甘え
4/30放送の『岡村隆史のオールナイトニッポン』を聴きました。 はじめに、わざわざ断りを入れるまでもないことですが、この件の発端となった岡村さんの発言に対しては一切擁護する気もありません。内輪ノリとしても許容される範囲を大きく踏み越えてしまっているし、どうにか擁護しようと頑張っていた(いる)深夜ラジオリスナーに対しても強い軽蔑を覚えます。同じ深夜ラジオ好きとして、ああいうものが許されることが深夜ラジオの魅力であってはならないとも思います。 それと同時に、この発言を理由に降板署名を集めるような活動に快楽を見出したり、この機に乗じて自分の持論を拡散しようとしたりする人間も同程度に醜いです。批判自体はあって当然ですが、貧困・性産業・性差別などの社会問題を本当に解決したいのであれば、岡村隆史という一人の人間に見せしめのように懲罰を与える行為は、社会の分断を煽るだけで何のプラスもない。目的を見失って正義に酔っているとしか思えません。 発言そのものに対しては、これ以外に語りたいことはないので終わりです。 矢部さんの公開説教の内容は、最初から最後まで、発言そのものの内容ではなく、その発言に至ってしまった岡村隆史という人間のメンタリティについてでした。 「事件そのものがしくじりではなく、そういう事件を起こしかねない『しくじりの種』を全員がずっと抱えていて、それが事件によって初めて可視化される」というのは、オードリー若林がIKEAの椅子を破壊した事件の翌週にANNで行った発言ですが、まさに今回の岡村さんの発言はそうでしょう。 岡村さんのスリリングな発言を許容し続けたスタッフ・リスナーも含めて、いつこういう問題になってもおかしくない環境にずっとあった。やっぱりどこかで全員が甘やかしてきて、それが今回のことに繋がったのだろうと思います。 発言そのものを追及しない矢部さんの説教の内容を疑問視する声もあるようですが、そもそも冒頭30分かけて一人で謝罪をしていたわけですから、あの発言自体に対してあれ以上怒っても意味がないし、いくら謝罪しても何かが変わるわけでもない。 そこからどう変わっていけば良いかにフォーカスしたことは正解だったと思いますし、だからこそ、様々な人が聴くべき価値のあるものになっていました。 私自身は、岡村さんのANN……どころかナイナイANNすら聴くのが初めてなので、別に何の思い入れもない人間なのですが、この回に限っては、番組のリスナーに限らず、全てのラジオファン、もっと言えば、全ての独身が自分事として聴くべき放送、くらいまで広げても言い過ぎではないと思うほどに、重いメッセージの含まれた放送でした。 なので、これ以降に書くのは、ナイナイや岡村さんに対して思うことでもなければ、リスナーと感想を共有したいというものでもなくて、 単にこの件を自分にどう重ねたか、という個人の日記でしかありません。だからこそひとりごとカテゴリーに入れているので。 フェミニストが蔑称と化したこの国で - 沈澱中ブログ 他に読んだわけではないですがこの記事が感想として良かったです。ぜひそちらへどうぞ。 こういう感想を求めている方は本当に全然違うので今すぐ閉じてください。すみません。 -------------------- このブログにずっと書いてきたことなので詳しくは語りませんが、私はTwitterで何回かプチ炎上をして、2年前に完全にツイートするのを止めて、自分の考えをブログにしか書かないようになりました。 それによって、見知らぬ他人と議論するという不毛な行為を一切しなくなり、精神的なストレスを受けることは間違いなく減りました。(そもそも数年前よりはそういう過激な思想をブログにも書かなくなっていますが) さらに先月からはリアルの知り合いと繋がるためだけのアカウントもログインするのを止め、完全にTwitterとの接触を断ちました。 また、4年前に自分にとって大切な友人だと思っていた相手2人からほぼ同じタイミングで一方的に連絡を絶たれるということがあって、それ以降、人間関係に対してすごく消極的になり、「自分を傷つける可能性がある人、もしかしたら自分のことを嫌いかもしれない人とはそもそも関わりを持たない」という形での自衛を行うようになりました。それ以降は、ごく一部の……3つくらいしかない友人グループとしか会っていません。 つい2ヶ月前には、そんなグループの1つでLINEでの誘いを完全に無視されるということもあって、いよいよ自分は誰にも求められていないんだなという気持ちをさらに強くしたばかりでした。 で、自分では、自分がそういう行動を取れるようになったことを成長だと思っていました。 自分が傷つくことも減ったし他人を傷つけることも減った。自分がそれまで何度も起こしてきた人間関係の不必要なトラブルを避ける術をついに身につけられたのだということに、手ごたえを感じてすらいたのが2019年でした。 昨年末の記事でも、そういう主旨のことを書いてきたと思います。
でも、それは間違っている、つまり、自分とは全く違う行動原理で動いていて、本当に言葉の通じない、同じ日本語を喋っているはずなのに何も通じ合えない人間がいる、むしろそういう人がほとんどである、なぜなら自分の方が普通ではないから。 そういうことを、遅すぎるんですけどやっと頭で理解し始めたというか。 で、それは結局他人に対して期待しない、信頼しない、ということの裏返しでもあって、だから他人に対して過剰な肩入れをしない。 「この人に好かれなくてもいい代わりに、この人が不幸になっても二度と会えなくてもいいし明日死んでもどうでもいい」というラインを明確に引いていかないと結局自分が不幸になるだけだなと。 振り返り | Our Story's Diaryところが、つい最近……会社でもプライベートでも、様々な理由でどうしても簡単には避けられない人間関係が増えてきていて、 そういうところでやっぱりトラブルを起こしてしまったり、客観的にはトラブルまで行かなくても自分が落ち込むようなミスをしてしまったり、または実際に表出するまでに至らなくても他人に対する醜悪な感情が自分の中にあることを再確認してしまったり、ということが多くあって、 やっぱり自分はダメなんだな、と落ち込んでいました。 そういうタイミングで今回の放送を聞いて、なるほど、これって逃げ癖だったのか、と腑に落ちたところがあって。 つまり、人見知り、恋愛下手、などというのは、個性ではなく欠点であって、 自分がそれに対して取ってきた行動、そういう性格の根本を変えることなくやり過ごそうとする生き方は単なる問題の先送りでしかなかった。 そういう自分の弱さと向き合うことから逃げ続けていても、一生そのままではいられなくて、どこかで必ずその代償を支払うことになる。 矢部さんから「飲みに誘われてもマネージャー経由で断る」「ありがとう、ごめんなさいをオフで言えない」などの性格的な問題を伺わせるエピソードを次々に上げられ、それが全て今回の騒動に繋がっていることを突き付けられた上で「性格変えろ」と止めを刺される岡村さんの姿は、自分の未来でもあり現在でもあるような気がして、胸が痛くなりました。 -------------------- 「自分の性格は変えられないから、それを受け入れた上でどう生きていくかにシフトする」というのは、ポジティブに生きていく方法論として、 いろんなところでそれなりによく耳にする考え方でもあると思いますし、 そんなに特殊なものでもないと思っていました。 が、それって実はすごく自分にとって都合の良い、楽な生き方を選択していただけであって、 「自分は変われない、というのは甘え」と言われたら全く反論できないなと。 「自分はこういう人間だから仕方がない」という主張は、大なり小なりそれによって誰かに迷惑をかけている以上、加害者の一方的な開き直りでしかない。 何かミスをしてしまった時に「でも自分はそういう性格だから」というところに原因を求めるのは、確かにその通りなのだけど、それを理由に反省しなくて良いということにもならない。罪人にそんなことが許されていいはずがない。 そして、そうやって「自分はもうこういう人間だから、ちょっとした失敗をするのは避けられない」と思って、それについて反省しなくなると、 ちょっとでは済まない失敗をしたり、または自分が許容範囲として設定している以上の不快感を与えてしまったりして、その時にはもう取り返しがつかなくて、それによって大切な人やものを失ってしまうのだろうなと。 「自分は変われないから、そういう自分を認めてくれる相手だけと関わるようにする、認めてくれない相手とは関わらない」、というのも、同様に単なる逃げでしかなくて。 結局、今回の岡村さんの騒動って、意図的にしろそうでないにしろイエスマンしか周りにいない環境、ぬるま湯にずっといてしまったことで起きたことだと思うのですが、 それってまさに自分が今やっていることだなと。 それこそ、容易に炎上してもおかしくないような歪んだ思想を、Twitterに書かずにブログに書くようになり、ブログにも書かないことを本当に気心の知れた友人にだけ話すようになりました。 でも、これを続けていくと、いつブログであっても許されないことを書いて炎上してもおかしくないし、そういう話をしても大丈夫だと思っている相手にも愛想を尽かされて友人を失ってしまうのでしょう。 「自分が正しいに違いない」という思い込みそのものを捨てずに、それを認めてくれる環境でしか自分の感情を発信しなくなるというのは、その場しのぎでしかなくて、その思い込みを捨てなければ根本的な解決にはならない。 -------------------- そういう自己防衛を極限まで突き詰めたような状態に岡村さんが陥った背景として、当然ながらそれに至る過酷な環境があった結果なのは言うまでもありません。 矢部さん自身も、様々な苦労をしてきたことは認めているし、人間不信になるような過去の恋愛についても知っているので理解できる、と発言していました。 確かに芸能界のトップでお金も地位もある今の岡村さんが「可哀想さん」でないのは間違いないのですが、だからといって、「めちゃイケの顔・フジテレビの象徴」と言っても過言ではない状態で、様々な批判の矢面に立たされ続け、ストレスで精神を病んで仕事を休まざるを得ない状態まで追い込まれた人のことを、 「恵まれた環境に居続けて他人を見下す大悪人」であるかのように語る人たちは、いくら何でも刹那的すぎないかと思ってしまいます。 今でも独身なのも、本人の性格の問題ももちろんあるにせよ、当然ながら相手の女性との関係性としてそういう良い巡り合わせがなかったわけで、自業自得、自己責任と言ってしまうのはさすがに問題があるようにも思います。 ただ、そういう環境によって、自分が被害者であるという意識から、自分に対する甘さが強くなっていったのは事実なのだと思います。それは、本当に被害者であるからこそ、余計に性質が悪いのだとも思いますが。 表面上はどうであれ、心の中で、「こんなに社会から迫害されているのだからこのくらいのことをしても罰は当たらない」「自分がしているよりもっと酷いことを自分は他者にされている」「本当は自分の方が正しいに違いない」みたいな感覚を、私自身も実際に持ってしまっているなと、改めて思いました。 岡村さんの話とはあまりにもスケールが違いすぎるので同列に語るものではないのですが、 例えば、上に書いたような4年前の話、それまで親友だと思って週4くらいのペースで会っていた相手に、何か喧嘩したというわけでもなく突然無視される、というのを一度経験してしまうと、「好意を持っているように見える相手も本当は自分のことを嫌っているに違いない」というのが被害妄想ではなくなってくるわけで、それは客観的に見ても人間不信になるに足るエピソードだろうと思いますし、 人間関係以外の部分でも、2年前に離婚して別居している父親が一切の養育費を払っていないので家族の生活費を負担しなければならない状況があと数年続くことが決定づけられているとか、自分が中学の頃から大好きで10年以上追い続けていたアーティストが30歳という若さで急逝してしまったこととか、 自分が恵まれていない人間であると言える材料はそれなりにあると思います。 が、やっぱりそれは言い訳でしかなくて、自分が楽な方に逃げるための免罪符として使っているだけなんですよね。 これまでの人生でどんなことがあったとしても、それを理由に許されることなんて一つもないし、これまで何の苦労もなく生きてきたが故に他人に優しくできる人の方があらゆる面で優れていて、それと比較されてダメな人間だと判定されることは当然で、そういうことがあった時に、自分のプライドを守るための言い訳に使うことはできるかもしれないけれど、それには何の意味もない。ただ負け続ける、逃げ続ける人生を送ることにしかならない。 -------------------- ただ……最後にこうやって書いてしまうと結局まだ甘えが残っているじゃないか、となってしまうんですけど、 上に書いたようなことを全て完璧にこなして自分の弱さを完全に克服できるほど強い人間がどれほどいるんだろうか、とも思うんですよ。 他人に対する不満だったりがあってもそれを一切誰にも言わない、ということを徹底できればそれでいいのだろうけど、そうではないからどこかに捌け口を求めている。でも、岡村さんにとってのそれが深夜ラジオという場だったはずで、だからこそ矢部さんが降板を申し出た時に一人でも続けるという選択をした。 しかし、それも含めて否定されてしまった。「地上波じゃなければ良かった」というのは確かにこの問題に限って言えばそうなんですけど、根本的にはそうじゃないんですよね。「これくらいだったら言っても大丈夫だろう」というラインを引く行為そのものが甘えなので。岡村さんがこれを機に結婚相手を見つけることができれば良いのですけど、逆にますます誰にも本心を打ち明ける場がなくなり孤独になっていく可能性も十分にあるだろうと思います。 そして、そういうことが誰に対しても許されないのであれば一体何のために生きているんだろう、とも思ってしまうのです。余計なことを言わなければいい、というのは言うまでもなく正論なんですけど、そもそも自分の考えていることの中から、これが正しいことでこれが正しくないこと、なんて線引きができるはずもない。 そういうことを突き詰めていくとやっぱり自分は誰とも関わらないのが一番なんじゃないか、というところに落ちてしまうのですが、とはいえ人間が社会的動物である以上は、そんなことができるはずもない。だったらそういう人間は死んだ方が良いんですけど、そうやって死をちらつかせること自体、それによって自分を被害者側に位置づけようとする甘えでしかなくて。 だからこそ性格を変えろ、という話になってくるのですが、そう簡単に変われたら苦労しない、という気持ちもあります。また、そもそも、自分が常に正しいということがないのと同様に、自分に対して意見をしてくる相手が常に正しいということもないのが厄介で。矢部さんの場合は結婚して女性の凄さ、自分よりも優れていると実感した、と言っていますが、やっぱりそう簡単に他人の意見に全て従うというのも難しいなと思います。 特に今のこういう社会状況だと、頑張ったところで楽しいことが何もないのでどんどん虚しくなってモチベーションが削がれていく感じもあるので、そう簡単に明日から生き方を変えよう、とはなかなかできない。そういう意味で、結婚していると、そうやって自分を変えていくごとにちゃんとポジティブな手応えが得られる環境だから変わっていけるのだろうな、とも思いますが、 ただ、そうは言っても変わっていかなければならないし、できない、ということ自体が甘えであり逃げであることを改めて気づかされた以上は、そういう甘えからも脱却していかなければならないなと思います。 このブログも……もちろんすぐには変わっていかないと思いますが、そういう自己否定による自己防衛みたいな醜い言動は少しずつ減らしていかなければならないかなと思います。それ自体は他人に迷惑をかけない範囲でのストレス解消になるのであれば、誰にも見せないところで続けていく方が良いのかも、しれませんが。とにかく変わっていかなければならないし、そういう自己反省にすべき放送として、聴けて良かったなと思っています。 YouTubeの違法アップが既に100万回以上再生されているようですが、5/7まではタイムフリーで聴けますので、ぜひ。 http://radiko.jp/#!/ts/LFR/20200501010000 ...