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au Pay、パラサイト など

スタバの話。いつもしてますね。  クリームフロートバレンシア、ジンジャーブレッドラテを失ってから、  「レギュラーメニューで毎日飲めるアイスドリンク探し」が人生の命題になっていた私ですが、ようやく安息の地を発見しました。  スターバックスラテ+ショット追加+バニラシロップです。  レギュラーメニューのスターバックスラテ、個人的にはあんまり好きじゃないのですが、苦みと甘さを足すことで良い感じになりました。  あとは「チャイティーラテに2ショット追加とライトシロップ」も割と良かったです。もはやチャイティーラテである必要性を感じないですが……。  あ、バレンタイン限定のフラペチーノはどれもおいしかったです。プラリネが一番好きでした。  ただ、ミルクティーフラペチーノとか期間限定で出す前に、普通のアイスミルクティーを置いてくれませんか、とは言いたい。  なんでブレックファストティーラテとかはホット限定でアイスはチャイティーラテしか選べないのか。  シンプルなアイスロイヤルミルクティーがないカフェ、スタバ以外に聞いたことがない。アイスティーにコンディメントバーでミルク足すのも何か違うし……。 --------------------  コロナウイルスが流行っています。  毎日ゴリゴリの満員電車で通勤しているので戦々恐々としていますが、だからといって休めないですよねー。  大雪とか台風とかだったらわかりますけど、1週間とかの単位で効かないどころか今後状況悪くなる一方なのに、ここで有給休暇使うわけがない……。自分が体調崩したら別ですが。  大流行したらさすがに会社自体がリモートワークになると思うので、それまでの間にかからなければいいなあ、あと周りの人もかからなければいいなあと、特にできることもないので祈ってます。もちろん流行しないならしないに越したことはないですが。  でも、改めて、都内の電車……東西線とか総武線とか山手線とか、あの混雑率のままで何年も毎日運行してるのは何らかの形で法的に罰を受けるべきだったんじゃないかと思うんですよね。  今回のコロナの対策として今からできることは特にないと思いますけど、そうじゃなくて、混雑率200%近いんだったら本数2倍にしなきゃダメだし、そのために運賃上げてでも工事とか投資とかしなきゃダメだったんじゃないの、っていう。ライブとかイベントで一時的にああなるならまだしも、あれが日常の光景になっていて見慣れてしまっているのが異常。病気とか関係なく。  こういう異常なことを1つ1つ取り上げて行ったらキリがないので全部ひとまとめに流れていってしまうことも含めてどんどん暗い気持ちになっていきますね。インターネット、情報が多すぎることでいろんなエネルギーが分散してしまって逆に何一つ変えられない世界になっているような気がしてならない。 --------------------  『パラサイト』観ました。話題の。アカデミー賞取った直後に。  元々観るつもり全くなかったし、人に誘われなかったらたぶん観てないし興味を持つこともなかったと思いますが、だからこそ前情報も完全にゼロの状態で観ることができました。ほんとにどんな映画なのか1ミリも知らなかった。  で……ネタバレ嫌な方は読み飛ばしてくださいね。  テーマとして格差社会、階級の固定化みたいなものがあって、それが各国で起きているからこそこの映画が世界的にヒットしたのだと思いますが、  選択の自由とか人生の可能性とか、または「努力したら報われる」みたいなことが、そもそも一定以上のお金があることを前提に成り立っているのに、それらが自己責任のように語られてしまう。  別に成功した人たちが頑張ってないとか努力してないとかそういうことではなくて、まして悪意があって意識的に弱者を痛めつけようとしているわけでもなくて、だからこそたちが悪い。  パラサイトで家族が行ったことってある種の「飛び道具的な階級変更」だと思うんですが、それが成功してしまうということは能力的に劣っているわけではなくて別のところに起因して階層が分けられているんですよね。あの家族はある意味で全員めちゃくちゃ仕事ができる優秀な人たちであったわけで、問題はその能力が正しく評価される環境がないことにある。  でもそれって例えば「学歴と実際に仕事は関係ないのだから大企業は高卒も中卒もちゃんと採るべき」みたいな話もそうなんですけど、「現実には企業側がわざわざ積極的にそのリスクを取るインセンティブがない」という、別に言うのは自由だけど言うだけでは変わらないシステムなので根深いなあと思います。  私自身、エンジニアとしては理系の大学とか全く出てなくて、たまたま親の知り合いが始めたベンチャー企業に入ってそこから今の会社に中途採用されるという、完全に飛び道具的なやり方で就職してるわけで、  もし何かが違っていたら……いや、別に結果論であって自分で言うことでもないですけど、「エンジニアとして普通の新卒よりも仕事ができるポテンシャルがあっても文系卒だから採用されない」みたいなことは全然あり得たし、今の会社にそういう判断で落とされてても文句は言えない肩書ではあったはずで。それって別に運が良かっただけだし、運が良かったことを理由に今の社会システムを肯定する気にはなかなかなれないなあと思います。  で、もう1つ言うと、そういう階級変更って必ず誰かの居場所を奪って果たされるんですよね。これはもうどうしようもないことではあるのでしょうが。  主人公家族が仕事を手に入れるたびに元いた人たちを追い出していく。でも、自分(または家族)と他人の幸せを天秤にかけて自分の幸せを取りに行くその行為を肯定してしまうと、結局大きな枠組みとしての格差社会の肯定にもなってしまう。個人としてそれを責められないからこそ政治がちゃんとやらなきゃいけないんでしょうけど、まあ……。  というのが映画のテーマに関連して考えたことで、じゃあ映画自体はどうだったかというともう怖すぎて観るのが辛かったです。  自分の一番苦手なタイプの映画。たぶんテレビとかNetflixで観始めたら5分で消してる。別に観なければ良かったとまでは思いませんが……。グロとホラーがほんとに苦手なのでしんどかったです。  R-15であることすら全く知らずに観た私も悪いのですが、ああいう展開があることを知らせてしまうこと自体がネタバレになってしまう作品だと「嫌なら見るな」が通じないという、ある意味でゾーニングの限界を感じますね。  あと、こういう映画を観るとやっぱり実在する社会問題を下地にエンターテインメントにしてしまうことの功罪を考えてしまいました。  結局あの映画って、出発点として(おそらく)韓国で普通に存在する貧困層のリアルを描いているはずなのに、終盤にかけて衝撃的な展開が続いていく、それは確かに映画としては正しいのだけど、  結果的にストーリー全体をあり得ないこと、観客に対して「自分が今生きている世界とは関係のない話」として処理させてしまう効果を持ってしまうのではないかと。そう受け取る人が少なければ問題ないのかもしれませんが。  『シンゴジラ』を観た時も似たようなことを思って、あれも3.11のモチーフを織り込みながら最終的に都合の良い結末に結びつけてエンタメにしてしまったことで、あの一連の事象そのものを美化してしまうような作品だったので観た後に嫌悪感があったのですが。  それだったら自分は完全なフィクションから出発して「でも自分がいる世界と無関係な話ではないな」と思わせてくれる作品の方が好きだなあと。要するに『ズートピア』のことです。社会を変えることに寄与するのはどちらかといえば後者の方じゃないかと思ってはいるのですが、実際どうかはわかりません。どちらも同等に無力だという話かもしれません。 --------------------  au payの20%還元キャンペーン。  コロナとかの話題で完全に押し流されている気がするのが勿体ないし、話題にならない割にしっかり初日で終わってるところを見ると、もうあのやり方自体が飽きられてるというか、アーリーアダプターに消費し尽くされるだけで効果が薄いような気も……。  au payはそんなことより決済可能な店舗を全力で増やさないとどうにもならないと思うんですけどね。  出遅れてたから仕方ないとはいえ、「PayPay・LINE Pay・メルペイ・楽天ペイ・d払いが使えます」みたいな、一通り揃ってる雰囲気のお店でことごとくau payが使えないのが辛い……。  あとオープンサービス化で広く還元してauユーザー以外にも使ってほしいのはわかりますけど、その原資はどう考えてもauという会社から出てるわけで、もう少しauユーザーに還元してほしい……。  PayPayがYahoo!プレミアムユーザーとソフトバンクユーザーを贔屓しまくってるのを見て、「きっとauもキャリア使っていてau walletゴールドカードとauスマートパスプレミアムに入っておけばガンガン優遇してくれるだろう」と信じていたのに、いつになってもその気配がない。  せめて次回からの20%還元でPayPayのように「現金またはau walletからのチャージに限る」みたいなことをやってくれれば留飲が下がるのですが……。  そうは言いつつ、PayPayと違ってクレカからのチャージでもポイント貯まるし、死んでしまったKyashよりは還元率が(スマートパスプレミアム会員向けの1%増量込みで)高いので積極的に使ってはいますが。  あとauに望むこととしてはオンラインショップをもう少しまともなものにしてほしい。au wallet marketとau wowmaは何が違うのかわからないし、auオンラインショップは別にあるし、ポイントで交換できるau STAR ギフトセレクションまであるし、一体何がしたいのか……。  Wowmaもauユーザー向けの還元とか結構やってるので、ちゃんと活用すればたぶん得だと思うんですが、Amazonに慣れているとやっぱり「送料が一定でない」「販売元と運営元が違う」「検索した時に同じ商品が違う価格で何個も出てくる」という時点で警戒してしまうんですよね。だから楽天の今の動きも合理的ではあるんでしょうけど。  そういう意味でせめてauオンラインショップと一体化して、スマホ・タブレット関連グッズだけでもau公式として売ってくれれば利用するのになー……という感じ。  なんだかんだで格安SIMに変えようとまでは行ってないのですが、とはいえもうちょっと満足度上がれば気持ちよく契約更新できるのにな、と思います。別にどっちにしろ転出しない養分が多いから変わらないのだと言われたらそれまでですけど。 ...

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映画・音楽・小説の感想 5年前

『若おかみは小学生!』感想。「誰も傷つけない”のに”面白い」という新しい王道

前書き

 映画『若おかみは小学生!』を観た。  新海誠監督をはじめとして各方面から大絶賛されているこの映画。 http://twitter.com/shinkaimakoto/status/1043917476608626688  ストーリー、キャラクター、美術、音楽、どこを取っても魅力に満ちていて、過不足なく、子ども向けアニメ映画の新たな傑作であることを疑う余地はない。  ただ、そのクオリティの高さについてここで私が書く意味は、正直ないだろう。  それで観に行こうと決める人は、もうとっくに観に行っているはずだし、既に観に行った人であれば、もう散々その手の語りは見飽きていることだろう。  そこでこの記事では、この映画のウェルメイドな部分ではなく、いかに「新しい」かということにフォーカスしたい。  言い換えれば、「王道映画」「ポスト宮崎駿」と聞いて、興味を持つどころかむしろ観る気をなくした層に向けた感想。  なぜなら私も、「ポスト宮崎駿」という持ち上げられ方を目にして観に行くことを躊躇った側だからだ。    なお、この記事でストーリー上のネタバレはなるべく避けているが、テーマにはかなり言及しているので、できれば観に行ってから読んでほしい。  

あらすじ

小学6年生の女の子おっこは交通事故で両親を亡くし、祖母の経営する旅館「春の屋」に引き取られる。旅館に古くから住み着いているユーレイ少年のウリ坊や、転校先の同級生でライバル旅館の跡取り娘・真月らと知り合ったおっこは、ひょんなことから春の屋の若おかみの修行を始めることに。失敗の連続に落ち込むおっこだったが、不思議な仲間たちに支えられながら、次々とやって来る個性的なお客様をもてなそうと奮闘するうちに、少しずつ成長していく。 若おかみは小学生! : 作品情報 - 映画.com
https://www.youtube.com/watch?v=AtUJn7Lp6Yc  

「悪役」がいない、全ての人間が肯定される世界

 この映画の一番の魅力であり革新は、何と言ってもこの1点に集約される。  この映画には「悪人」がいない。  そして同時に、変わった人や未熟な人であっても、その個性を誰かが否定するようなシーンは決して描かれない。    両親を失ったおっこが引き取られた旅館・春の屋で働く人たちの中に、おっこに厳しくあたるような人はいない。  全員がおっこを可愛がってくれるし、おっこに対して責任を押し付けたりするようなシーンもない。  ライバルポジションの「ピンふり」こと真月も、「春の屋のライバルである豪華旅館の跡取り娘」という設定から想起される、いわゆる「嫌ないじめっ子」のイメージとはかけ離れたキャラクター像で描かれる。自分の旅館と周りの街を盛り上げるべく努力している。  全てのキャラクターが自分の信念を持って生きている。あらゆる言動には理由があり、それは決して他人を陥れるためのものではない。    例えば、「主人公が旅館の若女将に」という設定であれば、  「厳しい女将が主人公の一挙手一投足を叱る」「主人公が若おかみの過酷な仕事に耐えられなくなって逃げだしたくなる」などといったシーンが挿入されそうなものだが、そうなっていない。  もちろんお客様に対する接客の心の大切さ、みたいなものは出てくるが、例えば「時々敬語が抜けてしまう」「バランスを崩して転んでしまう」みたいな小学生らしいミスに対して、合理的でない伝統や礼儀作法を理由に細かく叱るシーンは、全くない。  それらのおっこの純真無垢なキュートさは、無礼や世間知らずといった欠点ではなく、あくまでおっこの持つ魅力として常に肯定され、それは旅館に対してもプラスに働く。  「自分で若女将を選んだんだから」みたいなことを言って追い詰めたりもしないし、おっこがお客様と喧嘩してしまうシーンでさえも、おっこのことを立場を理由に怒鳴りつけて、答えを強制することはしない。  そしておっこもまた、経緯は半ば成り行きであっても、若おかみの仕事を純粋に楽しんでいる。  

乗り越えるべきものは自分の中に

 倒すべき悪や乗り越えるべき壁が出てこない、ということが、平坦で盛り上がりに欠ける物語を意味すると考える人もいるかもしれないが、当然そんなことはない。  春の屋でおっこに訪れる出会いと別れは、その1つ1つに意味があり、おっこを成長させていく。それぞれのエピソードにはピンチとカタルシスがあって、もちろん物語としても面白い。  むしろあらゆる登場人物が敵意や悪意を他人に向けないことは、おっこが、乗り越えるべき自分の弱さを自力で発見していく物語であることを、より強固にしている。  自分の未熟さや失敗は、他者から責められたり追い詰められたりするのではなく、おっこ自身が自発的に気づく。  そして、他者から無暗に攻撃されないおっこもまた、他者を攻撃しない。  全員が優しい世界だからこそ、おっこも、そして観客もそうあるべきだということに説得力が生まれる。    それは他のキャラクターも同じだ。  真月もクラスで浮いてはいるが、周りの子を見下したりはしないし、よくあるライバルキャラクターのようにおっこの足を引っ張ったりしない。  同時にクラスメイトも真月を本気で嫌ったりしていない。努力家な部分はきちんと周囲から認められているし、奇抜な服装もそれを理由にいじめられたりはしない。  「何でもかんでも頑張らなきゃいけないって考え、僕、嫌いだね」と言っておっこを怒らせるあかねでさえも、その考えを改心するような何か酷い罰を受けたり、また明確に自分の考えを改めるシーンが出てくるわけではない。  おっこも、真月も、旅館に来る客も、誰も間違っていないし、だから誰も他人を責めない。誰かを否定する権利は誰にもない。  

王道を更新する映画

 「主人公が悪い奴に苦しめられるが、主人公が我慢できる/受け入れられるようになる(成長する)」  という物語は、映画に限らずあらゆるエンタメで用いられる王道だ。  いわゆるスポ根漫画なんかを想像してもらえたらわかりやすいと思うし、現実世界でもそういう「苦労人のサクセスストーリー」はもてはやされる。  だが私はこのテンプレをなぞる物語が大嫌いだ。  何故ならこのストーリーは、「悪いのは悪い奴の方」なのに「主人公が我慢することが正しい」というメッセージを打ち出してしまうからだ。    主人公に振りかかるあらゆる困難の原因は主人公自身にあると考えることを求めながら、主人公に困難を与える存在たちにはその自己犠牲が求められないという矛盾。  「社会にはどうしようもなく悪い奴がいて、その人たちが改心することは絶対にないから、主人公(観客)が我慢して一方的に不利益を被ろうね」という教訓は、  それがたとえ現代社会を生き抜くための現時点での最適解であったとしても、  フィクションが描く世界の在り方としてあまりにも後ろ向きで、絶望に満ちているし、  実は「善人と悪人はそもそも違う人種である(そして主人公や観客は善人である)」という、差別的で醜悪な考え方を無意識下で前提としている。  主人公は善人だから、悪人から悪意を向けられても慈愛の心で返すべき、という自己犠牲の強要。    例えばディズニー映画が『シュガー・ラッシュ』『ズートピア』といった近年の作品で、そのように善悪を二分する世界の見方に異を唱え、アップデートを目指していることに反して、  このストーリーモデルは(私にとっては残念なことに)現代日本で未だに強く支持される"王道パターン"だ。  しかし、この『若おかみは小学生!』という映画は、このパターンを、正面から明確に否定している。  だからこの映画は全く王道ではないと思う。少なくとも王道として一般的に想起されるストーリーとは全く異なるものになっているはずだ。    安易な悪役なんか出さなくても、面白い物語は作れる。  苦労や苦難、辛い経験をしなくても、人間は成長できる。  それは現実世界で例えるなら、「青春を捨てて部活に励まないと生徒は成長できない」「炎天下の甲子園で野球をしている姿でないと観客は感動できない」と(自覚的でないとしても)主張して高校野球やその他の懲罰的な学校活動を擁護する大人たちとは明らかに一線を画しているし、  子どもが夢見るフィクションの世界だからこそ、子どもにある種の「呪い」を押し付けるような作品には絶対にしない、という、作り手の強いこだわりを感じられる。    この映画が「ポスト宮崎駿」だというのも、正直あり得ないと思う。  価値観が大きく多様化し、「こうすれば正解」という万人に当てはまるモデルケースが存在しない、  人生における幸せの形も成功の定義も、そこへ続く道も、一人ひとりが違う方法で探さなくてはならなくなった、  新しい時代の子どもに向けた映画としてこの作品はあり、  「自己を犠牲にして我慢し続ければいつか報われる」などという古臭い道徳を押し付けるこれまでの王道をはっきり否定し、アップデートしている。  

理想の自分を支える"信仰"

 その世界に暮らす全員が、他者に敵意を向けないからこそ、それぞれが、他者からの強制ではない形で自分の中の弱さに向き合う世界。  では、その前提が崩れた時、つまり、誰かが明確に他者を傷つけたことで、傷つけられた人もまた外の世界に対して敵意を向けてしまう、その連鎖を止めるのは何か?    他者を許す、他者を受け入れるという行為は、人間にとってそう簡単にできるものではなく、誰もが自分の力でそれを乗り越えることは難しい。  そして、それを他の誰かが助けるのも難しい。  女将だろうと親だろうと教師だろうと、その誰もが一人の人間で、感情を持っていて、だから説得力がない。何かを棚上げし、自分の弱さを取り繕って嘘をつかないと、他者に怒りの感情を否定することができない。  だからこの映画は、おっこのそういった怒りや悲しみや恐怖を、直接否定し、無理に乗り越えさせようとする人物が出てこない。みんながおっこの感情に寄り添おうとし、それでもおっこは常に自分自身の決断としてそれを乗り越えていく。  劇中の最後の客との関わりの中で、その強さが、それでも限界を迎えてしまう、その時におっこを支えるのが「信仰」だ。
花の湯温泉のお湯は、誰も拒まない。すべてを受け入れて、癒してくれるんだって
 映画を観た人であれば理解できるだろうが、  この一見するとただの言い伝え、迷信のように思える言葉が、おっこの精神的な支えとなる。  それはまるで(日本でよく使われる批判的な意味ではなく、正しい意味での)宗教、信仰だ。  
監督: 高坂希太郎氏コメント (前略) この映画の要諦は「自分探し」という、自我が肥大化した挙句の迷妄期の話では無く、その先にある「滅私」或いは仏教の「人の形成は五蘊の関係性に依る」、マルクスの言う「上部構造は(人の意識)は下部構造(その時の社会)が創る」を如何に描くかにある。 キャスト・スタッフコメント|映画「若おかみは小学生!」公式サイト
 より善く生きていこうとする強さを持った人に、最後の最後で拠り所にできるものがあること、信仰、倫理、宗教、それらの意味はここにあるのではないか。     ...

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映画・音楽・小説の感想 5年前

映画『勝手にふるえてろ』感想──自意識過剰な自己否定を肯定する物語

映画『勝手にふるえてろ』を観ました。2018年の初映画。

   元々原作読者というわけではなく、公開前はどんな映画かすら知りませんでしたが、  このような絶賛を目にして、その内容もいわゆる非リア的価値観にフォーカスしたものだと知って、とても観てみたくなりました。  卒論初稿提出までは何とか気持ちを抑えつつ、提出翌日にレイトショーで観に行き、そして、この映画の素晴らしさに震えました。  この映画を観て何を感じたかということを、個人的なメモとして書いていきます。  
あらすじ:初恋相手のイチを忘れられない24歳の会社員ヨシカ(松岡茉優)は、ある日職場の同期のニから交際を申し込まれる。人生初の告白に舞い上がるも、暑苦しいニとの関係に気乗りしないヨシカは、同窓会を計画し片思いの相手イチと再会。脳内の片思いと、現実の恋愛とのはざまで悩むヨシカは……。 映画『勝手にふるえてろ』 - シネマトゥデイ
 

前置き

 前提として私は非リア女子ではなく22歳男子なので、おそらくこの映画が描いていることの全てを正しく受け止められていないと思うし、  今から書くことはそんな映画を自分と接続させた感想なので、それが「男女問わず普遍的に当てはまること」であればいいけれど、「女子向けのメッセージを無理に男性目線で捻じ曲げている」可能性も十分あり、その2つを私には区別できないので、引っ掛かったらスルーするかコメントで指摘してください。  

新しい「非リア」像の構築

 とにかく松岡茉優の非リア演技が完璧すぎる。公式やインタビューでは「オタク女子」「サブカル女子」と表現されているが、それはこの映画で描かれている像を正しく捉えていないので、  この記事ではもう少し広く括るために「非リア」という表現を使う。そもそも私は女子ではないし。    あまりにも完璧すぎて、まるで私は松岡茉優なんじゃないか? とたびたび錯覚させられてしまうほどの圧倒的なリアリティ。  それは「もし自分がこんなに可愛い女の子に生まれていたら」みたいな話では決してないし、そして、こんな可愛い女優が非リアを演じるのはおかしい、みたいなことも起きていない。  だって、非リアとかいじめられっ子にも可愛い子なんてたくさんいるし、逆に学校内ヒエラルキーの上位にいる女子が可愛くないということも全然ある。  だからビジュアルの話じゃない。「この性格でこの言動だったら、例え美人だったとしてもクラスでも浮くだろうな」という説得力がある。

本物の非リアは飲み会に出る

 同時に、それ以前の脚本・演出レベルでも「ステレオタイプ的な非リア像の否定」が行われている。  まず、SNSを馬鹿にしている。「誰にも求められていない言葉をネットに吐き出して恥ずかしくないんですか」と見下している。  これは声を大にして言いたい、SNSでわーきゃー騒ぎながらガチャの爆死スクショを貼ったりPeingでボケてみたり、という人たちは、非リアではなくリア充オタクだ。  インターネットが暗い人間のためのものだった、なんていうのは10年前の話。それはヨシカが、Facebookらしき実名制SNSに登録さえしていなかったことからも明らかだ。  もはや現実社会とネットの二項対立なんて存在しない。人間の集まるコミュニティに馴染める人と馴染めない人の二通りが存在するだけ。    さらに言えば、「飲み会には出る」「友達はいる」という点も新鮮に感じた。  一般的なイメージであれば飲み会を断る素振りを見せそうなものだが、わざわざ飲み会を断れるのはその時点で自分の軸をしっかり持ったコミュニケーション強者なわけで、  真のコミュ障は誘われたら断れずに場違いに出席してしまって愛想笑い。もっと言えばトイレに立つことすらできずに端の席でスマホ(1)私の3ヶ月前の実体験です。  そんなヨシカの使うスマホはAndroid。背面に電源ボタン。ダサい。  結局iPhoneの高校生所持率が高いのも、周りから馬鹿にされない、コミュニティで変に浮かないために持つからであって、それを気にしないオタクの方がAndroid率高いはずなのだ。iPhone + Macbookでドヤ顔しているのもその時点で勝ち組でしかない。  これら一つ一つが、単なるステレオタイプやイメージに頼っていない、きちんと現実に存在する人たちの方を向いている映画であることを証明している。  

「陰キャ」という言葉が示す次世代スクールカースト

 ちょっと『勝手にふるえてろ』から離れた余談になるが、  オタク=ダサい、みたいな価値観を一応でも持っているのはたぶん今の20代までで、現代の中高生にはおそらくそういう感覚すらないと思う。    今の中高生はみんなスマホを持っていて、Twitterを使っていて、まとめブログも見ている。ソシャゲを遊んで深夜アニメを観ているのも少数派ではない。  それはもちろん2010年代に起きたゲームやアニメの地位向上の結果だから良い変化ではあるのだけど、ともかく今の時代は「オタク」はもはや侮蔑にならないし、  だから今は、「陰キャ・陽キャ」という言葉が新たに使われ出している。この新しい区分はつまり、  「陽キャは深夜アニメ観ててもデレステ遊んでてもTwitterでなんJ語使っててもキモくないけど、陰キャはサッカーやってようが恋人がいようがキモい」時代になったということ。  後天的に手に入る属性ではなく、先天的に性格(character)が陰。暗いやつは何をしてても暗い。    だからこの映画は主に20代・30代のための映画だ。それこそ今のヨシカと同い年の、大学生か社会人なりたての人たち。  ひょっとしたら今の中高生はこの映画を見ても「タモリ倶楽部」というワードでピンと来ないのではないか(2)そもそも「タモリ=昼の顔」というイメージも昔の話だから、タモリ倶楽部の相対的なサブカル感は薄れているのではないか。  

理由があれば行動的にもなれる

 ヨシカの暗い部分に過剰な感情移入をしてしまうと、逆に後半の同窓会を企画するあたりからの行動力に若干引いてしまう人もいるかもしれないが、  これも考えれば納得がいく。  ヨシカは単純な行動を取ったり恋愛願望の強い周りの人間を「本能に流される野蛮な人間」だと蔑んでいる。  これはつまりヨシカが、事前にあれこれ考えてからでないと動けないタイプだということを示しているが、それと頭が良いことはイコールではない。  よって周りからは「よくこんな大胆なことできるな、馬鹿じゃないかな」と思いそうな行動でも、本人の中できちんとした理由付けがされていれば行動できてしまう。  それが顕著に出ていたのが、実名SNSに別のクラスメートを騙ったアカウントを作って同窓会を開く一連の流れだが、あの行動には、「最悪バレてもアカウントごと消せば自分だとはバレない」っていう心理的なセーフティーネットがあったはずだ。  俯瞰的に世界を見ているつもりの人間にとって、最悪のケースでも致命傷にならない、というのは重要なことだ。  だから、「ボヤ騒ぎを起こして死にかけてから、このまま死ぬよりは何とか今のイチに会いたい」という理由付けが必要だった。このまま会えずに死ぬのが最悪のケースだから、行動した結果で何が起きてもそれよりはマシだ、という、自分を納得させる理由。  それは言い換えれば、野蛮な自分の欲望を理性的な自分に呑ませる論理。それは野蛮な自分の欲望を元にした結論ありきの論理なので、往々にして間違っているが、本人は頭が良くないので気づかない。  私自身にもそういう経験があるので(3)現在別の彼氏がいる元カノに告白したことがあります。その顛末を書いた記事⇒同窓会と成人式と伏線回収、だからヨシカがああいう行動をしたのも腑に落ちた。  

自己否定は自意識過剰の裏返しである

 物語の後半で明かされる、いろいろな話を聞いてもらっていた話し相手が、実は全てヨシカの脳内会話で、実際は話したことがなかった。  正直この展開は割と早い段階で読めた(4)この種明かしシーンを観ながら、実はアパートの隣のオカリナさんや来留美との会話も全部妄想だった……という更なる展開を一瞬予想して怖くなったが、さすがにそこまでホラーではなかった。ヨシカのような人間に、バスで隣り合った相手に話しかけるなんてできるわけがない。  ヨシカが欲しがっているのは自分の想定通りの返答をしてくれる相手だ、という、上の理論先行型な性格とも通底していると思う。  自分の考えが世界で一番正しいと思っているので、自分のシミュレーションの通りに動かない他人は間違っている。だからイライラする。    ヨシカの性格は、自己評価が高すぎる、自己評価が高すぎることを自覚しているがプライドを捨てられないという捻じくれすぎた自意識を体現している。それを「自己評価が低い」と「自意識過剰」のどちらかに分類することしかできていなかった旧来の映画にノーを突き付けたから、この映画が、松岡茉優が、新たな代弁者としてもてはやされているのだと思う。 ...

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ひとりごと 6年前

モアナ

を観てきました。    元々ディズニー映画は大好きだし、特にズートピアが良すぎたのでまあせっかくだし観に行くかー。と。  暇だったし。……いや暇ではなかったけど。というか大学でやってる就活イベントに行こうと思ってたけど起きるのが遅くて止めた結果です。  ガッツリレビューするほどの熱量はないので箇条書きでざっと。  一応ネタバレ注意。一応でもないな。割とネタバレしてます。 --------------------  ・とりあえず海が綺麗。アナ雪の雪・氷の表現もヤバかったけど、今回は水。    ・ミュージカル文化がないので「なんでここで歌うんだよ」と思わずにはいられないけど、まあ突っ込むのは無粋。    ・ストーリー的には最近のディズニーの王道。  「主人公が理解のない大人たちの反対を押し切って冒険に出る、その最中で同じように孤独なバディと通じ合う、協力してピンチを乗り越える、冒険の手柄を持ち帰って大人たちもニッコリ」というやつ。  さすがにモアナがバッドエンドになるかもしれないと疑ってる人はいないと思うから、この程度はネタバレじゃないはず。  あらすじとか設定は全然違うけど最終的に伝わってくるメッセージは『シュガーラッシュ』と被った。というか、『シュガーラッシュ』と『アナ雪』を足して2で割ったもの……みたいな感じがしました。

 こんな感じ。  シュガーラッシュから伏線回収芸を減らして代わりにミュージカルパートを突っ込んだ、みたいな印象。たぶん『シュガーラッシュ』『ズートピア』に比べるとだいぶ深く考えずに楽しめる作品になってると思いますが、それがディズニーの狙い通りなのかは微妙なところ。    ・ところで、上のあらすじ、「リスクに見合った手柄をあげられなければ人は自由になれないのか」という問題がありますよね。  もちろん、そりゃそうだろうと言われたらその通りで、ルールを逸脱するからにはそれなりの覚悟を持てよという話ではあるのですが。  全ては結果論というか、間違ったルールを押し付けてくる相手にそのルールの間違いを認めさせる方法はルールを破って成功することしかないんだなあという……。ルールが正しいかどうかと、ルールを守って正しい結果が得られるかどうかは必ずしも一致しないと思うのですが。  例えば……そうですね、トランプが移民を規制する法律を出して、それで犯罪率が逆に上昇したとしたら、その法律は撤回されると思うのですが、撤回される理由は犯罪率が上昇したからであってはならないんじゃないか、みたいな……。いや、なんか違う気がする。    ・そういう意味でも「夢が破れた後」「夢が叶ったけど思っていたものと違った後」を一時的とはいえ描いた『ズートピア』はやっぱりすごい。 -------------------- (※ここから特に結末部分のネタバレ)  ・今回の『モアナと伝説の海』はラブストーリーではありません。最後まで恋愛関係にはなりません。  ラブロマンスでないディズニー映画! っていうのも、確かに目新しいのかもしれないけど、ここ最近ディズニー映画好きになった身からするとむしろラブロマンスのディズニー映画を全然観てないので特に思うこともないという……。  そこがピックアップされることが逆にジェンダーの差を顕著に示している感がなくもない。だって、男性主人公で恋愛がない映画なんて別に珍しくないじゃないですか。……たぶん。    ・恋愛がないからつまらない、というわけでは全くないのだけど、平和な日常→危険な冒険→もっと平和な日常(≒幸せな家庭)というのが物語の構成として綺麗すぎるので、モアナの場合はエンディングの消化不良感みたいなものはあったかもしれない。  結局、モアナの夢というか根底にあるのが「島を救いたい」よりも「海に出て冒険したい」だから、冒険後にその日常で満足できるのか? みたいな不安はあるかも。そのへんもう少しちゃんと描いてほしかったかなあ……。 --------------------  全体的にいうと面白かったです。ただまあ、上で引用したツイートの通りで、ミュージカル部分の存在がメッセージ性とかストーリーと相殺し合ってて魅力が半減……とまではいかないけど、『シュガーラッシュ』『ズートピア』ほどは好きになれなかったです。  あと、やっぱり吹替版じゃなくて字幕版観に行くべきだったなーと思いました。特に歌部分になると口の動きとも曲のリズムとも若干噛み合わなくなるので。 ...

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映画・音楽・小説の感想 7年前

『何者』感想(というよりも単なる自分自身の話)

映画『何者』観てきました。何気に公開初日。  米津さん主題歌に釣られたのと、夏あたりから何度も予告編観て気になってたのと、就活というタイムリーなネタだったのと、あと『ご本、出しときますね?』で朝井リョウさんのことを知っていたのと、いろいろ。    予告編くらいしか観ていないので、6人の男女が就活対策本部を設置してどうのこうの、みたいなことしか知りませんでしたが、めちゃ面白かったです。中高生とか30代以降とかが観て面白いかはわかりませんが、少なくとも大学3年の今の時期に観るとものすごく刺さります。  それにしても、公開時期が本当に絶妙。現4年はたぶんだいたい就活終わってて、現3年はまだ本格的には始まっていない、というこの時期じゃないとメイン客層の半分を取り逃がすのだろうなという感じ。  とりあえず大学生はマストで観に行くべき映画だと思います。就活対策としても3%くらいは役に立つ。合同会社説明会ちゃんと行かなきゃなって思いました。  あと、「就活をめぐる恋愛・友情・裏切り」と言われても、裏切る相手も恋をする相手も全くいない現実があって辛い。    そもそも就活ネタという時点で心を抉られるであろうことは想像していたので、その覚悟はできていたのですが、  それに加えてツイッターネタでさらに深く心を抉られる準備はしていなかったので、結果ボロボロになりました。  映画を観た人、もしくは原作を読んでいた人ならわかってもらえると思うのですが、ツイッターで偉そうに他人の批判をしている私みたいな人間が観ると精神を壊される映画です。もちろんそれ以外の人も。  とりあえず小説は買おうと思います。Kindle版。  ここからネタバレありの話をしますが、正直なところこの記事は何者の話というよりそれを見て考えた自分の話、みたいなところあるので、あんまり映画のレビューとかは期待しないでください。逆にそういう話目当てにこのブログを読んでくれてる方がいるなら今すぐ何者を観に行ってそれから読んでください。  (※この先ネタバレあり)  『何者』についての感想を書こうと思っても、あまりにも主人公と自分の感覚が一致しすぎていて、自然と自己分析めいたことになってしまうことを避けられません。  というのも、このブログを前から読んでくださっている方ならご存知の通り、  私は先月、他人のことを偉そうに分析していたら本人から凸られていろんな人からdisられて精神的にボコボコにされるという自業自得な一件がありまして、それをきっかけにTwitterで他者の目に晒されることに耐えられなくなってTwitterを止めてブログに引きこもっているのですが、  まあ、そういうわけで、ラストのリカの発言がもう私自身のことを刺しているとしか思えなくて悶絶しました。  特に「自分大好きだからツイート非公開にしてないんでしょ」とか「どうせ時々自分のツイート読み返してるんでしょ」みたいな台詞の攻撃力が高すぎて。その通り私も自分大好きなので自分のツイートやブログ記事よく読み返してます。  安全なところで他者を分析したい、自分を棚上げして他者を値踏みしたい、という欲求はおそらく多くの人が持っているのではないかと思うし、その主な舞台としてかつては2ちゃんねるやブログであったものがTwitterだったりしているのでしょうけど、  その先に「誰か言っているかではなく何を言っているかだけを見てほしい」「リアルな人格とは切り離したネット上の人格として扱ってほしい」というのもあって、つまり「自分の一部分だけを切り取って別の自分にしたい」というか。  「他者や事象を的確に分析する人」として扱ってほしいのであって、「分析するような立場にないダサい現実の自分」は切り離したい。  なのだけど、自分に都合の良い要素だけを集めてもう1人の自分を構成することができるなら、同様に自分に都合の悪い要素だけ集めて構成されたものもやっぱり自分で、それを突きつけられるのが最後のシーンなのかなと。  私だってこのブログのことを、高校までの友人には知られているけど、大学の友人にはあんまり見せたくないなあと思いますし、当然企業の人事担当者なんかにはなおさら知られたくないし。    まあただ、先月Twitterやめて結構経ったから一周してぎりぎり致命傷にならずに済んだというか、リアルタイムにTwitterやってる頃とか、あの炎上でdisられた直後に観てたら死んでたと思います。  あれを観て改めてTwitterなんかやらない方がいいよなとも思いました。  とはいえ、Twitterでああいうことをしてしまう人格の悪さそれ自体が変わったわけでは全くないという意味で、主人公の行動原理が痛いほどわかって、やっぱり凄くきつかったのですが……。 --------------------  そもそも他人に対して何かを言うときってどうしても自分のことは棚上げせざるを得ないというか、その行為を「○○してるあなたに言われたくない」みたいな言い方で否定してしまうことはあらゆる話し合いを拒絶することだと思うのだけど、  不思議なことに、その言葉によって否定される人と否定されない人がいるように感じます。  例えば、そうですね……ワイドショーで芸能人が政治の話題にコメントすることに対して「ただのタレントが口を出すな」という批判があったら、「素人が意見して何が悪いのか?」と反論するだろうし、その反論は筋が通っていると思うのだけど、  私が政治の話題についてコメントして、それに対して「無知な大学生は黙ってろ」という批判があったら、それはとても的を射ている発言のように思えます。そして、前述の騒動で石左氏が私に対してしたことはまさしくそれなのですが。  両者のどこに違いがあるのかを考えた時に、実はそれは客観的な何かではなくて、「自分自身に対して開き直れているかどうか」という主観的な問題なのかなと。  つまり、私自身が現実の自分とネット上の自分の乖離について批判された時に、どこかで「確かにそうだな」と納得してしまう部分がある。自分がそういうことを言う立場にないという自覚がある。  そういうことに目を瞑って開き直り続けられている人もいます。  ただ、そもそも、他者の分析力が高い人間は、同時に自分自身の自己分析力も高いと思う。  だからこそ、客観的に自分を見た時に、自分が、卑しくて、ダサくて、何かを言う権利のない人間であることについて自覚があり、そこを突かれたくないと思っている。 --------------------  私は「意識高い系を見下す意識低い系」が嫌いなのですが、  そうやって周りのいろんなものを見下している私は一体何なのだろうと考えることがよくあって、  そういう意味ではまさに「全員のことを笑っている」主人公と完全に一致していて。    映画だけで主人公のキャラクターを完全に把握することはできないので、これは私自身の話ですけど、  何かに無謀に打ち込んでいる人のことを馬鹿にしていると同時に羨ましくも思っていて、すごく上から目線な言い方をあえてすれば、  「自分のダサさに自覚的にならずにいられる」ことが羨ましいなと。  それは、そういう人たちを馬鹿にしている人についても同様で、  他者のことが気になって仕方ないからこそ他者のことを分析したり批評したりするし、  他者の目をいつも気にしているからこそ、そういう目を気にせずに生きている人のこと全員が嫌いで、見ているだけで苛々して、それから逃れるために「あいつらは馬鹿だから周りの目が気にならないんだ」というポジションを取ろうとする、  でもそうやって逃げている自分自身のことももちろんちゃんと見えている。  もちろん、この分析にしたって私自身が他者のことを想像しているだけであって、実際には他の人もみんな自分自身のダサさに自覚を持った上でそれに抗って何かをしているという、その他者の目に勝てない私(のような人間)の弱さだけかもしれませんが……。 --------------------  これ以上クソみたいな自己分析続けてるともはや『何者』の感想でなくなるのでちょっと話題を変えて、  Twitterの使い方はほんと上手かったですね。主人公がTwitter見てるだけなのかと思いきや……というミスリードも含めて。  日本でどうしてこんなにTwitterが流行っているのか、流行るというよりもはやインフラとして根付いてる感じすらありますが、  現実世界があまりにも過去と紐づけされすぎているからこそ、そこから抜けられるように思える場所を求めているんでしょうか。    Twitterのタイムラインがどうして居心地の良い空間になるのか考えてみると、  140字という制限の中でTwitterにそれぞれの人が投稿するのは自分自身の感覚の不完全な形で、  その不完全な部分、欠けている部分、そのツイートの文脈を自分に都合よく解釈してしまえるからなのかな、と。  自分の嫌いな人や下に見ている人のツイートは、不完全な部分を悪い想像で埋めたり、もしくは埋めなかったりすることで、「こいつはこんなことも知らずに書いている」とか「このツイートにはこんな矛盾がある」みたいな受け取り方をしやすい。  その人の考えていること全てをたった140字で表現しているわけでは当然ないにもかかわらず。  少し前に話題になった貧困JKなんかまさにその1つで、「映画を観ている」「友達とランチに行っている」といった部分から想像できるそれ以外の生活や人格を、できる限りの悪意とともに補完されてしまったケースなのだろうと。  そういう「自分のフィルターを通して他者を見ている」ことについてサワ先輩が注意するわけですが、拓人がまだその言葉の真意を掴みかねているところに、リカという存在が、拓人に対して同じこと、ツイッターの発言から相手の全てを把握したような言い方をすることをやって見せる……。  拓人の裏アカの名前が『何者』というのも、  現実世界の自分と接続されない誰かでさえあれば誰でもいいから他の誰かになりたい、ということなのだろうなと。  ただ、自分ではない誰かを装ったネット上の人格は自分ではないのか? と考えると、やっぱりそれも違うというか、  「何者」アカウントのツイートがRTされて嬉しい、誰かが読んでくれて嬉しい、という感覚、自己承認欲求がそれによって満たされるのは、その人格も別の自分であるからに変わりないし、  ということはその別に作った人格だって誰かから叩かれたら(それが現実の自分と接続されていなかったとしても)辛くて苦しいに決まっているわけで、その意味でリアルだろうとネットだろうとどこのコミュニティだろうと、自分ではない誰かになんてなれないのだろうなと思います。  私なんてたまに2chに書き込んだ匿名レスを煽られただけでも傷ついてます。 --------------------  ところでこの記事、まだ就活の話をしていないわけですが、  正直就活は私自身がまだインターンシップいくつか応募して落ちただけの段階なので特に言えることもない……。  けど、インターンシップでさえも落とされた時のダメージはなかなか凄くて。  「就活に強い」は単なる1つの能力に過ぎない、というのは、終盤で光太郎が語っていることでもありますが、  一方で、「今までの人生の全てを上手く伝えてください」というオールマイティ感が、自分の全てを測る物差しに感じられてしまうのもまた事実だし、  「運動ができない・勉強ができない」は別にそれだけですべてが決まる物差しではなかったけれど、「就職ができない・仕事ができない」は確実にその人の欠陥として認識される(できない人があまりにも少ない)のが辛いなと思います。  そして、インターネット・SNSによって普通の人が普通の自分を発信できるようになったこと、「サイレントマジョリティーの可視化」がもたらしたものは、自由な世界ではなくむしろ逆で、普通であるべきだという同調圧力を強めているようにも思えます。不謹慎狩りとかもそう。  ……このあたりの「ネット/SNSに書かれていることももはや本音ではない」という話は、少し前に東浩紀さんとジェーン・スーさんが対談で語っていたこととだいたい同じなので、興味のある方は下の記事もどうぞ。 第2回 ネットは“第2の建前”を増やしただけだった<ジェーン・スー『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』×東浩紀『弱いつながり』刊行記念対談>ジェーン・スー/東浩紀-幻冬舎plus --------------------  あと、何者って聞くとどうしても輪るピングドラムの「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」を連想しちゃいますね。  このあたりは細かく考察というか解釈していくとキリがないのだけど、個の確立・識別は他との比較なしにはあり得ないわけで、  「就活せずに演劇で生きていく」という姿勢がアイデンティティになるのは「他の多くの人が就活を選択する」世界であるからこそで。  ただ、同時に結局「隣の芝生は青く見える」のと同じで、人間が自分を基準に世界を見ることしかできない以上、自分自身はどうあがいても「何者にもなれない」んだろうなとも。  自分を基準にした時の自分自身はあらゆるステータスがプラスマイナスゼロなので、自分の個性とか特徴とかアイデンティティとか、自分ではわからないですよね。だからこそそれを求められる就活で悩むのでしょうけど。そういうところで自分自身に嘘をつけない人は特に。  私自身、今までの大学生活なにやってたんだろう、これでよかったのだろうか、とか、思っちゃいますけど、でも客観的に見たら留学したりバイトしたりそれなりに充実した生活を送っていたはずで、これで現状に満足しないということはたぶん何をしてても同じだっただろうな、と。  まともにサークル入ったりしてたら楽しかったのかと言えば、そうではなかったからサークルを半年経たずに辞めたりしてるわけだし、クラスのコンパ的なアレも、参加していなかったからこそ参加していたifに夢を見るけどたぶん参加してても全然楽しくなかったんだろうなとも思うし。  「自分はまだ何者でもない」という感覚はたぶんずっと消えないままで、折り合いをつけて就活だったり就職だったりをしていくのだろうな、とぼんやり思っています。    とりとめのない感じになってきたのでこのあたりで切り上げます。  とりあえず小説買ってまたいろいろ考えようと思ってます。   ...

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映画・音楽・小説の感想 7年前

『シン・ゴジラ』を全く面白いと思わなかった感想

今さら感ありますが『シン・ゴジラ』観てきました。  えーと……まあ簡潔に言うと面白くはなかったです。    箇条書きで要旨をまとめると  ・画面作りが派手でロマンに溢れてるので、男の人が好きな感じはわかる。  ・ストーリーが予定調和すぎて退屈だった。  ・イデオロギー的な面で一切同意できない。  ・プロパガンダ的な側面があるので結構危険だと思った。    注意:この記事はネタバレを含みますが、ぶっちゃけこの映画はネタバレされても面白さにあまり影響を与えない類の映画なので、気にしなくても良いような気がします。『君の名は。』とかはネタバレ踏んだら面白さ半減ですが、これは大丈夫だと思います。 --------------------  ストーリー・プロットが面白いものだけが良い映画でないことは十分承知した上で、個人的にはストーリーが面白い作品が好きです。  ドキドキしながら見入ることができて、話に起伏があって、予想を裏切るどんでん返しがあって、終わった後にすっきりできる話が好きです。  要するに、『ズートピア』『君の名は。』が好きで『シンゴジラ』『ガルパン』が好きではないです。Twitterとか見た感じだとガルパン好きな人はシンゴジラも好きそうですよね。  なんというか、あらすじで予想できる筋書を全くはみ出ないというか、大枠では最初に提示された路線をただ進むだけというか。  ヤシオリ作戦が首尾よく成功して何のどんでん返しもなく終わるのにはびっくりしました。強いて言えば首相が死ぬあたりはサプライズなのだけど、その割にはあっさりしてたし。後半は本当に単調でした。前半もだけど。    つまり、「どうなったか」ではなく結果ではなく「どのように」という過程に重きを置く映画。  その意味では『ガルパン』に近いと思いますが、  ただ、その過程で描かれるのがガルパンみたいな「女の子がイチャイチャ」とかなら、まだそこを楽しむこともできますが、  そこで描かれるのが「日本すげー!自衛隊すげー!日本の底力すげー!」みたいなアピールばっかりなので、  もう全然共感できないし何も面白くなかったです。  あ、在来線爆弾とかあのへんの戦術は確かにロマンあってよかったですが……。    震災とのリンクについても、原発事故を想起させておいて「米軍に頼らなくても日本の現場の科学力と根性で自然災害に打ち勝てる!」みたいなのは、こう……見てて恥ずかしくなりました。  ちょうど今はノーベル賞も話題ですが、要するに「日本の科学力は世界一!」みたいなのってもう遠い昔なわけで、「でも本気を出sきて一致団結すれば……」とかいうニートの戯言みたいな幻想を見せられても寒いだけだし、  まあ、日本大好きな人にとってはそれでいいと思うんですけど、別に日本好きでもない私としては特にテンション上がらないし、  官公庁を舞台にして現実っぽさを前面に押し出しているだけに、余計にその「現実から目を背けたい感」で現実を捻じ曲げているのがちょっとなー、という感じ。  それならまだ、震災のifをファンタジーに求めた『君の名は。』の方が、フィクションとして割り切れて良いと思います。    あと、日本社会において、どんなに緊急事態になったとしても「厄介者・変わり者・オタクの集まり」にスポットが当たることはないと思う。まあ、そういうシチュにワクワクしたいのもわかるけれど。 --------------------  イデオロギー的なところが露骨に出てたのは、途中でチラッと映った国会前デモのシーン。  明らかに昨年夏のSEALDsを意識している感じでしたが、  あの「主義主張は聞こえづらくして、ただ煩く騒いでいるということをフィーチャーする」という見せ方はちょっと酷すぎですよね。  私はあそこで「ああ、なるほど、これは”国会前デモを見下していた人”が観ることを前提とした映画なのだな」と感じました。  「ああいう考え方も1つの回答だよね」という描き方ではなく、  「ああいう考え方は現実離れしている、ゴジラを倒そうと頑張っている人たちの邪魔をしている」という見方で固定してしまって、それを現実の左派と露骨にリンクさせたのは流石にやりすぎだろうと。  例えばそれを、劇中の人間が「うるさいな」とか言ったりしたら、それは劇中の主人公の感覚として(たとえ共感できなくても)処理できるのですが、  そういったフォローを全くしなかったことで、制作側の「わざわざ言うまでもなくこいつらがうるさい馬鹿だってみんな思うよね?」というステレオタイプ的な見方を観客が強いられてしまった。  それに共感できた方にとってはハッピーな映画だと思いました。それだけです。    それからもう1つ、これは序盤の発言ですが、  ゴジラの被害を楽観的に予測する首相に対して、矢口が  「先の戦争では楽観的な予測のせいで罪のない国民がたくさん亡くなったのだから、楽観的に考えるべきではない」  ということを言います。  これ、一瞬正しいことを言っているように見えますが、とんでもないプロパガンダですよね。  つまり、「先の戦争の反省」を「武力による先制攻撃」と接続している。  自衛隊の存在、集団的自衛権などを含む武力行使を、「先の戦争の反省を活かして、国民を守るために必要な行動だ」という解釈を行って、しかもそれを映画の主人公に語らせる。  そもそも太平洋戦争は、「このままだとABCD包囲網やら何やらでじわじわと物資不足で死ぬだけだから、自滅する前にアメリカに直接攻撃だ」と言って始まったわけで、  その前の日中戦争に繋がる満州国設立なども含めて、「日本国民を守るための行動」「日本の繁栄を維持するための行動」として行われていたわけです。  その結果がどうなったかはもちろんわかると思いますが、今回、ゴジラを倒す理屈に、よりによって戦前日本軍と同じ理念を持ち出しているわけで。  この文脈で矢口の発言を解釈すれば、「先の戦争でももっと念入りに準備をして早めにアメリカや中国を叩くべきだった」とも言うことができる。本人にそのような考え方があるか、ということではなく、そういう行動をも肯定し得る考え方である、という意味において。  先の戦争の反省をそんなところに持って行ってしまって、武力を肯定する材料に使ってしまっていいのか?  というのが引っ掛かりました。そして、その引っ掛かりは最後までそのままでした。 --------------------  その他、細かいところをあげるとキリがないのですが、とにかく、  『シン・ゴジラ』を個人的には全然面白いと思わなかったと同時に、  この映画がそれなりに受けているというのはちょっと怖いなと思いました。    とにかく「一般的な日本人が共有しているであろう文脈(コンテクスト)」を「共有していて当たり前だよね?」という顔で引っ張ってくるので、  その文脈を共有して疑問を抱かない人にとっては強烈に面白い映画なのかもしれませんが、  私には無理でしたし、楽しめる・楽しめない以前に、恐ろしいほどの同調圧力で息苦しさを覚えました。  特に大学の授業で社会的な文脈や背景を分析するような授業をたくさん受けていることもあって、生理的に全く受け付けず、モヤモヤが残るばかり。  この映画の何が面白いのか、誰かに説明してほしいくらいです。    ただ……、少し思ったのは、  強烈に嫌いな感情を呼び起こすというのも一つの魅力、というか。    『シン・ゴジラ』は今年見た中でぶっちぎりに一番嫌いな映画ではあるのですが、  そもそも、それなりにヒットしている映画を観て「嫌い」って思うことってあんまりないような気もするんですよ。「平凡」とか「つまらない」とかならまだしも。  だからこそ、嫌いな人も「つまらなかった」で終わらせることができない、という、ポジティブ・ネガティブを問わない拡散力の高さがヒットの1つの要因なのかなと思いました。  同時に、公開当初『シンゴジラ』を批判した人がネット民の方々によってボコボコに叩かれたりしていたのも、そういう強烈な分断を意図的に起こさせる映画だからで、それは確かに、白黒はっきりつけることが望まれる今の時代に合った映画でもあるのだろうと。    そういう意味では良くも悪くもパワーのある映画ではあると思いますし、  これがヒットするということは、それを支持する層が(そうでない層を切り捨てても問題ないほどに)無視できない規模になっているのだろうとも思うし、  同じように好き嫌いの分かれる監督を個性を丸める方向に持って行って万人に広く受け入れられた『君の名は。』が興行収入で抜いてくれたことは本当に良かったなと思います。 ...

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映画・音楽・小説の感想 7年前

映画『君の名は。』ネタバレ感想、またはファンタジーのリアリティについて

月曜日に「君の名は。」を観てきました。  平日の昼間なのにほぼ満席でビビった。  新海誠作品初鑑賞とかいうドニワカで、ちゃんとした考察ができるわけでもないので、簡単に思ったことだけ書いていきます。  簡単なのにネタバレします。タイトル通りネタバレ全開です。  この作品、ネタバレされると面白さが半減どころじゃないので、これから観る人は読まないでください。  いや、だいたいの映画がそうっちゃそうだけど、ガルパンとかアイマスとかズートピアとかは、あらすじわかってても面白い作品じゃないですか。ああいうのとは全然違うと思います。 -------------------- --------------------  そんなわけで前情報ほぼゼロで行ったし、新海誠作品の特徴とかも一切知らなかったので、  「たぶん入れ替わりラブコメなんだろうなー」「最後ちょっと泣けるヤツなんだろうなー」くらいに舐めて構えてまして、  なので完全にやられました。  観た人の評判がすこぶるよかったので面白いのだろうとは思ってましたが、想像の遥か上を行く面白さだった。  序盤ではいわゆる「入れ替わり作品のお約束」がツボを押さえつつも割と駆け足で消化されていったので、テンポの良さを楽しみながらも「こんなポンポン進むのか」とちょっと戸惑いました。いや、ちゃんとツボは押さえてたのですが。  そして中盤。  村が災害で壊滅していたことが明かされる例のシーンで、本当に全身鳥肌が立ちました。  完全に不意打ち。ぞわっとしました。  「実は三葉だけは死亡者リストに載っていない」的な流れを予想するも、それすら打ち砕かれる展開でさらに絶望……。    そこから終盤。再びの入れ替わり&時間遡行によって村を救う展開になるのですが、  正直ここまでくると「全員助かるなんて無理だろう……」という感じで、  三葉以外死ぬ展開とか、逆に三葉だけが逃げ遅れて犠牲になる展開とか、とにかく思いつく限りのバッドエンドを予想して、  最終的に一息つけたのは新聞の「死亡者数0」に書き換わった記事が映った時でした。    とはいえその後も「会えないんじゃないか」「お互いに思い出さないまますれ違って終わるんじゃないか」という不安がもぞもぞと蠢き、  その不安と緊張が最後の最後、階段で一旦すれ違うところまでずっと張り続けただけに、  最後の最後でちゃんと思い出した時は心からホッとしました。 --------------------  で、個人的にはすっかり満足したのですが、  一方で、あまり気に入らない人がいるというのもよくわかる映画になっていて。むしろ、これだけ大絶賛されてることに違和感あるくらい、賛否両論であるべき映画のような気もするんですよね。  ウェブ検索すると結構否定的な意見もあります。  新海誠「君の名は。」に抱く違和感 過去作の価値観を全否定している  これは感想というかニュースサイトに載ってる評論対談ですが。    で、まあ、設定に関しては擁護しきれない粗が多いのは事実というか、  少なくとも、登場人物みんなLINEやってるデジタル時代に、10日入れ替わって年号の違いに一度も気づかないというのは無理があるだろう、というのはわかります。  ただ、それでもこの作品に、少なくとも観ている最中くらいは観客を騙し切って泣かせるところまで行ける、という説得力を与えているのは、  「過去・現在・未来の自分の不連続性」を1つのテーマにしている作品だからで、そういう感覚を持ったことのある人であれば、割と違和感なくのめり込めたのではないかと思うのですよ。    つまり、「今あなたがいるのは2016年9月ですか?」と問われたら、自信をもって、YESと言える。時計を見ればいいし、新聞を買えばいいし、検索すればいいし、人に訊けばいいし、スマートフォンで「きょう」と入れて変換すればいい。  なのだけど、  「昨日あなたがいたのは2016年9月ですか?」と問われたら、ちょっと不安にならないですか。  そういえば、2016年だってはっきり確認した記憶はないような気がする。  そして、じゃあ、「昨日あなたは女子高生と入れ替わっていなかったと言い切れますか」と問われたら……  いや、昨日はさすがに無理があったとしても、「5年前にそういうことがあったけれど忘れている」と言われたら……  みたいな、記憶の曖昧さに揺さぶりをかける映画であるのではないかと。    「ついさっきまで覚えていた君の名を覚えていない」というのも、人によってはなんだそれ痴呆か?って思うのかもしれないけど、  「ついさっきの自分」と「今の自分」の不連続・断絶の話をしている、と考えると、納得がいくような気もして。    同じことが、地方と都会(東京)の距離の話にも言えて。  世界五分前仮説とかシュレディンガーの猫とか、それらしい実験はいろいろありますけど、  人は、「今」「目の前にあるもの」しか認識できなくて、あとは存在するかどうかなんてわからないんですよね。  自分の真後ろが真っ暗闇で、振り向いた瞬間に形作られて……というような妄想。  だから、実際に糸守が存在するかしないかも、わからない。あるかないかを断言できない。  日常の延長線上にあるかもしれない非日常。こういうのをローファンタジーとかエブリデイマジックとか言うんでしたっけ。  その日常と非日常の接続に必要な理屈を、ほぼ「記憶」だけでほとんどの観客に納得させたというのは凄いことじゃないかと思います。……まあ、一応神社とか神様とかもありましたけど。 --------------------  それに付随して、全体的にシチュエーションありきというか、ご都合主義的な展開が多かった、というのもわかるのですが。    あの作品の時間軸がどこにあるかといえば、最初と最後のシーン、つまり「8年後」から過去を見ていると考えるのが自然で、  つまり、「あのストーリーが成立したからこそ遡及的に語られる物語」なんですよね。  それは例えば、「ドラクエの勇者はなんで全員周りにスライムしかいない恵まれた環境に生まれるのか」の回答が「それ以外の街に生まれた勇者は旅立ってもすぐに死ぬから語られない」みたいな説と一緒で、  無数の並行世界がたくさんあって、その中にはひょっとしたら、入れ替わり3回目くらいで年号の違いに気づいて、わざわざ口噛み酒で2度目のトリップをするまでもなく一発で彗星災害を未然に防ぐルートだってあったかもしれない。  逆に、瀧が糸守を探しに行こうと考えるほどの執着を持たずに、あっさり忘れてしまうルートもあったかもしれない。  その中で、たまたま結果論としてああいう素敵なお話が生まれたから語られているのだ、という解釈をすると、すっと飲み込めるような気がします。 --------------------  あと、ハッピーエンドであるべきかどうか……というのは1つの問題で、  まあ私は過去の新海誠作品を観てないから何とも言えないんですが。  会えないまま終わる、最後の最後で階段ですれ違っても振り返らない、気づかない……みたいな切なさも、それはそれで綺麗な終わり方だと思います。  ただ……これは、もう好みの問題になると思うのですが、個人的には、  「物語の中盤ではいろいろなことが起きるけど、最終的にはハッピーエンドに収まる」方が好きなので、君の名はそういう終わり方でとても嬉しかったです。  というか、最後の、瀧が大学生になってからの、  テッシーやサヤちんに気づかない、名前も覚えていない、5年前の記憶さえ曖昧、階段でも一度気づかずにすれ違う……  という一連のシーンが、会えないエンドを暗示しまくっていて、  それだけ焦らしたんだから最後は会えてもいいんじゃない?という。  会えないパターンの覚悟はできてたし、そのパターンで終わった時の悲しみは十二分に想像してたので、もう実質両方味わったような気分というか……。 --------------------  あと、個人的に、物語でも現実でもなのですが、私が一番苦手な描写が、「取り返しのつかない失敗・二度と戻らない破壊」で。  そういう意味で糸守が災害で全滅、というのは、私の一番苦手な展開で、  それが何の前触れもなく訪れたので(予想できた人は予想してたのだと思いますが、私は少しも予想できてませんでした)、  その衝撃が大きすぎたというところがあります。  それに対してタイムループでなかったことにする……というのは、ご都合主義と言われたらそれまでですけど、  個人的にはやっぱりファンタジーでもいいからそういう夢の見せ方をしてくれて良かったなと思います。    単純に私が被災経験がないせいで、あの映画を観て「震災のメタファーだ」みたいなことを全く思わなかった、というのもあるのですけど。  あれを震災映画として観た時に、「過去に戻って震災自体起こらなかったことにする」という解決法が、どうなのか、というのは、別の観点で語られるべきものかな、と思います。  ただ、あの映画は根本的に「瀧と三葉のお話」という、いわゆる<セカイ系>で、災害の悲劇を未然に防ぐ、というのは、あくまで三葉を守る上での副次的な要素というか。もちろん、滝が「最悪、三葉以外は死んでもいい」とか思っていたとは思いませんが。    それと、災害がなくなったとはいっても、  糸守の人たちは家を失って、あの村の様子だとたぶん保険とかも入ってないし銀行もなかったんじゃないかって考えると、あの彗星災害の後の暮らしはたぶん相当苦しいものになったのでしょう。  テッシーなんて一生あの村で生きていくつもりだったのが、東京で結婚式挙げようとしてるっぽいし。    そういう負の部分をすっ飛ばしているのは、決して震災を美化しているからではなくて、やっぱり「瀧と三葉の物語だから」なのだと思いました。 --------------------  ところで、展開が不自然すぎ、みたいな突っ込みはだいたい一理あるなあと思うのですが、  「瀧と三葉がお互いを好きになった理由がよくわからなかった」という感想だけは「おいおい、マジかよ……」という驚きしかなくて目からウロコでした。  いやいや、ちょっと待て。  だって、あんな可愛い同年代の子が、あんな可愛い日記を書いてくれていて、しかも村のルールと人間関係で悩んでいて東京に憧れているっていう弱いところまで知ってしまって、不可抗力的に「頼る」「頼られる」という関係性を相互に持っちゃって、  そんなの好きにならない方がおかしいって、絶対。  うまく説明できないけど、今まで付き合ったこともなくて恋に飢えてる中高生なんか特に、運命を感じちゃったらその時点で好きになるものではないかと。  まあ他の人は知らないけど少なくとも私は瀧くんの立場なら確実に堕ちてる。そこはストーリーに何の違和感もないと思いました。    ちなみに小説版、Kindleだと今は半額セール中なんですよ。速攻で買いました。  あとAnother Sideも買いました。   ...

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アニメ・ゲームのこと 7年前

『ボルケニオンと機巧のマギアナ』におけるテーマ性の検証 – 嘘と偏見に向き合った”日本的ズートピア”

2016年のポケモン映画『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、  「ポケモン映画は薄っぺらい、中身がない、子ども向け」という従来の定説に反旗を覆すべく制作された映画だ。  それは、ストーリーが十分に面白く、そして感動的である、というだけにとどまらない。  信じられないかもしれないが、今年のポケモン映画は明らかにテーマ性とメッセージを帯びている。  では、果たしてこの映画は何を描き、何を伝えようとしたのか? ということを考えていきたい。    注)以下の内容は、『ボルケニオンと機巧のマギアナ』を既に視聴済みであることを前提にネタバレ込みで考察しています。  ストーリー部分の重要な結末は白文字に反転させており、それを読まなくても一応内容はわかるようになっていますが、それでもネタバレになってしまう部分が少なからずあるので、できれば一度映画を観てから読んでいただければと思います。  ネタバレのないレビューは先日書きましたこちらをどうぞ。  ・【感想】『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、ここ数年のポケモン映画への不満を解消した傑作  ・『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は例年の #ポケモン映画 とどう違うのか。そして、ポケモンはディズニーを目指すのか  また同時に、比較対象としてディズニー映画『ズートピア』についても触れています。こちらも重要なネタバレは避けていますが、なるべく情報を入れたくないという方はご注意ください。もうすぐBlu-rayが出るので未見の方はぜひ買いましょう。 -------------------- ボルケニオンの人間不信  この映画は、ボルケニオンとサトシが不思議な鎖で繋がれてしまい、離れられなくなるところから始まる。  ボルケニオンはマギアナを守ろうとするが、そのために手を貸そうとするサトシやセレナたちを一切信用しない。  その理由としてボルケニオンはこう答える。  「人間は信用ならねえ。人間は嘘をつくからだ」  これにはちゃんと根拠がある。ボルケニオンは、かつてトレーナーに捨てられるなどの辛い過去を持ったポケモンたちが集まって暮らすネーベル高原に数百年いて、しかもそのポケモンたちを捕まえて売り捌こうとするポケモンハンターから守り続けてきた。  人間のポケモンに対する酷い仕打ちを数えきれないほど目にしてきたボルケニオンが、人間の全てに対して憎悪と疑心を持つのは、当然のことだろう。  サトシたちのマギアナやその他のポケモンたちに対する好意的な態度を見ても、ボルケニオンはなかなかサトシたちを信用しない。  一方で、サトシたちも、ボルケニオンの「これ以上関わるな」という命令には、決して首を縦に振らない。  ピカチュウやサトシのポケモンたち、そしてもちろんサトシも、これに反論しようとする。  「人間はそんなやつらばっかりじゃない」「サトシは嘘をついたりしない」。  このサトシとボルケニオンの意見の相違……厳密に言えば、ボルケニオンのサトシたちに対する敵意が、氷解していくその過程は、この映画の1つの軸である。  「人間は嘘をつくから信用できない、仲良くしてはならない」というボルケニオンの主張は、実は複数の前提の上に成り立っている。 「嘘をつく人たちを信用してはいけない」  「嘘をつくのは悪いことである」  「人間は全員嘘をつく」  という3つの点だ。  このうち最初の2点はほとんど被っていて、「嘘をつく」「信じる」ことの是非・善悪についてだ。まずはその点を見ていく。  

信じることは悪いこと?

 嘘をつく相手を信用するのは悪いことなのか。  徹底的に他人を信用するサトシと、徹底的に他者(人間)を信用しないボルケニオンの対比はもちろん1つの軸だが、  実は、サトシ一行とは別の軸でこの問題を引き受けている人物がいる。  アゾット王国の王子・王女である、キミア・ラケル姉弟だ。  ラケルが「ジャービスを疑わない悪役」、キミアが「ジャービスを疑う味方役」と、2人は対照的な役回りになっている。  ジャービスという人物が徹底的に救いようのない悪役として最初から描かれているため、キミアが絶対的に正しいように見えるが、本当にそうなのか?  そこでキーとなるのが、途中、ジャービスの企みに気づいた後の、「改心したラケルの扱い」だった。  ラケルもいくら騙されていたとはいえ、ネーベル高原を強襲してポケモンたちを痛めつけるのを平然と眺めていたりとなかなか酷いことをしていて、そう簡単に許されていい人物でもない気がするが、  そのことを謝るラケルに対して、サトシの答えは、「ポケモンと旅に出てみたらいいよ」という一言。  この潔い対応に、サトシの他者に対する絶対的な信頼が集約されている。  

嘘をつくのは悪いこと?

 そもそも、「嘘をつく」というのは100%悪い行為なのか。  中盤に、こんなシーンがある。  ネーベル高原で、サトシとボルケニオンを縛り付けていた鎖を破壊するのをゴクリンが手伝ってくれる。  ところが、サトシが感謝の意を伝えるためにゴクリンを抱きしめると、ゴクリンは怯えて逃げ出す。  ボルケニオンは、「ゴクリンはトレーナーから捨てられた過去があり、捨てられる直前にトレーナーがゴクリンを抱きしめたことから、抱きしめられることにトラウマがある」ということをサトシに伝える。  そこからボルケニオンは「人間は嘘つきで、身勝手だ」という考えを改めて主張する……。  ボルケニオン含むネーベル高原のポケモンたちのトラウマの根深さを示す重要なシーン……なのだが、このエピソード、人間の目線で見直すと、ちょっとした引っ掛かりを覚えないだろうか。  人間の事情でポケモンを捨てるのは確かに身勝手だ。しかし、トレーナーが「ゴクリンを抱きしめてから逃がした」のは、「ゴクリンに嘘をついた」エピソードなのだろうか? 何か、もっと別の感情があったように思えないだろうか?  この時点で、ボルケニオンの考え方の偏りが垣間見える。  もちろん、そのトレーナーがどのような意図からその行為をしたかは定かではないが、  ボルケニオンは、「良い嘘と悪い嘘がある」という人間ならではの感性を理解できておらず、  「人間は嘘をつくから悪い」「ポケモンは嘘をつかないから善い」という単純な構図を信じていた。    そんなボルケニオンの視点のズレは、物語のラストシーンにおいて、見事に覆される。  (※以下ネタバレにつき反転)  ネーベル高原に墜落しようとする空中要塞から脱出する最中、ボルケニオンは「自分1人がここ(要塞の中心部)に残って内部から爆破させる」という提案をし、サトシたちから「それだとボルケニオンの命が危ない。脱出して外から爆破すればいい」と否定される。  それに一度は同意を示したが、ボルケニオンはサトシたちを要塞から追い出してから、1人で要塞の中央部に戻る。  サトシは爆発する空中要塞を見ながら、「嘘つき」だと小さく呟く。  (※ネタバレここまで)  ボルケニオンはサトシたちとネーベル高原のポケモンたちを確実に守るために、1つの嘘をついた。  ストーリーのクライマックスと、メッセージのクライマックスが完全に一致した、見事としか言いようのないシーンである。  そしてここで、「ポケモンは嘘をつかない」というボルケニオンの考えが、その本人の行動によって否定される。それは、「嘘も方便」などという簡単な言葉にとどまらず、もう1つの重要な意味を持っている。  

種族の壁、偏見の壁

 そもそも、「人間とポケモン」という二元論は正しいのか。  ボルケニオンが人間をひとまとめに扱うことにサトシが反発する流れは、物語中に何度も繰り返される。  「(サトシとボルケニオンを縛り付けている)鎖を作ったのはお前らだろ」「だから俺じゃないって」という口論もその1つ。  ボルケニオンは人間の根底にある悪意を信じて疑わない。  そして、実はこのバイアスは、最後まで否定されないのである。  映画の最後、ボルケニオンは、サトシたちにこう告げる。  「お前らみんな……ネーベル高原名誉ポケモンにしてやる」  これはWikipediaのサトシの項目にも載っているからネタバレではない。はず。  このセリフは、ボルケニオンがサトシたちに対してようやく受容を示す、綺麗なエンディングに見える。  しかし一方で、この結末は残酷だ。  ボルケニオンはどうして、「人間の中にも良いやつはいる」という結論を出さなかったのだろうか?  

『ズートピア』と「もう1つのズートピア」

 ここで話を一度『ズートピア』に移そう。なぜズートピアかって、あの作品もまた「種族の壁」と「バイアス」をテーマに描き、そして真正面から描き切った映画だからだ。あと、私が大ファンだからです。  『ズートピア』では、肉食動物と草食動物という大きな種族/カテゴリーの共存と衝突が描かれていた。  中盤、肉食動物が凶悪犯罪を起こす事件が多発したことで、肉食動物の生物学的、遺伝子的な危険さが問題視され、隔離すべきだという意見が草食動物の側から上がる。草食動物の方が数は圧倒的に多いため、社会の流れもそちらに傾く……。  最終的に主人公ペアであるニックとジュディの活躍によって、肉食動物と草食動物の違いは生物学的なものではなかったことが判明し、ズートピアは再び動物たちが共存できる街に戻っていく。    ところで、『ズートピア』は現行の設定になるまでに紆余曲折を経ていた。 『ズートピア』の制作史、および『ズートピア』のテーマは「差別」であるのか? ...

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ひとりごと 7年前

マギアナ、ドリー、青春ブタ、ガイド

暑い日々が続きますね。  最近は昼になると必ずクーラーをつけています。 --------------------  ブログリニューアルしたことをアピールするために8月は更新回数を増やそう、というのは7月時点である程度考えていたけど、  しかしマギアナブログになるのは考えてなかった。  なんでここまで執拗にマギアナの話をするかといえば、マギアナが素晴らしい作品というのはもちろんですが、  マギアナは私が評価しないと誰も評価しないであろう作品だからです。  『ズートピア』も『シン・ゴジラ』も『ファインディング・ドリー』も、評論大好きな人たちがこぞって観に行って評論レビュー書きまくってるけど、  そういう人たちは『ポケモン映画』なんて絶対に手を出さないわけで、  でもあの映画は実に深いメッセージが込められているから、私がやらなきゃいけないのです。お付き合いください。  近いうちにあの映画のストーリーのネタバレを含む記事を書きます。これを読めば映画を観なくても納得できるかもしれません。でも映画を観に行ってほしいです。  いや、あの内容で全然客が入ってないの本当にマズいって……。  少なくとも『ズートピア』の8割くらいの面白さはある。  『ズートピア』の8割というのは『アナ雪』と同等の面白さってことです。 --------------------  それはそれとして『ファインディング・ドリー』を観てきたんだけど、私は今、「ちゃんとしたレビューを書くエネルギー」をマギアナ以外に割いていられないし、ちゃんとしたレビューなんかいろんなところに落ちてるので、箇条書きで。  ・『ズートピア』筆頭に「ストーリー・細かい描写」の全てが特定のテーマ・メッセージと結びつく映画を褒めすぎた反動で、単純に面白い映画を評価できなくなっている自分が嫌だ。面白かった。  ・前半、ドリーの性格からくるトラブルがあまりにも多発しすぎてイライラしていたのだけど、後半でそれも1つの個性である的に転がっていくのを見て、自分の心の狭さを突き付けられた。人は誰でも得手不得手がある、というと説教めいた映画に見えちゃうけど、私が勝手に説教されただけです。  ・というか、私が『ズートピア』大好きなのは結局テーマ性でもストーリーでもなくてジュディの性格が自分に似てるから、で片付くんじゃないかという気がしてきた。  ・ところで、ディズニー/ピクサー映画はフルCGになってから年々ローカライズに力を入れていて、看板の文字が全部日本語になっていて、水族館のナレーターが八代亜紀(名前も八代亜紀)という力の入り具合だったんだけど、あまりにローカライズしすぎて日本の水族館に流れ着いたんだとしばらく勘違いした。でも実際にはカリフォルニアだったので、むやみなローカライズは逆効果なんじゃないかと思った。まあ字幕版見ればよかったんだけど。  ・デスティニーが可愛かった。デスティニーさんと付き合いたい。  ・タコが自動車を運転するシーンがあって、「タコですら運転できるのに……」ということで死にたくなった。 --------------------  『青春ブタ野郎シリーズ』最新刊(といっても文庫版では先月発売されてたもののKindle版)を読みました。  タイトルだけ聞くと家系ラーメンみたいだけど、『さくら荘』の系譜を確実に引き継いでいる作品です。めちゃくちゃ面白い。  たとえば『ズートピア』『輪るピングドラム』などの作品で描かれるのが、人類普遍の課題を暗喩するパブリックな世界だとすれば、  『青春ブタ野郎』が描いているのは実に素晴らしくパーソナルな世界で、  「思春期の男女の恋愛模様と複雑な人間関係、そして自我との戦い」みたいなものが全て。  世界の危機だったりもしないし、異世界転生だったりもしない。  まあファンタジーな要素はあるのだけど、ファンタジー要素について全くそれらしい理屈がない。  それはもう作品の前提であり根幹であるから、それにツッコミを入れるのは、たとえば『ズートピア』に「動物は二本足で歩いて都市を建造したりしない」と突っ込むのと同等に野暮なわけです。この作品で描きたいのはSF的な設定じゃなくて、あくまで人間。それ以外はオマケ。そういうストイックな姿勢が見えます。  『さくら荘』もそういう面はあったのだけど、ましろ筆頭にキャラクターの派手さだったり、ゲーム作りという夢を追う姿であったりにスポットが当てられがちだった。  そういう面がアニメ化に繋がったといえばそれまでだけど、今作はストイックに人間模様だけを描いています。だからめちゃくちゃ面白い。  高校生の時にこの作品があったら、さくら荘の比じゃなくハマってたかもしれない……。 --------------------  ところでリリカルスクールの3rdシングルとフルアルバム『Guidebook』の発売が決定しました。  3rdシングルももちろん楽しみなのですが、重要なのはアルバムの発売です。  私の大好きな『ワンダーグラウンド』の現メンバーでの再録! いやまだ発表されてないけどたぶんあるはず! なぜなら『ワンダーグラウンド』は前作アルバムより後に登場したシングルだから!  当ブログで毎年行っている「今年のベストソング」という企画がありまして、毎年、その年に発表された音源から選んでいるわけですが、  今年に関しては、今年4月に出会った『ワンダーグラウンド』にドハマリしているにも関わらず音源は昨年からあったという問題にずっと悩んでいました。  もしアルバムに2016再録版が収録されるならば、これを元にしてランキングに入れることができる。  大丈夫、去年だって『THE♡WORLD♡END / 堀江由衣』(シングル発売は一昨年、アルバム収録は昨年)をランクインさせたのだから。    あと、単純にリリスクが新譜を出すと各地でフリーのリリイベやってくれるのが嬉しい。  私、ららぽーととかショッピングモール行くのが好きなんですけど、行く理由がなくて困ってたんで、リリイベ目当てだと行く理由が生まれるんですよ。それだけで幸せ。 --------------------  最近、映画をたくさん観ている気がするけど、映画そのものを観たいというより映画の感想を観たくて・書きたくて映画を観ている気がする。  そういう理由で『シン・ゴジラ』が観たいのだけど、別に『シン・ゴジラ』そのものには全く少しも興味が湧かないので困ってる。  それはそれとして近いうちに『アリス・イン・ワンダーランド』観てきます。たぶん。    バランスよく更新していきたいのだけど、どうしても夏休みだとこういうレビューとかイベントの話題に寄ってしまうことは許していただきたい。とりあえず今月中にマギアナ考察、KindlePWとbath roomのレビュー、あとMS Band 2の記事を上げる予定です。アリスインワンダーランドは……まあ、めっちゃ面白かったら書くかも。 ...

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アニメ・ゲームのこと 7年前

『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は例年の #ポケモン映画 とどう違うのか。そして、ポケモンはディズニーを目指すのか

『ボルケニオンと機巧のマギアナ』の感想記事。つい数日前にも書きました。  【感想】『ボルケニオンと機巧のマギアナ』は、ここ数年のポケモン映画への不満を解消した傑作  しかし、この内容はネタバレがないように全力で配慮したもの。この程度ではまだまだ書き足りない。  というわけで、少しだけ(未視聴でも問題ないラインを探りつつ)ネタバレを交えながら、もう少し深くこの映画の魅力を掘り下げていきたい。  本当は中身についてネタバレ全開の考察記事も上げたいのだけど、そっちはそっちで近いうちに別の記事で……。  

「今年のポケモンは、本当に違う」

 そんな評判を去年も聞いた。一昨年も聞いた。っていうか毎年聞いた。  特に、去年の『フーパ』は、『エンテイ』以降十数年ぶりに脚本家が変わったので、今年は違う、今年は面白い、そんな話が結構流れていたと思う。  なので、私は期待して観に行き、そして、つまらなかった。  ここで「まあまあ面白かった」ということも可能だけど、それだとただの「ポケモン映画はいいぞおじさん」になってしまうのではっきりさせよう、『フーパ』はつまらなかった。伝説のポケモン大集合、というコピーありきのコンセプト。ラティ兄妹の再登場のようなファンサービスこそ旺盛だったけど、肝心のストーリーは全然大したことなかった。  これがポケモン映画の限界。大人が観ると「まあまあ面白かった」というところに収まるような、子ども向けアニメの枠を超えられないのかという失望。  なので今年も正直全然期待してなかったし、どうせあてにならないので前評判すら全く調べずに突っ込んだらめっちゃ面白かったので、こうして掌を返して手の甲側でキーボードを叩いているのだけど、  観てない人からすれば「今年は違うってあと何回言うんだよ」と思うのも致し方ない。  では、何がいつもと違うのか。それを見ていく。  

ピンチになるのがピカチュウではない

 一昨年公開された映画『破壊の繭とディアンシー』。XY映画第1作。  さすがに2年前の映画なので多少のネタバレは許してほしいのだけど、  この映画のラストで、ピカチュウはイベルタルの力によって石にされてしまう。  大切な仲間が命を奪われ、涙を流すサトシたち。  そこへ、再生をつかさどるゼルネアスが表れ、ピカチュウは生き返った。  さあ、この夏史上最大の感動!泣こう!  ……このラストシーンを観て、ポケモン映画のメインターゲットたる小学生がどういう感覚を抱くかはわからない。  わからないが、大学生の私の感覚としては、  毎週木曜に元気に冒険しているレギュラーメンバーの生死をストーリーの軸に持ってこられても困る。  こういう見方をすると身も蓋もないけれど、それにしたってさすがに茶番。生き残るに決まってるのだから。  同じポケモン映画でも、『ミュウと波導の勇者ルカリオ』なんかの展開は、どっちに転ぶか最後までわからなくて良かったし、前作『フーパ』が個人的に『ディアンシー』よりは楽しめた理由もそのあたり。  その点、今作の『ボルケニオン』。ボルケニオンとマギアナの安否がストーリーの主軸になっているので、最後まで展開が読めない。これだけでもかなり嬉しい。  

サトシの成長は望めない

 ポケモンのテレビアニメシリーズ中、最高傑作とされることの多い『ダイヤモンド&パール』。  あのシリーズは、サトシとヒカリのダブル主人公だった。  シリーズ開始前、サトシが続投するかどうかが前週まで伏せられる(AG編最終回でサトシがシンオウ行きの船に乗ることで初めてわかる)、という大胆な宣伝手法が印象に残っている。  どうしてダブル主人公が必要だったのか。  これもまた、身も蓋もない話になってしまうが、サトシというキャラクター、初代~金銀までならいざ知らず、もうとっくにキャラクターとして完成されている。  サトシを物語の主人公に据えると、「事件が起きました、マサラ人のサトシが解決しました、めでたしめでたし」という単純な物語になってしまう。ミステリーやアクション映画やコメディなどであれば、それでもいいけれど。  そこでDP編では、ヒカリというキャラクターをメインにすることで、サトシのバトル道とヒカリの成長物語のいいとこどりを行った。  続くBW編では、サトシの経験値をリセットして成長物語にしようとした結果、旧来のファンの怒りを買いまくり、シーズン2で軌道修正をする羽目になった。  XY編は何とかバランスを取ろうとしているっぽいけどちゃんと観てません。ごめんなさい。  まあとにかく何が言いたいかというと、サトシは主人公としてはあまりにも成長しきっている。CP2000くらい。    『ボルケニオン』は、サトシとボルケニオンのダブル主人公、というよりボルケニオンが主人公と言ってもいい。  この2人の対比を掘り下げるとネタバレになるので詳しくは割愛するけれど、  年齢・強さ・存在感などで一見するとボルケニオンの方が上の立場に来るところを、実はサトシの方が精神的に大人びている部分があって、ボルケニオンを諫めたりする。  このデコボコな関係、お互いを補完しあう2人組というのがバディものとして理想的。  「場慣れしている前主人公+新米主人公のダブルキャスト」という構図は『ナルニア国物語』から『相棒』まで古今東西で使われてきたメソッドであるけど、サトシという最強主人公を外せないポケモンアニメにおいてはこのダブル主人公制が最適解だということを改めて示した。  

ロケット団がいる意味

 前回の記事でも触れたことだけど、ポケモンアニメはAG編で、原作ゲーム(ルビー・サファイア)に出てこないロケット団をアニメオリジナルで続投させる決定を下してから、(ストーリー上重要な回であればあるほど)その扱いに困ることになった。ある意味ではサトシ以上に扱いあぐねていた。  その1つの解がBWの路線変更だったけど、残念ながら炎上した。  この問題が映画では特に顕著で、「映画オリジナルの悪役」が存在するのに、ロケット団は何をしに出てくるのか。  第三勢力として騒ぎに乗じてピカチュウを狙うにしろ幻のポケモンを狙うにしろ、うまくいくわけがないし、本筋の対決とは関係ないので、「中盤あたりで挿入される全く関係ないイベント」になってしまう。  全く関係ないイベントが挿入されることは物語においてノイズだ。  いや、そう思わない人もいると思うが、少なくとも思春期に『輪るピングドラム』というドラッグを摂取してしまった私としては、やっぱり物語は必然性と必要性だけで構築されてほしい。全てのオブジェクトに意味があってほしい。あらゆる映画はズートピアであってほしい。    この問題について、今回の映画の解決策は非常にスマートだ。  「ロケット団を敵陣営に協力させる」。今までのポケモン映画における「悪役の手下」をロケット団に兼ねさせることにしたのだ。(まあ悪役の手下も別にいるのだけど)  これによって、定番であるサトシvsロケット団の対決が物語に必要なステップになったし、同時にロケット団が今回の悪役の技術である「ネオ神秘科学」の力を借りることで、「いつもと違うロケット団」になった。  「いつもの(テレビシリーズのままの戦力の)ロケット団」がサトシに勝てないというのはもう自明。突然ニャースがタイマンでピカチュウに勝てるようになるわけがない。  でも、ネオ神秘科学の力を借りたロケット団なら、サトシたちを追い詰める展開もあり得るかもしれない?  そう思わせた時点で成功だ。今作のロケット団は、物語の重要なパーツとしてきちんと存在している。  あと、今作はニャースがかなり重要な役割を演じているのだけど、その話も掘り下げるとネタバレなので割愛。  

伏線・反復

 お前は伏線さえ張ってあれば満足なのか? と言われると「はい……ごめんなさい……」となるのだけど、  まあとにかく今作は「本当にポケモン映画?」っていうくらい伏線や反復が詰め込んであって、作品が綺麗にまとまっていた。  前回の記事で書いたことと同じ内容になってしまうのでもう少し踏み込んで書くと、  今作は「相手を信用できるかどうか」「異なる集団が共生していくことはできるのか」みたいなところが一貫してテーマになっていて、  「相手が本当のことを言っているかどうかわからない」というエピソードが大小様々に散りばめられている。  そこに対してラストシーンの意味がちゃんとある。  1つ1つのエピソードを拾っていくほど、ラストシーンは必然的で、この映画が明確に1つのテーマを描くために作られていることがはっきりする。  しかも、ラストシーン、基本的に割と説明過剰なポケモン映画において、サトシの台詞がすごくシンプル。  シンプルだからこそ光る。素晴らしいです。  

ポケモン映画の路線変更の理由

 で、ここからが本題。いや、ここまでも本題なのだけど。  ポケモン映画はどうして今年ここまで化けたのか?  もしかしたら大した理由なんてなくて、脚本家がアナ雪観て感銘を受けてちょっとそういう路線に舵を切ってみたくなっただけかもしれないけど、  私はこの物語の必然性を信じるのだから、当然、この物語を生み出した現実にだって必然性を信じる。  考えられる路線変更の理由は何か。  前年の『フーパ』が興行収入最低記録を更新したことで、スタッフに危機感が出てきたというのは、それなりに尤もらしい。  けれど、それに気づくのはもう何年か早くても良かった気がする。  もう1つ要因として挙げるとするなら、  任天堂キャラクターの映画事業進出に伴って、任天堂グループの映画戦略が見直されることになったのではないだろうか?    ポケモンは一応任天堂とは別会社になっているが、『スマブラ』や『amiibo』『バッジとれ~るセンター』などを見る限り、キャラクターとしては任天堂IPの1つとして扱うはずだし、  少なくとも世間では任天堂と株ポケの区別が全くついていないことがPokémon GO現象で判明してしまった。  現時点でポケモンのアニメ・映画は任天堂全体の事業戦略からは何となく切り離されているけれど、  今後マリオやゼルダやスプラトゥーンやF-ZEROの映画が順次作られていくとすれば、ポケモン映画は「任天堂ブランド映画の1つ」ということになる。  その時に、任天堂映画全体が「ポケモンのような低年齢層向けの映画」という目で見られる ...

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