学的なものではなかったことが判明し、ズートピアは再び動物たちが共存できる街に戻っていく。    ところで、『ズートピア』は現行の設定になるまでに紆余曲折を経ていた。 『ズートピア』の制作史、および『ズートピア』のテーマは「差別」であるのか? ...

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アニメ・ゲームのこと 6年前

『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は例年の #ポケモン映画 とどう違うのか。そして、ポケモンはディズニーを目指すのか

『ボルケニオンと機巧のマギアナ』の感想記事。つい数日前にも書きました。  【感想】『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、ここ数年のポケモン映画への不満を解消した傑作  しかし、この内容はネタバレがないように全力で配慮したもの。この程度ではまだまだ書き足りない。  というわけで、少しだけ(未視聴でも問題ないラインを探りつつ)ネタバレを交えながら、もう少し深くこの映画の魅力を掘り下げていきたい。  本当は中身についてネタバレ全開の考察記事も上げたいのだけど、そっちはそっちで近いうちに別の記事で……。  

「今年のポケモンは、本当に違う」

 そんな評判を去年も聞いた。一昨年も聞いた。っていうか毎年聞いた。  特に、去年の『フーパ』は、『エンテイ』以降十数年ぶりに脚本家が変わったので、今年は違う、今年は面白い、そんな話が結構流れていたと思う。  なので、私は期待して観に行き、そして、つまらなかった。  ここで「まあまあ面白かった」ということも可能だけど、それだとただの「ポケモン映画はいいぞおじさん」になってしまうのではっきりさせよう、『フーパ』はつまらなかった。伝説のポケモン大集合、というコピーありきのコンセプト。ラティ兄妹の再登場のようなファンサービスこそ旺盛だったけど、肝心のストーリーは全然大したことなかった。  これがポケモン映画の限界。大人が観ると「まあまあ面白かった」というところに収まるような、子ども向けアニメの枠を超えられないのかという失望。  なので今年も正直全然期待してなかったし、どうせあてにならないので前評判すら全く調べずに突っ込んだらめっちゃ面白かったので、こうして掌を返して手の甲側でキーボードを叩いているのだけど、  観てない人からすれば「今年は違うってあと何回言うんだよ」と思うのも致し方ない。  では、何がいつもと違うのか。それを見ていく。  

ピンチになるのがピカチュウではない

 一昨年公開された映画『破壊の繭とディアンシー』。XY映画第1作。  さすがに2年前の映画なので多少のネタバレは許してほしいのだけど、  この映画のラストで、ピカチュウはイベルタルの力によって石にされてしまう。  大切な仲間が命を奪われ、涙を流すサトシたち。  そこへ、再生をつかさどるゼルネアスが表れ、ピカチュウは生き返った。  さあ、この夏史上最大の感動!泣こう!  ……このラストシーンを観て、ポケモン映画のメインターゲットたる小学生がどういう感覚を抱くかはわからない。  わからないが、大学生の私の感覚としては、  毎週木曜に元気に冒険しているレギュラーメンバーの生死をストーリーの軸に持ってこられても困る。  こういう見方をすると身も蓋もないけれど、それにしたってさすがに茶番。生き残るに決まってるのだから。  同じポケモン映画でも、『ミュウと波導の勇者ルカリオ』なんかの展開は、どっちに転ぶか最後までわからなくて良かったし、前作『フーパ』が個人的に『ディアンシー』よりは楽しめた理由もそのあたり。  その点、今作の『ボルケニオン』。ボルケニオンとマギアナの安否がストーリーの主軸になっているので、最後まで展開が読めない。これだけでもかなり嬉しい。  

サトシの成長は望めない

 ポケモンのテレビアニメシリーズ中、最高傑作とされることの多い『ダイヤモンド&パール』。  あのシリーズは、サトシとヒカリのダブル主人公だった。  シリーズ開始前、サトシが続投するかどうかが前週まで伏せられる(AG編最終回でサトシがシンオウ行きの船に乗ることで初めてわかる)、という大胆な宣伝手法が印象に残っている。  どうしてダブル主人公が必要だったのか。  これもまた、身も蓋もない話になってしまうが、サトシというキャラクター、初代~金銀までならいざ知らず、もうとっくにキャラクターとして完成されている。  サトシを物語の主人公に据えると、「事件が起きました、マサラ人のサトシが解決しました、めでたしめでたし」という単純な物語になってしまう。ミステリーやアクション映画やコメディなどであれば、それでもいいけれど。  そこでDP編では、ヒカリというキャラクターをメインにすることで、サトシのバトル道とヒカリの成長物語のいいとこどりを行った。  続くBW編では、サトシの経験値をリセットして成長物語にしようとした結果、旧来のファンの怒りを買いまくり、シーズン2で軌道修正をする羽目になった。  XY編は何とかバランスを取ろうとしているっぽいけどちゃんと観てません。ごめんなさい。  まあとにかく何が言いたいかというと、サトシは主人公としてはあまりにも成長しきっている。CP2000くらい。    『ボルケニオン』は、サトシとボルケニオンのダブル主人公、というよりボルケニオンが主人公と言ってもいい。  この2人の対比を掘り下げるとネタバレになるので詳しくは割愛するけれど、  年齢・強さ・存在感などで一見するとボルケニオンの方が上の立場に来るところを、実はサトシの方が精神的に大人びている部分があって、ボルケニオンを諫めたりする。  このデコボコな関係、お互いを補完しあう2人組というのがバディものとして理想的。  「場慣れしている前主人公+新米主人公のダブルキャスト」という構図は『ナルニア国物語』から『相棒』まで古今東西で使われてきたメソッドであるけど、サトシという最強主人公を外せないポケモンアニメにおいてはこのダブル主人公制が最適解だということを改めて示した。  

ロケット団がいる意味

 前回の記事でも触れたことだけど、ポケモンアニメはAG編で、原作ゲーム(ルビー・サファイア)に出てこないロケット団をアニメオリジナルで続投させる決定を下してから、(ストーリー上重要な回であればあるほど)その扱いに困ることになった。ある意味ではサトシ以上に扱いあぐねていた。  その1つの解がBWの路線変更だったけど、残念ながら炎上した。  この問題が映画では特に顕著で、「映画オリジナルの悪役」が存在するのに、ロケット団は何をしに出てくるのか。  第三勢力として騒ぎに乗じてピカチュウを狙うにしろ幻のポケモンを狙うにしろ、うまくいくわけがないし、本筋の対決とは関係ないので、「中盤あたりで挿入される全く関係ないイベント」になってしまう。  全く関係ないイベントが挿入されることは物語においてノイズだ。  いや、そう思わない人もいると思うが、少なくとも思春期に『輪るピングドラム』というドラッグを摂取してしまった私としては、やっぱり物語は必然性と必要性だけで構築されてほしい。全てのオブジェクトに意味があってほしい。あらゆる映画はズートピアであってほしい。    この問題について、今回の映画の解決策は非常にスマートだ。  「ロケット団を敵陣営に協力させる」。今までのポケモン映画における「悪役の手下」をロケット団に兼ねさせることにしたのだ。(まあ悪役の手下も別にいるのだけど)  これによって、定番であるサトシvsロケット団の対決が物語に必要なステップになったし、同時にロケット団が今回の悪役の技術である「ネオ神秘科学」の力を借りることで、「いつもと違うロケット団」になった。  「いつもの(テレビシリーズのままの戦力の)ロケット団」がサトシに勝てないというのはもう自明。突然ニャースがタイマンでピカチュウに勝てるようになるわけがない。  でも、ネオ神秘科学の力を借りたロケット団なら、サトシたちを追い詰める展開もあり得るかもしれない?  そう思わせた時点で成功だ。今作のロケット団は、物語の重要なパーツとしてきちんと存在している。  あと、今作はニャースがかなり重要な役割を演じているのだけど、その話も掘り下げるとネタバレなので割愛。  

伏線・反復

 お前は伏線さえ張ってあれば満足なのか? と言われると「はい……ごめんなさい……」となるのだけど、  まあとにかく今作は「本当にポケモン映画?」っていうくらい伏線や反復が詰め込んであって、作品が綺麗にまとまっていた。  前回の記事で書いたことと同じ内容になってしまうのでもう少し踏み込んで書くと、  今作は「相手を信用できるかどうか」「異なる集団が共生していくことはできるのか」みたいなところが一貫してテーマになっていて、  「相手が本当のことを言っているかどうかわからない」というエピソードが大小様々に散りばめられている。  そこに対してラストシーンの意味がちゃんとある。  1つ1つのエピソードを拾っていくほど、ラストシーンは必然的で、この映画が明確に1つのテーマを描くために作られていることがはっきりする。  しかも、ラストシーン、基本的に割と説明過剰なポケモン映画において、サトシの台詞がすごくシンプル。  シンプルだからこそ光る。素晴らしいです。  

ポケモン映画の路線変更の理由

 で、ここからが本題。いや、ここまでも本題なのだけど。  ポケモン映画はどうして今年ここまで化けたのか?  もしかしたら大した理由なんてなくて、脚本家がアナ雪観て感銘を受けてちょっとそういう路線に舵を切ってみたくなっただけかもしれないけど、  私はこの物語の必然性を信じるのだから、当然、この物語を生み出した現実にだって必然性を信じる。  考えられる路線変更の理由は何か。  前年の『フーパ』が興行収入最低記録を更新したことで、スタッフに危機感が出てきたというのは、それなりに尤もらしい。  けれど、それに気づくのはもう何年か早くても良かった気がする。  もう1つ要因として挙げるとするなら、  任天堂キャラクターの映画事業進出に伴って、任天堂グループの映画戦略が見直されることになったのではないだろうか?    ポケモンは一応任天堂とは別会社になっているが、『スマブラ』や『amiibo』『バッジとれ~るセンター』などを見る限り、キャラクターとしては任天堂IPの1つとして扱うはずだし、  少なくとも世間では任天堂と株ポケの区別が全くついていないことがPokémon GO現象で判明してしまった。  現時点でポケモンのアニメ・映画は任天堂全体の事業戦略からは何となく切り離されているけれど、  今後マリオやゼルダやスプラトゥーンやF-ZEROの映画が順次作られていくとすれば、ポケモン映画は「任天堂ブランド映画の1つ」ということになる。  その時に、任天堂映画全体が「ポケモンのような低年齢層向けの映画」という目で見られる ...

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アニメ・ゲームのこと 6年前

【感想】『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、ここ数年のポケモン映画への不満を解消した傑作

ポケットモンスターの映画第19作、『ボルケニオンと機巧のマギアナ』を観てきました。

cncqqs8viaabqkr-9369348  まず最初にはっきりさせておきますが、本当にすごく面白かったです。  ここ数年のポケモン映画で一番の傑作だと思います。何なら過去最高かもしれない。  前情報ゼロ(ボルケニオンのタイプも知らなかったし、あらすじも全然見てなかった)で観に行ったからこその、この圧倒的な魅了され具合でもあったと思うので、  できればこの記事なんか読まずにさっさと観に行ってほしいのですが、  そういうわけにもいかないと思うので、この映画の魅力をなるべく熱く語っていきます。    ところで、皆さん、最近のポケモン映画、観てますか。  私自身(現在大学生)は、DP後期~BWあたりで一時期ポケモン映画から離れていたのですが、最近は小学生の弟の保護者として、ここ3年のXY映画を全部映画館で観ています。  そして、一昨年の『ディアンシー』、昨年の『フーパ』を観た後に抱いた感想は同じでした。  「出来が悪いわけではないけど、子ども向けすぎて退屈だった」  あえて辛口に言えば「子どもが楽しめる」ことに特化していて、設定のディティールやストーリーの完成度は二の次、とにかく派手なシーンを見せるための、予定調和で「先が読めてしまう」映画。  もちろん、ポケモンアニメのメインターゲットは子どもですから、そこに向けて作るのは当たり前だし、子どもでなくても、こういう難しいことを考えずに観られる映画が好きな人だってたくさんいると思う。別に悪いことじゃない。  しかし、私はここ数年、『シュガー・ラッシュ』『アナと雪の女王』『ズートピア』を映画館で観て、「子ども向けのエンタメと大人向けのストーリーの両立」を見事に成し遂げるディズニー映画にどっぷりハマっていただけに、  ポケモン映画もこういう作りにならないのだろうか? という歯痒さを感じていました。  子どもも大人も楽しめる、ディズニーのような映画をポケモンは作れないのか。というか、原作ゲームではポケモン/任天堂が散々やってる領域なのに映画はどうしてできないのか。    で、今年。正直、GWに観たズートピアがこの手の映画として最強すぎたこともあって、  「まあポケモンはいつも通りのストーリーなんだろうな」と、あんまり期待せずに観に行きました。  しかし。  中盤あたりで胸の中にじわじわと広がっていく、「あれ、今年、面白いのでは……?」という感覚。  ストーリーの粗も、演出の無理やりさも、全然見えてこない。  ただただキャラクターたちの魅力とストーリーの盛り上がりに心を掴まれる。  そしてその勢いを維持したままの見事なクライマックス。  CMで「この夏最大の感動!」って毎年言われる割にポケモン映画で感動したことはあんまりなかったのですが、今年は本当に感動しました。まさかポケモン映画で泣きそうになるとは……。  ストーリーも最後の最後まで展開が読めなくて、ずっとドキドキしながら追いかけることができました。  断言します。今年のポケモン映画は、「子どもも大人も、ポケモンファンでなくても楽しめるポケモン映画」です。    だからこそ、「この映画をいろんな人に知ってほしい」と思うのです。  私が観に行った時はうちの家族4人で貸し切りでした。ヤバい。  この手のシリーズ作品は常に前作の評価を引き継ぐものなので、「去年までは退屈だったポケモン映画が今年突然アナ雪クラスの傑作になってるよ!」って言ってもオオカミ少年感あって絶対に信じてもらえないと思うけど、本当。マジ。  今年のポケモン映画は、去年までのポケモン映画が好きじゃなかった人こそ観るべき作品だし、  もっと言えばディズニー・ピクサー映画が好きな人が観るべき作品なのです。  今年の作品は、そういう人が見ないと「ポケモン映画にしては地味なストーリー」くらいの評価で埋もれてしまう可能性があるのです!それは良くない!    さて、ここまでの内容で観に行こうと思った方はこれ以降の文章は読まなくていいです。  しかし、まだ信用できないという方のために、  ここから『ボルケニオンと機巧のマギアナ』の具体的な魅力を解説していきます。    まず初めに断っておきますが、この記事は「ここ数年のポケモン映画が不満だった人の目線」です。  なので、ここ最近の映画……つまり『ケルディオ』『ディアンシー』『フーパ』が好きな人にとっては一部不快になる表現があるかもしれません。ご了承ください。  と、いうか、ここ3年のポケモン映画観て、それが大好きだったって人は、他の人からどうこう言われる前に観に行ってますよね。  そういう人を説得しても意味ないので、私は、ここ数年のポケモン映画が嫌いだった人/興味がなかった人を説得するためにこの記事を書いています。  

1. ストーリーが王道かつ丁寧

 今年の映画、あらすじを超簡単に言うと「悪い奴らから幻のポケモンを守る」というポケモン映画のド定番なんですけど、  そのストーリーにご都合主義的な展開が見られない。  サトシたちが事件に関わっていく理由、マギアナを守る理由、悪役たちの動機、悪役との何回かに分けての衝突。  その1つ1つに対してちゃんと納得できる理由付けと描写があり、ストーリーに説得力とリアリティを持たせることに成功しています。  子供向け映画(子供向けに限らないけど)を大人の薄汚れた目線で観ると、  「あ、今、物語の展開を都合よく転がすために偶然に頼ったな」とか、「あ、この悪役、今とどめ刺せるのに映画が終わっちゃうから手加減したな」みたいな野暮なことをついつい思ってしまう映画というのは結構多くて、  ポケモン映画でも前年の『フーパ』なんかは割とそういうポイントがありました。(というかフーパの能力があまりにもチートすぎた)  しかし今年の映画は違う。ストーリーの説得力があったし、突拍子のない展開もなかった。  その点で、大人が観ても十分満足できる映画に仕上がっています。  

2. 舞台と世界観が魅力的で住みたくなる

 今回の舞台は、ゼンマイ仕掛けの超カラクリ都市「アゾット王国」。  アゾット王国は、局所的に流行しているスチームパンクの雰囲気、というかもっと端的に言えばラピュタです。 アゾット王国  神秘科学の恩恵を受けて暮らす街。動く歩道があったりと、方向性としては『裂空の訪問者 デオキシス』のハイテク未来都市「ラルースシティ」に近い。  個人的に私は小学生の頃から「ああいう街に住んでみたいなあ」と思わせてくれるポケモン映画が大好きで、その点で『デオキシス』の ...

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