かんがえごと 5年前

『さらざんまい』『青ブタ』に共通する「自己犠牲の重さ」とwowakaさんのこと

 ※この記事にはアニメ『さらざんまい』および映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』の一部ネタバレが含まれます。ご了承ください。 --------------------  テレビアニメ『さらざんまい』が先月最終回を迎えました。  『ウテナ』『ピンドラ』『ユリ熊嵐』の幾原邦彦監督の最新作、奇抜な演出と予測不能な展開、それでいて直球なメッセージ性と、様々な方面で話題になったアニメですが、  中でも過去の幾原作品へのアンチテーゼと思えるほどの「自己犠牲の否定」が描かれている点も注目を浴びていました。  特に「自己犠牲なんてダサい」というセリフが飛び出したことは、『輪るピングドラム』のラストを考えると、衝撃的ですらありました。

 リアルとファンタジーを常に行き来しながらも、最終回では主人公3人が現実世界で生きていく姿が提示され、死んだ人は帰ってこないし犯した罪も消えない現実に、残された者だけが残る、そういう地に足を着けたエンディングは、一見すると、愛する者のために世界を書き換えてしまう『ピングドラム』とは対照的のように感じられます。  ただ、さらざんまいで一稀が行おうとした自己犠牲が、ピンドラのそれとは全く違って、単なる現実逃避でしかない。それがなぜかと言えば、そもそも一稀は何かを諦めて他人の為に尽くそうとしているわけではないからではないでしょうか。  自己犠牲というのは、フィクションにおいて無条件に肯定、賛美されがちな行動です。  現実世界でそういう決断を下す機会はあまりない(自分が犠牲になることで他者がその分幸せになる、というシチュエーションがそもそも少ない)こともありますが、自分の不幸を顧みずに他者の幸福のために尽くす行為を他者から非難することが凄く難しい。  ただ、他人の為に自分が犠牲になるというのは、同時に、自分が被害者であり続ける絶対的な権利を得ることでもあります。  自己を犠牲にして死ぬ側はそれ以上何か考える機会もないけれど、犠牲になって生き残った側はその後悔を一生抱えて生きることになります。  『さらざんまい』における一稀と春河の関係も、ある種それに近いところがあって、下半身不随になりながらそれについて兄を責めない春河よりも、そうさせた罪をずっと背負って生きる一稀の方が苦しんでいる。  だからこそ一稀の自己犠牲願望がピンドラのそれと違って単なる逃避でしかない、ということでもあるのですが。  誰だって加害者より被害者でありたいし、自分の境遇が不幸であると思いたい。しかし、それは逃げでしかない。  「手放すな、欲望は君の命だ。」というフレーズも、後ろ向きな破滅願望ではなく、何がしたいかという前向きな希望を持たなくてはならないという意味にも取ることができるのではないでしょうか。 --------------------  『さらざんまい』の最終回と同じ頃に、映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』が公開されました。 https://www.youtube.com/watch?v=R_dtHtPOpTs  『ゆめみる少女』のテーマも自己犠牲でした。  特に、「自分が犠牲になれば相手が助かる」というシチュエーションで何をどう選択するか、ということが、『さらざんまい』よりもさらに明確な形でストーリーの核になっています。  しかも特筆すべきは、咲太、麻衣、翔子という主要な人物の全員が自己犠牲を望み、同時に犠牲になろうとする大切な人を止めるという構図になっているのです。  「相手の犠牲を受け入れて自分が生きていくことを選ぶ」というのは、ある意味では自分が犠牲になるよりよっぽど辛く過酷な決断であり、  同時に、自分が犠牲になるのは、そういう決断を周りの人に強制的にさせることでもあって、  それは本当に尊いことなのかと言われると疑問符が付きます。むしろ安易に楽な道に逃げ込んでいるだけではないかと。  『ゆめみる少女』が最終的にどういう結末に着地するかは映画で実際に観て頂きたいですが、とにかくそういう、本当に相手のためになる行為とは何なのかというのを考えさせられるストーリーでした。 --------------------  『さらざんまい』『青ブタ』からも自己犠牲の話からも一旦離れてしまうのですが、  最近、周りの人が急に死ぬ可能性を想像すること、それに対する無力さに絶望することが凄く増えていて。  自分が今何をどう選択しようと、大切な周りの人が事故だったり病気だったりで急に死んでしまうことがあって、それについては因果関係とか伏線とかも何もなかったりする、  不健康な生活を送ってても別に死なない人もたくさんいるし、健康的に生活してて急死する人ももちろんいるし、悪いことばかりしていてこいつ死んだ方が社会にとってプラスの影響大きいのにみたいな人に限ってしぶとく生きていたりする、  みたいな中で、自分がこの先の人生で起きる楽しいこととかよりも、そういう人が急に死んで二度と会えなくなることの辛さの方がよっぽど大きいと思うし、自分が生きてる理由って他人との別れを経験するためじゃないんだけどな、と思うと、凄く虚しくなるというか。  そういうことを考えるきっかけになったのは間違いなく4月にwowakaさんが亡くなったことで、  まあこのニュースも「そんなこともあったなあ」というレベルに落ち着いている人の方が多いだろうとは思いますけれど、個人的にはずっと引きずっていて、  というのは、訃報があった直後にも書いたことではありますが、自分にとって、一番大切なアーティストが亡くなったんですよ。そういう言い方が適切なのかわかりませんが。二番でも三番でもなく。  それまで、例えばニュースでの痛ましい事件だったり、遠い親戚の話だったりで、誰かが亡くなるという経験はありましたし、  有名人の中でも自分がファンであった相手……任天堂の岩田前社長くらいしかすぐには思いつきませんが、そういうことで悲しむ経験も多少はありましたが、  それが本当の意味で自分の身近な人も含めて誰にでも起こり得る可能性があることを今まではちゃんと理解できていなかったのだなと。  メンバーが若くして急逝したバンドとして、今回のニュースでベガスやフジファブリックの名前がよく引き合いに出されていましたが、  逆に言えば、本当に数えるほどしかいないわけで、  そういう、「起こるかもしれないけど基本起こらないと思っていても間違いがないと思われること」が起きてしまうと、やっぱり今後もそういう風にしか考えられないというか、  あえて乱暴な言葉を使いますけど、米津さんも数年のうちにいきなり死ぬんだろうなとか、そういうことを考えるわけです。  何でwowakaさんが死んで他の人が全員生きてるんだろうかと、数あるアーティストの中でヒトリエが一番好きですっていうファンの人以外は等価の喪失感を受けなくていられるのだなあと、  そういうの全部含めてもういろんなことに対するやる気がなくなってきていて。別に自分は不幸だっていうアピールがしたいわけではなく、そういうことが起きるのが特別なことではなく人生においてごく当たり前のことだとしたら別にこれ以上生きてる必要自体がないんじゃないかなと。  現状自分の中で、この人が死んだら困る……困るというか、受け入れがたいほど立ち直れないなと思うのは、wowakaさんを除くと、弟と母親と親友1人と飼い猫くらいしかいないんですよ。  それ以外の人の死は受け入れがたいほどではないというか、もちろん悲しいけどそれによってすぐに自分の生活に影響が出るわけではないなという。会社の同僚とか従兄弟とか同級生とか。でもそれは、本当の意味で、いないと困る人を失ったわけではないので。  あと、そうですね、自分が好きだったドラマに出てた俳優の訃報とか見ても悲しいは悲しいけど別に乗り越えられるでしょうし、  凄惨な事件とか事故で人が亡くなってニュースになる、例えば自分が高齢者の運転する車に轢かれて死んだら悲しむ人は増えるでしょうけど、それは一時的な感情の動きとしての悲しみなので。  正直言えば、昨年秋に祖母が亡くなった時も、ギリギリそっちだったなと思うんですよ。今めちゃくちゃ酷いことを言っていますけど、でももしその時に感じたものが本物の悲しみだったとしたらwowakaさんの訃報は初めてではないはずなので、あれは偽物だったんだなと思います。
 まあだからといってそれを引きずってるとかそういうことはなく……、むしろ、こんなにも自分は精神的ダメージを受けないものなんだなと、怖くなりました。親や兄弟や従兄弟が泣いてる中、自分だけ一滴も涙が出てこないのとか、ホラー。自分はあの告別式の場に居てはいけない人間なんじゃないかと思ってしまいました。  亡くなったことを聞いた時も、驚きはありましたが、取り戻せないこととして事実はすっと受け入れて、その後はずっと計算で動いていたような気がします。会社休めるなら休みたいなとか、夜行バスの中で小説書けるなとか、そういう打算的な部分をゼロにできない自分が本当に嫌だし、それを考えていること自体がサイコ。無理に平静を装っているとかじゃなくて、本当に平静だったような。 flexible, fruit, flow, fly
 だから今回のwowakaさんの訃報と同じくらい落ち込むとしたらその数人の誰かが死んだ時で、それ以外は大丈夫なんですけど、  でもそういう人たちが死ぬ時には順番があって、それであれば自分が最初だったらいいのになと。  逆に自分が死んで本当の意味で悲しむ人も多分その数人しかいないだろうし、その人のために何か長生きしようとかもあんまり思えなくて。  だから例えば自分が死ねば自分の家族が助かるみたいなシチュエーションだったら全然自分が死んだ方がいい、それは別に他人のためではなくて自分の利益だけを追求してそういう選択になると思うんですよ。  自分が死ぬのってそんなに嫌なことかなあとも思うし。死後の世界とかを信じているわけでもないので、自分が今死んだとしたら、米津さんの新譜が聴けないとか、Splatoon 3がプレイできないとか、オードリーのオールナイトニッポンが聴けないとか、それを悔しく思う機会もなくなるので。  むしろ自分がwowakaさんより先に死んでいたらこういう風にならずに済んだのに、生きているせいで悔しく思う機会を与えられてしまっているわけで、生きているのが失敗だったとしか言えないですよね。 --------------------  で、まあこういうことを考えるのが普通の人間かと言えば別にそんなことはないんだろうなと思うのは、さらざんまい全編を通して燕太が取る行動……自分の欲望のために他人を傷つけたりというのを平気でできることからも見て取れて、  そういう自分本位な人間が自分の命を投げ打って他者を助けることは確かに尊いと言って差し支えないのかなあと思うと、  自己犠牲のようなものに尊さが与えられる条件は、その人に欲望があるかどうか、もっと言えば、自分が生き続けることに価値を感じているかどうかになるのかなと。  正直そういう燕太の行動には1ミリも共感できなかったし何でああいう思考に至るのか全くわからなくて、サッカーゴールを自作自演で破壊するところとか意味不明だったのですが、ただ、そういう人間もいるんだろうなとも考えます。良い悪いとかそういう話ではなくて。  これもこのブログではずっと言っていることで申し訳ないんですが、安倍首相とか松本人志みたいな人の思考回路とか行動原理とか本当に理解できなくて、何であんなことを言ったりしたりできるのかわからないんですけど、たぶんそれは一生わからないし、違う人間だからという以外に理屈のつけようがない、  というよりも、この世界には自分と違う考え方をする人間がいるという事実を受け止めないと、正しくその人たちと同じになってしまうというか、社会の多様性を認めるっていうのはそういうことなので。  だから燕太についても、そういう人間もいる、ということはわからなければならないと思うし、幾原監督も「『ピンドラ』や『ユリ熊嵐』の結末は、あくまであの主人公たちにとっての正解パターンでしかない」ということを伝えたかったのかもしれないなと。 https://twitter.com/itoi_shigesato/status/619659284435959808  つまりwowakaさんが亡くなったことについても、  こういう風に引きずってる人ばかりではないのも当たり前だと思うし、悲しいことは悲しいこととして切り分けながら、楽しいことを楽しめる方が良いと思うのですが、  それこそ震災の時の不謹慎厨みたいなことを言うつもりはなく、ただ自分に対しては、そういう楽しい思いをするべきではない……というよりもそういう全部を含めて無駄な気がしてならないんですが、  そうは言いつつも私だって、wowakaさんが亡くなってから3ヶ月経った今も別に自殺とかもしてないし普通に社会生活を送っているし、テレビ観たりラジオ観たりして楽しいこともたくさんしているんですよね。  結局自分がこの3ヶ月していることが何かと言えば、人生に対して期待しない、世界の残酷さとか自分の無力さ、それらに対する憤りをずっと抱えていることも事実としてありながら、  ただ自分がそれについて何かできるわけでもないので、wowakaさんが亡くなったという事実に対して向き合うことを止める時間を増やして、考えても仕方ないことを考える代わりにラジオを聴いたりテレビを観たりしている、それは、  快楽に興じることを意図的に避ける行為によって自分を罰したところで、それで何か世界が変わるわけではない、別にwowakaさんの死の意味が変わったりもしない、という理屈によってしています。  それは別に悪いことじゃない、というのはもちろん当たり前です。私もわかっています。  が、それってまさにwowakaさんの死を克服して過去のものとして前に進む行為そのものであるように思うし、  だから私は他の方と同じようにwowakaさんの死を乗り越えた側の人間なんですよね。実際には。  ということは、結局これだけいろいろ書いておきながら、きっと自分は母親や兄弟や親友が死んだ時もそうやって数日後にはオードリーANNやテラスハウスで爆笑している人間だと思うんですよ。  だからここまで書いてきたことは全部嘘です。すみませんでした。 ...

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最近の話題 5年前

『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』感想とアニメ1話のこと

現在私が追っているラノベは青ブタと禁書しかなくて、  10月から両方のアニメが一気に始まるとともに最新刊が同時に出てという個人的に最高のお祭りが先週あったわけですが、とりあえず青ブタの話からします。

アニメ1話『先輩はバニーガール』

 AbemaTVで配信中のほか、Prime Videoでも1話は無料(2話以降有料)なのでいろいろ観れます。まだの方はぜひ。  とはいえまあ……原作既読からするとどうももやもやしてしまいますね。  いろいろ展開早すぎて。アニメにする以上は仕方ないのでしょうけど。  アニメにするにあたって、「生理か?」みたいな作中でパンチのあるシーンばかり拾ってしまった結果、咲太が典型的なイタい中二病みたいになってしまうのも、うーん……という。  ニコニコだとそのへんの無粋で何もわかってないコメントが多すぎて最後まで観れませんでした。AbemaTV最高!  「お前誰?」「人間ですが」というぶっちゃけ原作でも痛々しかったやり取りをさらっと流したり、スタッフ側もそういう感覚は持ち合わせてるようなのが救いですけど、小説では魅力的なやり取りが声と映像で見せられると全然なくなっちゃってるなあと……。  何でもない会話だったり心理描写だったり地の文だったり、そういう細かいところの積み重ねと読者への揺さぶりがこの作品の最大の魅力だと思うので、あんまりアニメ向いてないんじゃないかなあと思いました。  まあでもこれは原作大ファンだからこそ感じる不満であって、アニメから入ったら全然気にならないのかもしれません。  アニメに関しては学校・社会への風刺・問題提起みたいなことを全部捨てて、心理描写の丁寧さも捨てて、  不思議現象を論理で解決するストーリーラインと伏線回収の美しさにフォーカスしようと最初から割り切っているのかもしれません。それでも普通に面白いアニメとしては成立するでしょうし。  でもアニメ気に入った方はその2万倍面白い小説読みましょうね!  

『ランドセルガール』感想

 そんなわけで青ブタ最新刊ランドセルガール。  気づかなかったのですが、いつの間にか文庫版発売日とKindle版発売日がズレなくなったんですね。  8巻は1ヶ月遅れという嫌がらせだったので、8巻9巻だけBook☆Walkerで買っちゃったのですが。  別に2巻くらい買い直すのは良いんですけど、禁書が相変わらずKindle版発売されてない……。  禁書もKindle版配信してくれれば心置きなくBook Walker捨ててKindleに絞れるんですけど。まあでも次から青ブタはKindleでいいかな。  まあそれはそれとして、ここからネタバレです。  小学生の麻衣が登場という前の巻の終わりがどう転ぶかと思ったら、そうではなく、今回は咲太自身の悩みを解決するという方向でした。  ちょうど個人的にも家族のことだったり兄弟のことだったり……まあいろいろあったので、そのあたりも含めてかなり心にくる回でした。人が誰かから必要とされること、必要とすること、必要とされているという確信を得られること。  ラストでは鴨志田先生の、物語的な演出のために勿体ぶらずに作中時間をぶっ飛ばすクセが発動。  Just Because!もさくら荘もそういうところがありましたが、その2つは最終巻の話だったので、今回は特に衝撃。普通だったら絶対引き延ばしそうなのに……。  とはいえ、時間軸としては大きく飛びましたが、8~9巻で張られた伏線や残された謎もいくつかあり、そこに踏み込んでいく話になりそうな気がします。  ……しかしそもそも大学生って「思春期」に含まれるのか?  ひょっとしたらそのあたりもテーマに組み込まれるのかもしれません。「いつ大人になるのか」みたいな話がちらほら出ていましたし。  映画化が発表された原作6巻『ゆめみる少女』と7巻『ハツコイ少女』で物語的にはひと段落していて、それまで張られていた伏線が一通り回収し終えました。正直あとがき読むまで終わるのかなと心配になりました。  7巻から8巻まで1年半空いたのは、Just Becauseだったりで鴨志田先生が忙しかったこともあるのでしょうが、作品スタート時に計画していたネタを出し切ったところで、次の展開をどう組み立てるかを考えていたのではないかと思います。  綺麗に高校生の話として終わらせずに、大学生編を銘打つのは、当然何か考えがあってのことでしょうし、  であれば次巻でいきなり終わることもなく、結構大きな仕掛けがこれから始まるのではないでしょうか。とても楽しみです。 ...

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解説記事 6年前

『青ブタ』アニメ化記念・青春小説コンテストに参加しました

9月になりました。  いろいろあってブログ更新が遅くなってしまいましてすみません……。  いつもと違って本当にいろいろあったのですが、ここ2週間ブログ更新が滞った最大の理由として、  小説を書いてました。  いや、ほんと、もう誰も覚えていないし私も積極的に隠していることですが、このブログの「Our Story's Diary」という名前は、自作小説を載せていたところから始まっていたりしまして、  とはいえもう小説なんて10年くらい書いていないんですけど。  10月からアニメ化される『青春ブタ野郎』シリーズの、二次創作小説コンテストが開催されるというのを見まして、  「思春期症候群をテーマにしつつオリジナルキャラを使ったほぼ一次小説コンテスト」かつ「原作者・鴨志田先生が選考に参加」という、結構凄い条件になっていて、  せっかくだし勢いで書いてみました。……勢いで、というか、何となく手を出してみたらだいぶ苦戦して2週間くらいかかったのですが……。 https://kakuyomu.jp/works/1177354054886731340  『砂時計少女は愛されバタフライの夢を見ない』というタイトルです。  もちろん、最近全然小説書いていないような人間が食い込めるようなものでもないでしょうから、  正直入選することなんて全く期待してないし、コンテストの結果もどうでもいいのですが、  こういう機会でもないと小説なんてなかなか書かないだろうし、自分の大好きな作品だし、テーマ的にも自分の書きたいことをうまく盛り込めるフォーマットだと思ったので、参加してみました。  これのPV数とかが結果に関係するのかどうかもよくわかってないのですが、  まあ興味のある方は読んでください。お願いします。  ストーリー的に面白いかどうかというのを二の次で書いてしまったので、読んでどうかよくわかりませんが……。  テーマ的には完全にこのブログでいつも書いていることだし、というかこの前の青春高校絡みでプチ炎上した後に書いたことが割とそのままぶち込まれてるし、  要するに青ブタ関係なく自分の思想が漏れ出してるだけなので、果たしてあれを小説と呼んでいいのかという疑問もあるくらい、  割と書き上げた時点で目的が達成されたタイプの自己満足なので、ぶっちゃけ読まれても読まれなくてもどっちでもいいです。 --------------------  そういうことなので、たぶんこれは誰も読まないと思うので特に解説とかもしないつもりです。  自分の作品について作品外で語るの大好き人間なのでいろいろ言いたくもあるのですが、一応コンテストだし、二次創作だし、そこそこにしておきます。というか短編だし特に裏話とかもない。  あ、ただ、このコンテスト5000字制限なんですけど、  なぜか前日まで1万字制限だと勘違いしてまして。  8月8日の夜、夜行バスの中で書き上げて、何とか1万字に収まったー! と思って要項見たら5000字って書いてあって、完全に詰んだと思いました。  で、どうしたかというと、思春期症候群パートを全部削りました。  前半の5000字で、主人公が不思議な現象に巻き込まれ始める部分を書いてたんですけど、全部捨てて、いきなり内容の相談から入りました。  まあ、本当に書きたいことはSFパートではなかったので、結果的には無駄が削ぎ落されて程よくコンパクトに収まったかもしれない……。唐突な展開なのはそういう感じです。  あとタイトルも大変でした。本家のタイトルを踏襲するかどうかが特に、他の参加者の方もかなり悩んだんじゃないかとw --------------------  小説もまたそのうち書くかもしれません。短編は本当にきつかったので、できれば長編で。楽しかったです。  そして青ブタアニメ化が本当に楽しみ! 10月なんてだいぶ先だと思っていたのにもう来月です。ろこどる並みにタイトル切りされそうな作品ですが、何とかたくさんの人にその面白さが伝わりますように。  禁書3期もSAO3期もあるし、10月は楽しみなことがたくさん。何とか生きていけそうです。 ...

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